一書説教(52)「テサロニケ人への手紙第一~キリスト・イエスにあって~」Ⅰテサロニケ5:16~18


「信仰生活は一人で行うことは出来ない」と言われます。何故、出来ないのでしょうか。信仰生活の中には、仲間とともに取り組む事柄があるからです。(聖書を読む、祈るなど、一人で取り組めることもあります。)愛し合うこと、仕え合うこと、教え合うこと、戒め合うことは、一人では取り組みようがない。ともに取り組む仲間が必要です。「一人で信仰生活を送れる」と考えるのは、「一人で結婚生活を送れる」と考えるようなもの。「一人で信仰生活を送れる」と考えるのは、そもそも信仰生活が何か分かっていないことになります。

 キリストを信じる者は、信じたらそれで終わりではありません。神の子どもとして、神の民として、生きる。誰とともに信仰生活を送るのかと言えば、神様がともに集めて下さった教会で取り組む。教会の仲間とともに、信仰生活に取り組みます。このように考えますと、自分の信仰生活にとって、教会の仲間がとても重要な存在であることを確認出来ます。これまで、私たちは教会の仲間のことをどれだけ意識し、生きてきたでしょうか。

 忙しい毎日を生きている私たち。自分のこと、家族のことだけでも精いっぱい。多くの人が、他の人のことまで気を配ることが難しい状況。しかし、だからこそ、信仰の仲間に目を向ける大切さを確認したいと思います。互いに存在を喜び、互いに信仰を励まし合い、互いに祈り合う。神様が与えて下さった信仰の仲間を大切にする思いを、新たに持ちたいと思います。


聖書六十六巻のうち、一つの書に向き合う一書説教。通算、五十二回目。新約篇の十三回目。今日はテサロニケ人への手紙第一に注目します。

 新約聖書にはパウロが記した手紙が多く収録されていますが、この手紙は最も早く記された物の一つです。(パウロ書簡の中で、最初に記されたものは、ガラテヤ書かテサロニケ書第一と考えられます。どちらがより早くに書かれたのか正確には分かりません。)誕生して間もないテサロニケ教会に対する熱烈な愛が記される書。パウロの、信仰の仲間に対する愛、教会に対する愛を感じながら、味わいたい書となります。

一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 テサロニケ人への手紙が記されたのは、パウロの第二次伝道旅行のこと。伝道旅行中に誕生した教会へ、その伝道旅行中に記されたものです。手紙の背景が、使徒の働き十七章、十八章に記録されています。

 第二回の伝道旅行は、波乱に満ちたものでした。伝道旅行を企画したパウロは、恩人バルナバを誘います。しかし同行者のことで喧嘩別れとなってしまう。当初の予定を変更し、パウロはシラス(テサロニケ人への手紙ではシルワノと表記)とともに伝道活動を開始します。旅の前半で、テモテとルカが合流し、第二次伝道旅行は、パウロ、シラス、テモテ、ルカの旅となります。パウロはどこで伝道活動をするのか考えますが、願うようになりません。自分の計画が神様によって止められたと言います。

 使徒16章6節~7節

それから彼らは、アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った。こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。


自分たちの計画は止められ、その結果進んだのはヨーロッパです。第二次伝道旅行の中心はヨーロッパでの伝道となります。その最初の町ピリピで、パウロとシラスは不当に逮捕され、不正な裁判により、鞭打ち、投獄されます。神様に導かれて進んだ先での苦難。しかも、この出来事が原因でパウロはピリピに留まることが出来なくなり、ルカだけはピリピに残り、一行は次の町に進みます。それがテサロニケです。

 使徒の働き17章1節~3節

パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。そして、『キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです』と説明し、また論証した。


 ローマと東方をつなぐ幹線道路沿いにある港町。政治、軍事、商業の中心地として栄えた、この地方の州都。大都市テサロニケ。より多くの人に福音を伝えるためには、多くの人が行き来する都市で伝道することは効果的なこと。ここまで進んで来たパウロたちからすると、腰を落ち着けて滞在したいと願う都市だったと思います。パウロはいつものように、会堂に行き、イエスこそ約束の救い主であることを説明し、論証しました。

 しかしこの期間が実に短く、安息日三回だったと言います。パウロ一行がテサロニケに滞在していた期間はもっと長く、安息日以外にも伝道していたと思われますが、安息日に会堂に集まった者たちに主イエスを紹介したのは三回でした。何故、大都市でこれ程短い期間だったのか。ここでも騒動が起こり、滞在することが出来なくなったからです。

 使徒の働き17章5節、10節

ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。

・・・兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。


 残念無念。伝道が上手くいっていなかったのではなく、この間にもキリストを信じる者がおこされていました。しかし、テサロニケを離れなければならない。思い通りにいかない伝道旅行です。続くベレアでも伝道していると、テサロニケで騒動をおこしたユダヤ人がかけつけて、さらに騒ぎが起こります。結局、パウロはベレアに留まることが出来ず、アテネに進むことになります。

 使徒の働き17章13節~15節

ところが、テサロニケのユダヤ人たちが、ベレアでもパウロによって神のことばが伝えられていることを知り、そこにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした。そこで兄弟たちは、すぐにパウロを送り出して海岸まで行かせたが、シラスとテモテはベレアにとどまった。パウロを案内した人たちは、彼をアテネまで連れて行った。そして、できるだけ早く彼のところに来るようにという、シラスとテモテに対する指示を受けて、その人たちは帰途についた。


 この旅はヨーロッパに入った段階で、パウロ、シラス、テモテ、ルカの四人でした。(他にもいたかもしれませんが、聖書から分かるのは四人です。)しかし、ルカはピリピに留まる。そしてこの段階で、シラスとテモテはベレアにいて、パウロはアテネに進む。一行が散り散りになっている状況。この時のパウロの気持ちはどのようなものだったでしょうか。振り返りますと、想定外のことばかり起こった旅です。一緒に行こうと願ったバルナバとは喧嘩別れ。願った地域での伝道は神様によって止められ、導かれたピリピ、テサロニケ、ベレアでは騒動が起こり滞在出来なくなる。波乱万丈、混乱の連続。疲れ果て、弱り果てても当然と思える旅程でした。

 願うようにはいかず、状況に振り回され続け、しかしそれでも誕生したテサロニケ教会。パウロは、アテネ滞在の時か、続くコリント滞在時にテサロニケ人への手紙を書きます。誕生して間もなく、離れることになった教会に向けて、何を書いたのか。一体どのような内容なのか。実に興味深い書となります。


 そのテサロニケ人への手紙第一の概観ですが、全五章、大きく前半(一~三章)と後半(四~五章)に分けられます。前半は、テサロニケ教会への思い。繰り返し、テサロニケ教会を喜び、愛していることが語られます。後半は、キリスト者としての生き方、具体的な勧めとなります。

 まずは前半。あの手この手で語られるパウロの教会の思いを確認したいと思います。

 Ⅰテサロニケ1章1節~3節

パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたにありますように。私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。


 パウロ、シルワノ(シラス)、テモテとテサロニケでの伝道に従事した三名の名で挨拶が告げられます。短い言葉の中に、パウロらしい表現が散りばめられ、テサロニケの教会への愛が綴られます。

「すべて」「いつも」「絶えず」という言葉は、パウロが祈りや感謝でよく使う表現です。この手紙の最後で「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事において感謝しなさい。」と勧めていますが、この手紙の冒頭に出てくる「すべて」「いつも」「絶えず」は、テサロニケ教会に関することです。

 パウロがテサロニケ教会の何を思い起こしているのかと言えば、「信仰」と「愛」と「望み(希望)」でした。後に記されるコリント人への手紙の一節、「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。」が思い出されるところ。それもテサロニケ教会の「信仰」は「働き」を伴い、「愛」は「労苦」につながり、「望み」は忍耐を生み出していると言います。観念的な信仰、愛、希望ではなく、生き方に信仰、愛、希望が現れているというのです。短い挨拶の言葉だけでも、パウロたちがいかにテサロニケ教会のことを覚え、愛しているか、その思いが詰められていることが分かります。そして、このようなテサロニケ教会への感謝や愛が、この手紙の前半の中心的な内容となります。


 この前半部分には、使徒の働きには記されていない、パウロとテサロニケ教会の関係が分かる記述も多くあります。騒動が起こり、離れざるをえなかった。しかしテサロニケ教会のことが気になる。パウロは何度もテサロニケ教会へ行こうとしたが、妨げられたのです。(2章17節~18節)時折もたらされる知らせによると、テサロニケ教会は様々な苦難を味わうようになっている。(3章4節)そこで、パウロの代わりにテモテが教会を助けるために行くことになります。(3章1節~2節)そのテモテが戻って来て、パウロたちが報告を聞き、ますます喜びに満たされたと記されます。


Ⅰテサロニケ3章6節~10節

ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。


予想外のことが続き、迫害、騒動に追い立てられた伝道旅行。身も心も疲れ果てた状態だったでしょう。ここでも「私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにある」と言っています。

そのパウロにとって大きな慰めとなったのが、テサロニケ教会が信仰に堅く立っていることでした。「心が生き返る」とまで言います。凄い表現です。パウロにとって、教会がどれ程大事な存在なのか。信仰者にとって、祈り合い、励まし合うことがどれ程大事なことなのか、示されている言葉です。

 「信仰生活において最も大事なのは神様との関係」と言われます。信仰の仲間との関係を大事にし過ぎると、その関係が壊れたら信仰生活から離れることになる。人に会うために礼拝に来るのではなく、神様に会うために来ることが大事。確かに、その通りですが、では信仰の仲間との関係が大事ではないかといえば、そうではない。教会での人間関係は信仰生活の上で極めて大事であることが示されます。

 皆さまは、自分以外、誰の信仰生活に注目し、それを応援し励まそうとしているでしょうか。自分自身が主にあって堅く立つとしたら、それを「心が生き返る」とまで喜んでくれる人はいるでしょうか。パウロたちと、テサロニケ教会のような関係を、キリストを信じる者の中で築き上げたいと願うところです。


 手紙の後半は信仰者への具体的な勧めになります。

 Ⅰテサロニケ4章1節

最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを私たちから学び、現にそう歩んでいるのですから、ますますそうしてください。


 他の書簡と比べて、勧めの言葉も優しさが感じられます。聖なる者として生きるように、光の子ども、昼の子どもとして生きるようにという大きな勧めもあれば、淫らな行いを避けるように、自分の手で働くことを名誉とするように、指導者を重んじるようにという具体的な勧めもあります。

 これら勧めの中で特に有名なのは、死と復活、キリストの再臨についての教えです。死と復活について、知っておいて欲しい。望みのない人々のように悲しむことのないように。主イエスの死と復活を信じる者は、主イエスが今一度来られる時に、主イエスと同じように復活する。この希望を忘れないようにと勧められます。このテーマは、続く第二の手紙でも扱われますので、当時の教会で死と復活、キリストの再臨についての誤解や論争があったと思われます。

 テサロニケ教会への勧めの中で、もう一つ有名なのは、次の言葉です。

 Ⅰテサロニケ5章16節~18節

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


 聖書全体の中でも有名な言葉。多くの人に愛された言葉。とかく不平不満、罵詈雑言、怒りや憎しみに囚われやすい私たちに、主イエスにある者の生き方、神の民、神の子らしい生き方の指針となる勧めです。

 ところで、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝している人」を想像すると、皆さまは誰を思い浮かべるでしょうか。皆さまの周りに、この勧めに従って生きている人はいるでしょうか。

今回、私がテサロニケ人への手紙を繰り返し読み返して読み思ったのは、この手紙の中に示されているパウロ自身の姿が、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝している人」でした。繰り返し述べられる喜び、感謝、祈り。何について喜び、感謝し、祈っているのかといえば、テサロニケのキリスト者、教会についてです。キリスト・イエスにある生き方の一側面は、信仰の仲間に向き合うこと、教会に思いを馳せることなのだと教えられます。

 以上、テサロニケ人への手紙第一です。あとは是非とも、それぞれで読み通して頂きたいと思います。パウロの教会に対する思いと、教会に対する勧めを、直に味わって頂きたいと思います。そして私たち自身も、キリスト・イエスにある者として、信仰の仲間に向き合い、喜び、祈り、感謝に取り組む者でありたいと思います。

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