Ⅰコリント(20)「自由人にして奴隷」Ⅰコリント9:19~26


私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。使徒パウロによって書かれた手紙は、「これが本当に、キリスト教会と言えるのか」と思われる程乱れたコリント教会の実態を明らかにし、私たちを驚かせてきました。

知恵を誇る者たちの争いと仲間割れ。日常生活のトラブルを教会内で解決できず、この世の裁判所に持ち出して黒白をつけようとする、浅墓な行動。自分の母と通じてさばかれた者、遊女の元に通いながら、これを恥じぬ者など、目を覆いたくなる不品行。さらに、奴隷の兄弟を見下す自由人がいるかと思えば、些細なことで離婚する者等、この世の価値観をそのまま教会生活に持ち込む人々もいる。

この様な教会の混乱ぶりを聞き、心を痛めたパウロが一つ一つの問題に対し、処方箋として書き送った手紙。それがコリント人への手紙でした。先月、私たちが礼拝で読んだのは9章の前半。偶像にささげた肉を食べてよいのかどうかと言う質問に対する使徒の回答です。

当時ギリシャの町には、偶像が溢れていました。太陽の神に月の神、大地の神に海の神、雷の神から森の神に至るまで、多くの神々が存在すると信じられていた社会。この様な社会に、この世界の造り主、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれるのは、当然のことです。

古代の宗教の中心は、神々に対するささげものと後に続く祝宴でした。町の市場で売られている肉も、多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、出された肉を食べることに後ろめたさを感じる兄弟姉妹がいたようです。この様な中、教会内で「偶像にささげた肉を食べてよいのか、否か」と言う問題が起こり、意見は二つに割れました。

ある人たちは、肉を食べるのは偶像を認めることになるとして、反対します。これに対し、知識を誇る人々は、真の神は唯一であって本来偶像は何でもないもの、何でもない偶像にささげられた肉も何でもないものである訳で、食べる事には何の問題もなしと主張しました。

「食べることには問題なし」とする人々は、「食べるべきではない」と考える人々のことを、偶像への恐れを吹っ切ることのできない未熟な信仰者と見下しました。自らの正しさに拘り、敢えて肉を食べ、信仰弱き人の心を踏みにじったのです。この様に、隣人の心に配慮せず、自由と権利を振り回す人々を、パウロは戒めました。ことばだけでなく、自らの生き方を通して、キリスト者の自由とは本来何であるかを示したのです。

そもそも、教会に仕える者が、生活費を教会から受け取る権利があることは聖書においても認められていました。パウロ以外の使徒たちもそうしていました。しかし、コリント教会の弱さに配慮したパウロは、この権利を用いませんでした。自給自足の生活を営みながら、福音と教会に仕えていたのです。当然と思われる権利を放棄し、自ら労苦して、隣人に仕える自由。「私たちがイエス・キリストから与えられた自由とはこの様な自由である」と、使徒は証したのです。

そして、今朝の箇所。パウロは、さらにキリストを信じる者が与えられた自由とは何であるのか。これまでの歩みを振り返り、証しを続けます。


9:19「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。」


これが、多くの人に感銘を与えてきたキリスト者の自由についての宣言です。イエス・キリストを信じる者は、誰からも支配されることのない自由人であること、同時に、すべての人の奴隷として仕える自由を与えられていることを示して、世々のクリスチャンたちの生き方に大きな影響を与えてきました。しかし、これはパウロが考え出したことではありません。主イエスご自身が教えてきたものです。主は「誰が一番偉いのか」を議論し、争う弟子たちをこう諭しました。


マルコ10:4245「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」


「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」コリント教会の中には、パウロがあたかも金儲けを目指して伝道している者であるかのように誹謗する人々がいました。それに対して、「私は生活費を受け取る権利を放棄し、人々にしもべの様に仕えてきた」と、使徒は語るのです。そして、以下三つの例を挙げてゆきます。


9:20~23「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人たちにはー私自身は律法の下にはいませんがー律法の下にある者のようになりました。律法の下にある人たちを獲得するためです。律法を持たない人たちにはー私自身は神の律法を持たない者ではなく、キリストの律法を守る者ですがー律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです。弱い人たちには、弱い者になりました。弱い人たちを獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。何とかして、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです。」


先ずは、ユダヤ人に対してです。「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。」と言っていますが、パウロ自身はユダヤ人でした。しかし、当時のユダヤ人としては珍しくギリシャ語にもギリシャ文化にも通じた教養の持ち主でもありました。ユダヤに生まれ、ユダヤで育ち、ユダヤの伝統の中で生活してきたユダヤ人とは、文化的背景が異なっていたのです。

勿論、パウロは、「人はイエス・キリストを信じるだけで救われる。」と言う福音を信じていました。この福音の真理を守るために断固戦いました。しかし、ことが真理の問題ではない場合には、なしうる限り伝統的なユダヤ人に配慮し行動したのです。

同じ日本人同士でも、生まれ育った家庭や環境によって、好みや考え方、価値観が異なることがあります。私が結婚したばかりの頃、驚いたことの一つは、妻の作る味噌汁の何とも言えない味気無さです。妻の味噌汁は、私にとって味噌汁ではなく味のない澄まし汁で、全く食欲がわきません。

妻の家では、どんな食物も味付けは薄味が上品で健康的という文化があり、何事につけ濃い味を好む私の家とは食文化が異なっていたわけです。皆様の家では、この様な場合どう対応するでしょうか。ユダヤ人にはユダヤ人のようになるとは、夫がへりくだって妻の作る味噌汁を飲むことです。あるいは妻がへりくだって夫の好みに合わせることです。どちらもできないなら、各々が譲り合ってよく話し合い、各々の家なりの味噌汁を作ることではないでしょうか。

次は、律法を持たない人々、ギリシャ・ローマの異邦人たちに対しては「律法を持たない者の様になった」と述べています。この様な配慮は、パウロの説教に見ることができます。使徒は旧約聖書に精通し、それを重んじるからユダヤ人でしたが、ギリシャの国では、ギリシャ人の宗教や文化をよく理解した上で、語っていました。

一例として、アテネの町での説教を見てみましょう。使徒の働きには、アテネに到着したパウロが、町が偶像で一杯なのを見て心に憤りを覚える姿が記録されています。それにも関わらず、町の広場で語り始めた使徒は、アテネの人々に対する共感と尊敬を示しました。


17:22,23「パウロは、アレオパゴスの中央に立って言った。「アテネの人たち。あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。」


勿論パウロは、アテネの人々が拝んでいる神々を真の神と認めたわけではありません。使徒が認めたのは、彼らの宗教心の篤さです。後のところを見ると、彼らの文化にも真理の一端があることを認めています。「私はキリスト教と言う真理を知っている」と胸を張り、大上段に構え、上から語るのではない。むしろ、相手と同じ土俵に立ち相手の良い点を見出し、心からの尊敬を示してゆく。アテネの人々に接するパウロの姿は、信仰の異なる人に仕えるとはどういうことかを、私たちに教えてくれるものではないでしょうか。

先週、私はジョー宣教師、立石主事とともに、ある研修会に参加してきました。その中で、何人もの参加者から「山崎先生、あのジョーさんと言う人は、もしかすると日本生まれのアメリカ人ですか?」と聞かれました。彼らは「来日してからの短い間に、あれ程自然な日本語を喋り、日本の文化を理解する宣教師はそうはいない。」と感じたらしいのです。

人々は、私たちの行動を通して、「この人は自分たちのことを本気で理解しようとしている。本気で近づこうとしている。」そう感じます。そういう人から仕える姿勢を感じ、そういう人から話を聞こうとするのだと思います。

果たして、自分は信仰の異なる家族に、友人に、職場の同僚や地域の隣人に、何をもって仕えているのか。福音を語る前に、どれだけ彼らのことを理解し、仕えようと努めているだろうか。私たち一人ひとり、振り返りたいのです。

最後の例は、弱い人々です。クリスチャンと言っても、生まれ育った環境や能力によって、聖書の教えに対する理解度は様々です。キリスト教的な環境に生まれ育ち、聖書に親しむこと長く、教えを理解するのに敏い信仰者もいます。他方、異教的な教えの影響を強く受けたり、あるいは教えを理解する能力に欠けるため、なかなか信仰の確信に立つことができず、恐れや不安に捕らわれ易い信仰者もいるでしょう。

しかし、正しい聖書理解を持つ者が、信仰弱き者を見下すことは許されません。むしろ、正しい知識を持つ者がへりくだり、信仰弱き兄弟姉妹に配慮すべきことを、パウロは教え、行動で示してきました。だから、使徒は「私は肉を食べない」と宣言しましたし、教会から生活費を受け取る権利を用いてこなかったのです。

以上、ユダヤ人にも、異邦人にも、信仰の弱い者にも、自分の権利を捨て、仕えるのが、キリスト者の生き方であることを、パウロは説いてきました。誰からも自由でありながら、すべての人のしもべとなる生き方とはどの様なものかを、証してきたのです。

主イエスも、私たちのことを「あなたがたは世の光、地の塩」と呼びました。油はどうやって人々に光を提供するのでしょうか。自分を燃やすことによってです。塩はどうやって食べものに味付けするのでしょうか。自分を溶かすことによってです。

誰から強制されたわけでもなく、ただ神の愛に押し出され、自分の権利を捨て、隣人のしもべとなることを望む自由。主イエスが十字架の死をもって与えてくださった尊い自由の意味を考え、日々しもべとして生きる者でありたいと思います。

しかし、主イエスを信じる者が、自動的にこの様な生き方を身につけることができると、パウロは考えていたわけではありません。むしろ、競技会で活躍する選手たちが、その日に至るまで行ってきたトレーニングのことを思えと勧めています。


9:24~27「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。」


晴れの舞台に立つ選手たちは、それまで訓練と節制に打ち込んできました。選手は賞を受けるため、自分自身と戦ってきたのです。彼らが目指したのは、松の葉で編んだ優勝の冠を頭に被ることでした。町の人々は優勝者を称賛しましたし、パウロもその栄誉を十分認めています。

だからこそ、選手たちが、朽ちる松葉の冠のため、人々から称賛を受け取るために、あれ程の自己訓練と節制に努めるとすれば、朽ちることなき義の冠と神が与えてくださる天国での祝福された生活を目指す私たちが、彼ら以上の自己訓練と節制に努めない理由があるだろうか。パウロは、コリント教会の人々を、また私たちを励ましているのです。

最後に、宗教改革者ルターのことばをもって締めくくります。「私たちは、もはや自分自身に生きないで、キリストと隣人の為に生きる。それは溢れるばかり豊かな神の恵みに対する私たちの感謝であり、応答であり、喜びの奉仕であり、愛である。」

皆様は夫として妻に、妻として夫に仕えているでしょうか。親として子に、子として親に仕えているでしょうか。この教会に集められた兄弟姉妹に仕えているでしょうか。職場でともに働く、信仰の異なる同僚、学校でともに学ぶ、信仰の異なる友、社会でともに生きる、信仰の異なる隣人に仕えているでしょうか。よく人に仕えるために、必要な自己訓練と摂生に努めているでしょうか。

高慢で自己中心な私たちの罪を赦すため、十字架の死に至るまで仕え、しもべとなられた主イエスの恵みに感謝し、私たちも心から家族の、兄弟姉妹の、社会でともに生きる隣人のしもべとなり、仕える者でありたいと思います。今日の聖句です。


ガラテヤ5:13「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

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