Ⅰコリント(30)「愛を追い求めなさい」Ⅰコリント14:1~19

実際に数えたことはありませんが、恐らく愛をテーマとした文学、音楽、絵画、彫刻などの作品は相当な数になると思われます。皆様も愛をテーマとした本、音楽、絵画など、心に残っている作品をお持ちかもしれません。新聞の人生相談に寄せられる相談内容も、親子の不和、兄弟や地域の隣人との争い、夫婦喧嘩など、多くは愛の欠如が原因と思われます。まさに私たちの人生において愛程大切なテーマ、課題はないと言えるかもしれません。
愛についての名言、格言の類も数えきれない程ありますが、ラ・ロシェフーコーという人がこんな言葉を残しています。「真実の愛は幽霊のようなものだ。 誰もがそれについて話をするが、それを見た人はほとんどいない。」皆様はこのことばをどう思われるでしょうか。「その通り」と同意するでしょうか。それとも、反対するでしょうか。
もし主イエスと聖書を知らなかったら、私もこのことばに心から賛成していたと思います。しかし、主イエスを知った今は、主イエスにおいて真実の愛を見ることができると言えます。主イエスを信じる人の心には賜物として神の愛が与えられるという聖書の教えも心から信じています。何よりこの教会で奉仕を始めて以来30年以上、教会員の方々による多くの愛のわざを見、私たち家族も愛をいただいてきたことに感謝しています。
しかし、そうであるなら、何故神の愛を与えられた者の集まりである教会において、争いがあり、分派が生まれるのでしょうか。何故このコリント教会のように様々な問題が起こるのでしょうか。
それは、私たちに与えられた愛が植物の種の様に小さなもので未成熟、自己中心という罪の性質の影響を受けているから。私たちはみな愛を学び、愛することにおいて成熟してゆく途上にある者だから。そう、パウロは教えていました。
先週の礼拝で、四か月ぶりにコリント人への手紙第一から説教をしました。長らくこの手紙から離れていましたので、先週はコリントの町について、コリント教会が抱える様々な問題について振り返り、合わせてこの手紙の大まかな流れについて確認しました。
コリントは貿易が盛んで、商業が発展。その富は当時のギリシャ・ローマ世界随一と言われた経済都市。富を追求する人々の住む都市の常として、繁栄の裏側で道徳的は腐敗し、欲望と快楽の町としても知られていました。
紀元50年頃、この大都市にキリストの福音を伝え、教会を建てたのが使徒パウロです。その後一旦教会に別れを告げたパウロがおよそ4年後、対岸の町エペソで宣教中のこと、コリント教会から次々と残念な知らせが届いたのです。仲間割れ、性的不道徳、離婚、富める者と貧しい者の不和、偶像にささげた肉を巡る争い、礼拝の混乱、キリストの復活を疑う人々等、驚くような問題ばかり。こうした問題に対応するため、パウロによって書かれたのがコリント人への手紙第一でした。
先週学んだ13章は「愛の章」とか「愛の賛歌」と呼ばれ、結婚式でも良く読まれるため、聖書の中でも有名なところです。この箇所だけが取り出され、読まれることも多いのです。しかし、私たちはこの13章が前の12章から後の14章まで、「礼拝の混乱」という問題が扱われている段落の中に置かれていることに心を留めたいと思います。
つまり、使徒は12章で、誰のどんな賜物や奉仕が優れているのかを争い、混乱していたコリント教会の礼拝の様子を指摘しました。人目に立つ華やかな賜物や奉仕も、目立たない地味な賜物や働きも、すべてが教会にとっては必要不可欠であり、賜物や奉仕に上下の差別なしと説きました。
続く13章では、問題の鍵は愛にあると考えたパウロが、すべての賜物の中で最も優れた賜物は愛とし、愛を持って教会のことを考え、行動するよう勧めました。そして、今日読み進める14章では、愛をもって礼拝の混乱という問題を解決するとはどういうことなのか、具体的な処方箋を示してゆくことになります。

14:1~4「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」

「愛を追い求めなさい。」という命令は非常に強い意味を持ち、「熱心に、たゆむことなく、すべてのことにおいて愛を追い求めなさい。」と訳すべき言葉です。前の章で「すべての賜物の中で一番すぐれているのは愛」と宣言したパウロの熱気を感じます。
その上で、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めよと具体的な指示が出されました。この預言とは未来のことを語る予言ではなく、今日でいう説教に近いもの。但し神のことばを直接受け取った預言者の教えを指すと考えられます。新約聖書完結以前の時代には、こうした預言者が礼拝で活躍していたのでしょう。そして、パウロは預言と異言を比較し、預言の賜物を優先すべきと勧めます。
異言には人に話すものではなく、神に話すものという特色がありました。「誰も聞いていないのに、自分の霊で奥義を話す。」とあることから、コリント教会の異言は専ら個人的な神との交わりのなかで語られるものであるため、周りの人には理解不能な音声だったようです。それに対し、預言は人に向かって話すもので、人に理解でき、人の徳を高め、人に慰めを与えることができる点が特色でした。
以上から、異言はその人自身の信仰の成長にはつながるものの、聞いている人の益にならない。それに対して、預言は聞く人の信仰の成長につながり、益になるという点で、異言にまさるというのが使徒の考えでした。
けれども、コリント教会では余程異言派が優勢だったのでしょう。異言で祈る人、賛美する人がもてはやされる一方、預言を語る人が低く見られていたのかもしれません。パウロは異言の賜物自体は良いと認めるものの、教会の徳を建てるという点から、預言する人の奉仕がまさると念を押します。

14:5~6「私はあなたがたがみな異言で語ることを願いますが、それ以上に願うのは、あなたがたが預言することです。異言で語る人がその解き明かしをして教会の成長に役立つのでないかぎり、預言する人のほうがまさっています。ですから、兄弟たち。私があなたがたのところに行って異言で語るとしても、啓示か知識か預言か教えによって語るのでなければ、あなたがたに何の益になるでしょう。」

コリント教会の人々の異言へのこだわりは相当強かったのか。パウロは自分がコリント教会の礼拝で奉仕する場合を想定して、彼らを説得します。異言を語るのは良いとしても、その意味が理解できる言葉で説明されなければ、礼拝に集う人の益にはならない。「異言だけでは不十分で、啓示か知識か預言が語られる必要があるのではですか。」と言うのです。ここに登場する「啓示と知識」は預言とほぼ等しく、神のことばまたはその説明を指すと思われます。
さらに、説得が続きます。今度は笛、竪琴、ラッパと楽器を例に挙げての説得で、「ここまで言わなければ分からないのか」と、異言派の人々の頑固さに手を焼く使徒のため息が聞こえてきそうです。

14:7~9「笛や竪琴など、いのちのない楽器でも、変化のある音を出さなければ、何を吹いているのか、何を弾いているのか、どうして分かるでしょうか。また、ラッパがはっきりしない音を出したら、だれが戦いの準備をするでしょう。 同じようにあなたがたも、舌で明瞭なことばを語らなければ、話していることをどうして分かってもらえるでしょうか。空気に向かって話していることになります。」

笛や竪琴は昔から世界中の国々でお祭りの際など用いられ、人々の喜びや悲しみを音の長短、強弱、高低の変化、組み合わせによって表現してきました。もしその音に変化がなければ、何を表現しているのか誰も感じ取ることはできません。戦闘のラッパも同じです。軍隊用のラッパは勇ましい響きで戦士の心を奮い立たせます。悲しみの調べで戦友の死を悼みます。また、ラッパの音が明瞭でなければ、軍隊は前進すべきか後退すべきか迷ってしまうでしょう。
「だから礼拝でも、明瞭な言葉で神からのメッセージが語られ、説明される必要があるのではないですか。明瞭でなければ、その人は空気に向かって話しているのと同じではないですか。」子供にも分かるような例をあげ、説得を試みるパウロが気の毒にも思えてくるところです。
なおも、教会の建徳、礼拝に出席する人々の益という点からの説得が続きます。

14:10~13「世界には、おそらく非常に多くの種類のことばがあるでしょうが、意味のないことばは一つもありません。それで、もし私がそのことばの意味を知らなければ、私はそれを話す人にとって外国人であり、それを話す人も私には外国人となるでしょう。同じようにあなたがたも、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。そういうわけで、異言で語る人は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。」

以前アメリカ長老教会の礼拝に出席した時のことです。牧師がゆったりとした口調で語る場合は、何とかついてゆけるものの、早口でまくし立てるタイプの牧師の説教は全くチンプンカンプンで理解できない。賛美歌もメロディーは知っているものの、歌詞を目で追うのに精一杯で、とても賛美すると言う思いにはなれない。「ああ、自分は外国人なんだな」と、置き去りにされたような寂しさを感じました。英語でさえこうなのですから、まして言語ではなく、意味不明の音の羅列でメッセージや祈りを聞かねばならなかった人々のことを思うと、私でも同情したくなります。
せっかく神が与えてくれた賜物を、他の人々の思いなどお構いなしに用い、「良い奉仕ができた。」と自己満足に陥っていた人々を、使徒は戒めたのです。
そして、続くことばを見ると、コリント教会の異言派の祈りは、周りの人にとってチンプンカンプンであったばかりか、本人にとっても理解できないものだったようです。

14:14~17「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈りますが、私の知性は実を結びません。それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。そうでないと、あなたが霊において賛美しても、初心者の席に着いている人は、あなたの感謝について、どうしてアーメンと言えるでしょう。あなたが言っていることが分からないのですから。あなたが感謝するのはけっこうですが、そのことでほかの人が育てられるわけではありません。」

 霊的であることを重んじる人は知性を軽んじる傾向があります。知性を重んじる人は霊的なることを切り捨てる傾向があります。しかし、「霊で祈り、知性でも祈る。霊で賛美し、知性でも賛美する。」とある通り、パウロにとって霊的であることと知性とは協力関係にありました。礼拝において聖霊に導かれることと、知性を働かせることの両方を大切にしながら祈りをささげ、神を賛美すべきこと、私たちも教えられます。
そして、締めくくりはパウロの口から発せられた痛烈なことばです。

14:18~19「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。」

 自分自身異言の賜物を与えられていることを感謝しながらも、教会の徳を建てるためには、一万の異言よりも知性による五つのことばを語りたい。この一言で、自分のことより人のこと、自分の益より人の益。徹底的に人に仕え、人を愛するパウロの姿が私たちの目に浮かんできます。
 最後に、今日の箇所を読み終え、皆様と共に一つのこと確認したいと思います。
 それは、コリント教会の異言派の人々が持っていた、自分の賜物と奉仕により人々から認められたいという自己顕示欲、承認欲は、私たちの中にも存在していると言うことです。彼らが与えられた賜物と礼拝に集った人々を利用したように、私たちも自己顕示欲、承認欲を満たすため、与えられた賜物と周りの人々を利用していることがないかどうか。顧みる必要があると思うのです。
 自己顕示欲を満たしたいという罪の性質は教会にとどまりません。家庭、職場、地域社会、私たちが活動する場所どこにでもついて回る問題です。しかも、この承認欲は人は気がついても、本人は気がつかない。非常に自覚しにくい、厄介なものです。 
しかし、この罪に気がつくヒントがあります。もし、自分の奉仕や働きが人に認められず、非常に落胆して、それを続ける思いを失ってしまうなら、私たちの心は自己顕示欲に支配されている危険性があると思います。もし、自分の奉仕や働きを認めてくれない人を責めたり、実際には責めなくても、責める思いが断ち切れないなら、私たちの心は自己顕示欲に縛られていると言えるでしょう。
そんな時は、神の愛を受け取り、奉仕や働きに全く関係なく神に愛されていること、神に認められていることを喜び、安心したいのです。その上で、人を助けるためにできる奉仕、なすべき働きは何かを考える。人に認められたら喜び、人に認められなくても責めたり、失望したりせず、神には十分に愛され、認められていることを信じて、人を助け、人の徳を建てる働きを実践し続ける。その様な歩みを私たち皆で目指したいと思うのです。今日の聖句です。

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