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一書説教(53)「テサロニケ人への手紙第二~待ち望む者として~」Ⅱテサロニケ3:6~13

「人は死んだらどうなるのか。」私たち人間にとって最大の問題です。「死後に生命はあるのか。」「身体は滅びても霊魂は存在するのか。」「霊魂だけでなく身体の復活はありえるのか。」死後の問題は、古今東西、皆が皆ぶつかる問題。人間であれば、向き合わざるをえない問題と言えます。 実際、哲学者、思想家、宗教家、学者、医者、偉人から一般の人、実に様々な人が死後について論じてきました。しかし、その答えは様々です。死後が「ある」という人も、「ない」という人もいる。いや、あるとかないとか決めつけるのは良くない、「分からない」とするのが正しいという人もいます。私が神学生の時、公園伝道で知り合った小学生の子に、会話の流れで「死んだらどうなると思うか」と聞いたことがあります。その答えは「考えたくない。」というもの。どうして考えたくないのか聞いたら、「怖いから」でした。「ある」「ない」「分からない」に加えて、「考えたくもない」もあるのです。  仏典(阿含経)にある話として、次のようなものがあります。「ある若者が『僕の友人に地獄へ堕ちるほかないような悪党がいた。そこで、その友人に地獄へ行ったら至急にそのことを知らせてくれよと約束したのだが、いまだに何の知らせもないところを見ると、これは地獄のない証拠だ。』と言うのです。それを聞いた者は『いや、いや、そうではあるまいよ。おそらく君の友人は、今ごろ娑婆の君に連絡報告の義務があるから、一時でもいいから釈放してくれ、とたのんでいるかもしれない。冥途の獄吏たちは、こんな悪党をたとえ一時でも釈放することはならぬ、と取り押さえて許さないのであろう。されば報告のないのが、むしろ地獄のある証拠ではないか。』と言い返した。」という話。実に面白く興味深い結論です。便りがないことが、死後はないという根拠にも、死後はあるという根拠にもなりうるのです。 「人は死んだらどうなるのか。」その答え次第で、その人の生き方は変わります。人間にとって極めて重要な問い。それにもかかわらず 答えがない世界に、イエス様はご自身の復活をもって、明確な答えを示して下さいました。 死後があると考えた方が良いとか、死後はないと考えるのが妥当とか、死後については分からないとするのが正しいとか、死後のことは考えるだけで恐ろしいとする世界に、ご自身の復活という

ペンテコステ「この約束は~ペンテコステ~」使徒2:38~41

キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことを記念するペンテコステの聖日となりました。主イエスが十字架で死に復活された後、弟子たちに聖霊なる神様が与えられると約束されたことが実現した記念の日です。 一般的に日本の中で、キリスト教の記念日と言えば、キリストの誕生を祝うクリスマス、キリストの復活を祝うイースターは知られていますが、ペンテコステはあまり知られていないように思います。キリストを信じる私たちも、ペンテコステを記念して盛大に祝うということをしていません。あの ペンテコステの出来事は今の私たちにどのような意味があるのか。今の私たちにどのように関係しているのか。今一度、確認したいと思います。   十字架で死に復活された後、イエス様は四十日間、弟子たちに現れました。 その時間は貴重なものだったでしょう。弟子たちからすれば、天に昇られるイエス様から、直接教えを受ける最後の機会。おそらく多くの事が語られ、教えられたと思うのですが、使徒の働きではごく簡単にまとめられています。  使徒1章4節~5節 「 使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。』 」 この箇所でイエス様が弟子たちに命じていることは二つ。エルサレムから離れないように。聖霊を遣わす(聖霊のバプテスマ)という父の約束を待つようにとのこと。この二つです。 ところでエルサレムというのは、この時の弟子たちにとってどのような場所でしょうか。つい先ごろ、挫折した場所です。皆が皆、イエス様を裏切った失敗の記憶が残る場所。しかも、主イエスを殺そうと企てた者たち、十字架につけろと叫んだ者たちがいる所です。出来ればそこにいたくない。しばらくは近寄りたくない所だと思います。何故、聖霊を授かるのに、イエス様はエルサレムを離れないように命じられたのか。  それは、聖霊なる神様が注がれることの意味と関係がありました。  使徒1章8節~9節 「『 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤと

Ⅰコリント(20)「自由人にして奴隷」Ⅰコリント9:19~26

私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。使徒パウロによって書かれた手紙は、「これが本当に、キリスト教会と言えるのか」と思われる程乱れたコリント教会の実態を明らかにし、私たちを驚かせてきました。 知恵を誇る者たちの争いと仲間割れ。日常生活のトラブルを教会内で解決できず、この世の裁判所に持ち出して黒白をつけようとする、浅墓な行動。自分の母と通じてさばかれた者、遊女の元に通いながら、これを恥じぬ者など、目を覆いたくなる不品行。さらに、奴隷の兄弟を見下す自由人がいるかと思えば、些細なことで離婚する者等、この世の価値観をそのまま教会生活に持ち込む人々もいる。 この様な教会の混乱ぶりを聞き、心を痛めたパウロが一つ一つの問題に対し、処方箋として書き送った手紙。それがコリント人への手紙でした。先月、私たちが礼拝で読んだのは 9 章の前半。偶像にささげた肉を食べてよいのかどうかと言う質問に対する使徒の回答です。 当時ギリシャの町には、偶像が溢れていました。太陽の神に月の神、大地の神に海の神、雷の神から森の神に至るまで、多くの神々が存在すると信じられていた社会。この様な社会に、この世界の造り主、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれるのは、当然のことです。 古代の宗教の中心は、神々に対するささげものと後に続く祝宴でした。町の市場で売られている肉も、多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、出された肉を食べることに後ろめたさを感じる兄弟姉妹がいたようです。この様な中、教会内で「偶像にささげた肉を食べてよいのか、否か」と言う問題が起こり、意見は二つに割れました。 ある人たちは、肉を食べるのは偶像を認めることになるとして、反対します。これに対し、知識を誇る人々は、真の神は唯一であって本来偶像は何でもないもの、何でもない偶像にささげられた肉も何でもないものである訳で、食べる事には何の問題もなしと主張しました。 「食べることには問題なし」とする人々は、「食べるべきではない」と考える人々のことを、偶像への恐れを吹っ切ることのできない未熟な信仰者と見下しました。自らの正しさに拘り、敢えて肉を食べ、信仰弱き人の心を踏みにじったのです。この様に、隣人の心に配慮せず、自由と権利を