ペンテコステ「この約束は~ペンテコステ~」使徒2:38~41


キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことを記念するペンテコステの聖日となりました。主イエスが十字架で死に復活された後、弟子たちに聖霊なる神様が与えられると約束されたことが実現した記念の日です。

一般的に日本の中で、キリスト教の記念日と言えば、キリストの誕生を祝うクリスマス、キリストの復活を祝うイースターは知られていますが、ペンテコステはあまり知られていないように思います。キリストを信じる私たちも、ペンテコステを記念して盛大に祝うということをしていません。あのペンテコステの出来事は今の私たちにどのような意味があるのか。今の私たちにどのように関係しているのか。今一度、確認したいと思います。


 十字架で死に復活された後、イエス様は四十日間、弟子たちに現れました。その時間は貴重なものだったでしょう。弟子たちからすれば、天に昇られるイエス様から、直接教えを受ける最後の機会。おそらく多くの事が語られ、教えられたと思うのですが、使徒の働きではごく簡単にまとめられています。

 使徒1章4節~5節

使徒たちと一緒にいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けましたが、あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられるからです。』


この箇所でイエス様が弟子たちに命じていることは二つ。エルサレムから離れないように。聖霊を遣わす(聖霊のバプテスマ)という父の約束を待つようにとのこと。この二つです。

ところでエルサレムというのは、この時の弟子たちにとってどのような場所でしょうか。つい先ごろ、挫折した場所です。皆が皆、イエス様を裏切った失敗の記憶が残る場所。しかも、主イエスを殺そうと企てた者たち、十字架につけろと叫んだ者たちがいる所です。出来ればそこにいたくない。しばらくは近寄りたくない所だと思います。何故、聖霊を授かるのに、イエス様はエルサレムを離れないように命じられたのか。


 それは、聖霊なる神様が注がれることの意味と関係がありました。

 使徒1章8節~9節

「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』こう言ってから、イエスは使徒たちが見ている間に上げられた。そして雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。


 聖霊が遣わされると何が起るのか。力を受け、キリストの証人となる。イエス様のことを宣べ伝える力を得る。そして、キリストを宣べ伝える働きはエルサレムから始まり、全世界へ広がって行くという宣言です。まずはエルサレムから。そのため、弟子たちはエルサレムに留まるように命じられていたのです。

 こうして、イエス様は天に昇られて、去って行かれた。後は約束の実現を待つのみとなります。それでは、このイエス様の約束はいつ実現したでしょうか。この時、弟子たちはどれ位の期間、エルサレムで待っていたのでしょうか。


 この約束が実現した様子は、使徒の二章に記録されます。

 使徒の働き2章1節~4節

五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。


 イエス様が十字架につけられたのは、過越しの祭の時。あの過越しの祭から五十日後の祭りが、この五旬節の日です。つまり弟子たちがイエス様の約束の実現を信じ、待っていたのは十日間でした。

 過越しの祭も、五旬節の祭も、ユダヤ人の三大祭に数えられます。イエス様が十字架につけられた時、エルサレムは多くの人が集まっていたと思いますが、その時から直近で、最も多くエルサレムに人が集まる時。イエス様のことを宣べ伝えるのに、絶好の機会に聖霊が遣わされるという約束が実現しました。

 弟子たちに聖霊が遣わされる。この最初の時は、本人にも、周りにいる人たちにも、それが明確である必要がありました。目に見えないお方、聖霊なる神様が来て下さると言われて、ある者は来たと言い、ある者は来ていないというのでは混乱を招く。皆が明確に約束の実現と分かる必要がありました。

 そのために、神様が用意して下さったのは、風のような響き。炎のような舌。耳でも目でも分かるように。さらに響き(音)と舌は何を象徴しているかと言えば、「言葉」だと思いますが、まさにこの時、弟子たちは他国の言葉で話すという、「言葉」についての顕著な力が示されることになります。(神様は必要に応じて奇跡を行われますが、これは最初の時で、弟子たちにはこのような奇跡が必要だったと考えられます。)


 聖霊が遣わされ、弟子たちはキリストの証人として力を得て、具体的に何をしたのか。この日、ペテロは説教をし、その結果、三千人ものクリスチャンが生み出されることになります。つい五十日前に、イエスを十字架につけろと騒いだ者たちの中から、この日の説教に応じてイエスこそキリストであると信じるようになった。大事件と言える伝道の成果です。

この時のペテロの説教が使徒の働き二章に収録されています。必読の箇所。さらに多くの苦難の中で、それでも弟子たちがキリストの証人として歩んでいく様が、使徒の働き全体の内容となり、是非とも読んで頂ければと思います。

それはそれとしまして、今日はこの聖霊が遣わされた日にペテロが語った説教の最後の言葉に注目して、このペンコテステの出来事が私たちとどのように関係しているのか確認したいと思います。


使徒2章38節~41節

「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、『この曲がった時代から救われなさい』と言って、彼らに勧めた。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。」


 聖霊が遣わされるという約束が実現した日。ペテロはその説教の最後の最後で、非常に重要なことを語ります。聖霊が遣わされる、キリストの証人という使命とその力が与えられるのは一体誰なのか。二千年前、イエス様と直接会った弟子たちだけに対する約束なのか。いや、そうではないというのが、この時のペテロの主張です。

 聖霊が遣わされるのは私たちだけではない。悔い改め、キリストを救い主と認め、洗礼を受ける者。神の民となる者には、同じように聖霊が与えられる。この約束は、その場にいてペテロの説教を聞いている人たちだけでなく、その説教を直接聞くことが出来ない人たちでも、遠くにいる人たちでも、ともかく神の民になる全ての者に対する約束なのだと宣言されるのです。

 このペテロの主張が正しければ、「聖霊により、力を受けて、地の果てにまでキリストの証人となる」という約束は、私たちにも関係がある。私たちに対する約束でもあることになります。ペンテコステを記念するというのは、二千年前に弟子たちがキリストの証人として活動を開始したことを祝うだけでなく、今の私たちもキリストの証人として生きることを再確認することになるのです。



 それでは、なぜペテロは、このように言うことが出来たのでしょうか。聖霊が与えられるという約束が、神様が召した者、神の民となる者全てに当てはまると言えたのでしょうか。天に昇られる前のイエス様の言葉は、「『しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。』というもので、「あなたがた」というのは、この時イエス様の前にいる弟子たちのことを指しています。

 イエス様は「あなたがた」として、目の前にいた弟子たちだけに約束したことを、ペテロが勝手に多くの人に当てはまる約束としたのでしょうか。なぜペテロは、このように主張することが出来たのか。

 それは、イエス様の約束の言葉を、イエス様だけが語られたものではなく、旧約の時代から語られていたことと受け止めていたからです。


 そもそも、聖書は「神様の約束の書」です。「旧約聖書」「新約聖書」と呼びますが、それはつまり、神様が人と結ばれた契約が記されている書という意味です。聖書の中には、神様が神の民に結ばれた契約が様々ありますが、それらはばらばらの契約ではなく、統一された約束が含まれています。

 神の民の祖であるアブラハムに対して、神様が与えた契約の中心は、次の箇所に出てきます。

 創世記17章7節

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。


 天地創造の後、堕落した人間。罪の本質は、神様から離れること、主なる方を神としないということでした。その罪人に対して、神様は「わたしはあなたの神となる。」と言われる。人が神を神としない選択をしたにも関わらず、神様は「わたしがあなたの神ですよ」と言って下さる。神様はご自分が選ぶ者に対して、「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束を与え、その約束を果たす方。聖書は繰り返し、この約束が出て来ます。


 この「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束が、具体的に何を意味するのか。その一つの表れは、神様が神の民の中に住むこと、神様がともにおられることです。

旧約の時代、神様がともに住むことを表すものとして、モーセ契約を通して「神の幕屋」が造られました。またダビデ契約では「神殿」が与えられました。ところが、神の民が繰り返し罪を犯す結果、神殿破壊が起こります。旧約聖書における一大事件、バビロン捕囚です。神様が神の民の中に住むことを示していた神殿が破壊された。それでは、繰り返し言われてきた「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という約束は、破棄されたということになるのか。神様がともにおられることは、金輪際なくなったのか。

このバビロン捕囚の時代の預言者が、重要な約束を伝えています。

 エレミヤ31章33節

これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。


 神殿破壊が起こるその最中、預言者エレミヤを通して語られたのは、やがて新しい契約が結ばれるというもの。新しい契約と言っても、これまでと全く違う契約ではなく、これまで同様の契約。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」というものです。しかし、これまでと異なることもあり、新しい契約の時代は、律法が心に書き記される時代とも言われます。この律法が心に書き記されるとは、どのような意味なのか。



 このエレミヤと同時代の預言者、エゼキエルは新しい契約について、次のように告げています。

 エゼキエル36章26節~28節

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。


 新しい契約は、それまでと同様に、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」ということは変わらない。この神様の思い、この神様の約束は、聖書を貫いているものです。

それでは、モーセ契約で天幕、ダビデ契約で神殿として示された「神様が神の民の中に住む」ことは、変わるのか、変わらないのか。変わるとしたら、どのように変わるのでしょうか。

新しい契約では、「律法が心に書き記される」、それはつまり、「神様の霊が神の民に授けられて、神の民は聖書に従うようになる」と言われています。天幕や神殿という場所が、神様がともにおられることを示すのではなく、神の民自身に神の霊が注がれる。神の民に、神の霊が授けられることが、神様がともにおられることを示す時代が来ると宣言されているのです。


 二千年前のペンテコステの日。聖霊が弟子たちの上に臨んだ時。ペテロは、これは十日前にイエス様が言われた約束の実現であり、同時に旧約聖書で語られていた約束の実現でもあると受け取っていたのです。そのため、イエス様が言われた約束も、自分たちだけでなく、神様に選ばれた全ての者に当てはまるものと言うことが出来たのです。主イエスの死によって、新しい契約の時代に入った。聖霊が与えられることによって、神様がともにおられることを示す時代になった。その確信に立った、ペテロの喜びの宣言でした。

使徒2章38節~39節

「そこで、ペテロは彼らに言った。『それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。』


 ペンテコステの聖日、今一度、この約束に加えられていることの幸いを確認したいと思います。もともと、神様を無視して生きてきた私たち。神を神とせず、人を人とも思わず、自分の好き勝手に生きてきた私たち。罪の中にいた私を選び、「わたしがあなたの神となる。」「あなたは神の民となる。」という契約の中に入れて下さった神様。私とともにいて下さる神様。喜んで聖書に従うことが出来るように私を造り変えて下さる神様。キリストの証人として、世界に遣わして下さる神様。

 罪の奴隷から贖い出され、神のものとされた幸い。聖霊の宮として、神様がともにいてくださる幸い。神の民として、聖霊がともにいる者として、使命が与えられた幸いを、皆で味わいたいと思います。


 今日の聖句を皆で読み終わりたいと思います。

 コリント人への手紙第一6章19節~20節

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

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