Ⅰコリント(22)「偶像を避ける歩み」Ⅰコリント10:14~22


私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたのはコリント人への手紙第一です。ところがこの手紙、読み進むにつれ「本当に、これがキリスト教会なのか」と思われる程乱れ切った教会の実態を明らかにし、私たちを驚かせてきました。知恵を誇って争い、仲間割れする人々。自分の母と通じた者、遊女の元に通う者等、目を覆いたくなる様な不品行。教会員同士の裁判沙汰。独身者ややもめに対する差別等、当時コリントの町をおおっていた風俗、習慣、価値観がそのまま教会にも持ち込まれていたのです。

イエス様が私達のことを「世の光、地の塩」と呼ばれた通り、教会にはこの世の腐敗をとどめ、人々の生活に良き影響をもたらす使命が与えられています。それなのにコリント教会ときたら、良い影響をもたらすどころかこの世から悪しき影響を受けていた。しかも、そのことに気がついていなかった様なのです。

この有様を耳にし、誰よりも心を痛めたのが使徒パウロでした。何故なら、パウロこそコリント教会の生みの親。困難な状況の中、労苦を重ねてキリスト教信仰に導いた人々が、あるべき所から落ちてしまった状況に黙ってはいられなかったのでしょう。こうして、教会が抱える一つ一つの問題に対し、処方箋として書き送られたのが、私たちの目の前にあるコリント人への手紙なのです。

さて、今朝読み進める10章は、内容としては8章からの続きでした。8章から10章までの3章で扱われているのは、偶像にささげた肉の問題です。ところで、偶像にささげた肉の問題とは何だったのでしょうか。当時ギリシャの町には、日本と同じく偶像が溢れていました。多くの神々が存在すると信じられていた多神教の社会です。この様な社会に、世界の造り主、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれるのは、当然のことだったでしょう。

その頃の宗教の中心は、神々に対するささげものと後に続く祝宴でした。町の市場で売られている肉も、多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、出された肉を食べることに躊躇いを感じる人もいたようです。この様な中「偶像にささげられた肉を食べてよいのか、否か」と言う問題が起こり、教会内の意見は二つに割れました。

ある人たちは、肉を食べるのは偶像を認めることになると考え、反対します。これに対し、真の神は唯一であって偶像など何でもないもの、何でもない偶像にささげられた肉も何でもないものである訳で、肉を食べる事に何の問題もなしと主張する者もいました。

「食べてよし」と主張する人々は、「食べるべきではない」と考える人々のことを、偶像への恐れにとらわれた未熟な信仰者と見下しました。彼らは敢えて肉を食べ、この様な者の心を踏みにじったらしいのです。「偶像の神は存在しない」と言う点において、パウロは彼らに同意していました。しかし、人の心に配慮せず、自由と権利を振り回すその態度については厳しく戒めています。

けれども、自らの信仰を過信する者には、なお足りないと思ったのでしょう。旧約聖書から、出エジプトと言う神の恵みを経験したイスラエルの民が、不信仰のために、約束の地カナンを目前にしながら滅ぼされたと言う恐るべき出来事を示し、パウロはこう告げたのです。


10:1112「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」


 かたやエジプトから救出され、自信満々約束の地に旅立った旧約のイスラエルの民。かたや自分たちのキリスト教信仰は正しいと考え、「偶像の宮であろうと何であろうと、ささげものの肉を食べること等何でもない」と豪語するコリント人。愛するコリントの兄弟たちが昔のイスラエルと同じ道を辿らぬよう、「この歴史を教訓として生き方を改めよ。」とパウロは命じたのです。

コリント人が教訓とすべきは、偶像崇拝を避けることでした。これまでパウロは、偶像の神は存在しないこと、偶像にささげられた肉も何でもないのであって、これを食べることに何の問題もないと言うコリント人の知識に、一応筋が通っていることを認めて来ました。しかし、例え正しい知識を持っていても、隣人への配慮に欠ける態度は改めるべきとし、その点を戒めてきたのです。

 けれども、ここからは、偶像の背後で隠れて働く悪霊の存在を見据えて、肉を食べぬようにと命じてゆくのです。「例え偶像の宮でなされる礼拝に参加しても、自分のキリスト教信仰は大丈夫、決して揺らぐことはない、何の影響も受けない。」そう考える人々に注意を促しています。


 10:14~18「ですから、私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。私は賢い人たちに話すように話します。私の言うことを判断してください。私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。」


 使徒は批判的な人々に対し、「私の愛する者たちよ」と呼びかけました。「賢い人たちに話すように話す」と語り、賢明な判断を求めています。そして、偶像の宮に行き、儀式に参加することが、いかにキリスト教信仰にとって危険であるかを理解してもらうために、先ず聖餐式の意味を再確認することから始めたのです。

第一はイエス様との交わりです。杯から飲み、パンを食べるごとに、私たちはイエス様の血とからだつまり命そのものに預かり、一つとされる恵みを受け取ります。第二は兄弟姉妹との交わりです。一つのパン一つの杯に預かる私たちは、イエス様のからだとしてひとつであること、互に愛し合う恵みと責任があることを確認します。

以上のことを再確認した上で、パウロは語りました。「昔イスラエルの民も、祭壇にささげられたもの、肉や穀物を食べることで、神と一つとされ、お互いに一つとされる恵みを経験していたのではないですか。」と。念には念をと言うことなのでしょう。旧約のイスラエルもあなたがたも、神の民はささげものに共に預かることで、神と一つになり、お互いに一つとなる祝福を受けてきたことを思い起こせと勧められています。

 ここには、ひとつ聖餐式に預かりながら、派閥に分かれて争うコリント教会、ささげられた肉の問題でも分裂していた教会の現状を憂える。そんなパウロの姿が見えてきます。

 けれども、これを聞いたコリント教会の中には、反論したくなった者がいたことでしょう。「杯から飲み、パンを食べる者は、イエス・キリストと一つになるとパウロは言う。旧約のイスラエルの民も祭壇へのささげものを食べて神と一つにされたと説く。そのことを例にして、偶像の宮で肉を食べる私たちが、偶像の神と一つにされるとでもいうつもりなのか。もしそうだとすれば、偶像の神は存在しないとする、以前の主張と矛盾するではないか。」

 しかし、そんな反論など百も承知の上のことだったでしょう。パウロが示したのは、偶像の神の存在ではなく、偶像の背後で生きて働く悪霊の存在です。木や石で製造された偶像の神が、ただの木片、石の塊に過ぎないことは議論の余地がありません。けれども、それら偶像の背後に、目に見えぬ悪霊が存在することを知らないとしたら浅墓なこと、片手落ちではないかと戒めたのです。


 10:19、20「私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。」


 偶像の神は実際には存在しない。これは聖書が一貫して教えていることです。しかし同時に、実際には存在しない偶像をまるで存在するかのように人々に思わせ、これを礼拝させる悪霊がこの世界には生きて働いていることも、聖書は教えていました。

聖書において、悪霊には「悪魔、サタン」と言う別名が与えられています。また、その力において「この世の君」とも呼ばれています。神が定めた範囲内ではありますが、イエス様が再臨するまでの間、この世に生きる私たちに強い影響力をもたらすことを、サタンは神に許可されているからです。また、他の箇所では、その活動が獲物を捜し求める獅子に譬えられていました。


ペテロ第一589a「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。…」


「獅子が誰かを食い尽くす」とは、サタンが神の民を神から引き離し、その魂を滅びに追いやる様を描いています。この世界に存在する様々なものを用いて、私たちの心を真の神から離れさせ、神ではないもの、偶像を信頼させようと活動しているのが悪霊、サタンなのです。

このサタンの存在と働きを知らず、偶像の神はいないと言う表面的な知識だけで安易に偶像に近づく者は、サタンの罠に落ち、気がつかないうちに神から離れ、滅びに向かうことになる。これがパウロが伝えたかったことでしょう。ですから、「私は、あなたがたに悪霊と交わる者となってもらいたくありません。」と叫び、断固偶像との決別を勧めました。

それにとどまらず、主なる神に愛され、祝福されているあなたがたが、偶像の宮で悪霊と交わること等出来るはずがないでしょうと、訴えてやまないのです。


10:21,22「あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。」


「主のねたみを引き起こす」とは、私たちが主なる神以外のものに信頼する時、神が私たちのためにそれを怒り、悲しむ様を示しています。また、「私たちは主よりも強い者なのか」とは、私たちが神の愛以外のもので心を満たそうとすることは、十字架に命を捨ててまで愛してくださったイエス様の心を踏みにじるに等しいと言う意味でした。神を信頼せず、神以外のものに信頼することが、いかに神の心を傷つけることになるのか。私たちも心に刻みたいのです。

最後に、今日の箇所から信仰生活への適用として考えておきたいことが二つあります。

先ず、コリントと同じように異教社会である日本において、偶像礼拝の問題にどう対応すればよいのでしょうか。恐らく日常生活の中で、この問題に直面する機会として多いのが仏教の葬儀でしょう。死者を仏として礼拝する葬儀にどう対応するべきか。小畑進先生が「慶弔学辞典」の中で四つの対応を挙げ説明していますが、これが参考になるかと思います。

第一は、仏式葬儀には一切出席しないと言う対応。第二は、出席するが受付や接待、交通整理などの裏方を買って出て、仏前や霊前に当たらないようにすると言う対応。第三は、棺の前までは行くけれど、焼香は断り、主の祈りか遺族のための祈りをささげてくると言う対応。第四は、焼香などすべて仏式に従うと言う対応、以上の四つです。

小畑先生は、第一の対応は思想上は完璧だけれど、行動しては消極的で、遺族の手助けをしたい、あるいはしなければならない葬儀では現実的ではなく、その場合には積極的にお手伝いをする第二の対応が良いと勧めています。第三の対応は、第一や第二の対応をどうしてもとるわけにはゆかない場合のギリギリの線とし、第四の対応については、信仰の先輩たちが築き上げてきたキリスト者の自由の歴史を思うと、それを台無しにする感があり、この対応は取ることができないと書いています。

大切なことは、死者を礼拝しないと言うキリスト教信仰の核心を保つこと、愛する者を失い悲しみに沈む遺族に隣人愛を示し、キリスト教信仰の証ができるような良い関係を築くよう努力することではないかと考えます。また、コリント人の様に自分の信仰を過信することなく、むしろ自分の弱さを弁え、正しいことを、愛をもって実践できるよう神に助けを祈ること、教会の仲間に知恵や祈りの応援を求めることも必要ではないでしょうか。

但し、コリント教会がそうであったように、同じキリスト者でもどこまでを偶像礼拝と考えるのか、どこまでがキリスト者としてできることなのか。その理解が異なることもあるかと思います。その場合には、各々が神から頂いた確信を持って行動する、自分と異なる行動をとる人のことを批判しないことも心がけるべきでしょう。

第二は、自分の心の中に偶像に気がつくことです。ある意味で、これは目に見える偶像礼拝を避けることより難しいのではないかと思います。

コリント人の場合、彼らが偶像の宮で行われた儀式や祝宴に参加したのは、その場が同業者組合の寄り合いを兼ねており、出席しない者は組合から除かれることもあったからとも考えられています。つまり、彼らはコリントの町における地位や仕事の成功、経済的豊かさや人生の安全を確保するために、人々と偶像崇拝を共にするうち、いつしか妥協的な信仰に変わっていったのでしょう。

皆様の心の中にある偶像とは何でしょうか。神よりも大切にしているもの、あるいは神の様に信頼しているものはあるでしょうか。周りの人から認められることことでしょうか。仕事の成功でしょうか。社会的な立場でしょうか。金銭財産でしょうか。人生の安全でしょうか。いつのまにか人生において第一となっているもの、偶像の存在に気がつき、悔い改める。神を第一とする人生に立ち帰る。私たち皆がその様な歩みを続けてゆきたいと思うのです。

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