Ⅰコリント(23)「すべて神の栄光をあらわすために」Ⅰコリント10:23~11:1


世界の創造のはじめ、人間が神を信頼し、親しい関係にあった時、人間同士の関係も非常に良好であったと聖書は教えています。しかし、神から心離れた人間は、お互いの間に良好な関係を築くことができなくなってしまいました。自分の意志で禁断の木の実を食べたのに、それを隣人のせい、神のせいにしたアダムとエバ夫婦の責任転嫁。自分よりも神様に愛されていると感じられて仕方がない弟アベルの存在が無性に腹立たしく、妬みに駆られ弟を殺してしまった兄カイン。自己中心という病に人間は捕らわれてしまったのです。

この自己中心という病い。様々な形で私たちの生活に現れてきますが、その一つの現れは、精神的利益であれ物質的利益であれ、自分の利益を追い求めてやまない生き方ではないかと思います。イソップ物語に「犬と肉」あるいは「欲張りの犬」というお話があります。

口に肉を加えた犬が、橋を渡っていました。ふと下を見ると、川の中にも同じような肉を加えた犬がいます。犬はそれを見て思いました。「あいつの肉の方が大きくて旨そうだ。」羨ましく感じた犬が「そうだ、あいつを脅かして、肉を取ってやろう。」と思い、川の中の犬に向かって「ウゥー、ワン!ワン!」と思いっきり吠えた途端、くわえていた肉はぽちゃんと川の中に落ちてしまいました。「あぁ~」川の中には、がっかりした犬の顔が映っています。それを見て、ようやくさっきの川の中の犬は、水に映った自分の顔だと気がついた、というお話です。

どこまでも自分の利益を求めてやまない人間の愚かさ、あるいは、自分の利益に縛られ、支配されている人生の悲惨さをユーモラスに描き、私たちを戒めてくれます。

私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。使徒パウロの手になるこの手紙の宛先コリント教会の中にも、隣人の利益は考えもせず、ひたすら自分の利益を追い求めて行動する者たちが存在したようです。自分の知恵を誇って争い、仲間割れする人々。自分が被った僅かな損失を取り戻そうと、愛すべき兄弟をこの世の裁判に訴える者。自らの社会的立場に驕り、独身者ややもめを見下す者など、コリント教会の有様はあるべき姿からかけ離れ、この教会の生みの親であるパウロの心をひどく痛めていたのです。

しかし、コリント教会の対立はこれにとどまりませんでした。ここ四回にわたって読み進めてきた第8章から10章では、「偶像にささげられた肉を食べてよいのか、否か」という問題で、教会が二つに割れていた様子が描かれていたのです。

当時ギリシャの町には、日本と同じく偶像が溢れていました。多くの神々が存在すると信じられていた多神教の社会です。この様な社会に、世界の造り主、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれるのは、当然のことだったでしょう。

その頃の宗教の中心は、神々に対するささげものと後に続く祝宴でした。町の市場で売られている肉も、多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、その様な肉を食べるのに恐れや躊躇いを感じる人々がいたようです。彼らは偶像にささげられた肉を食べるのは偶像を認めることになると考え、これを禁じました。これに対し、真の神は唯一であって偶像など存在しない。存在しない偶像にささげられた肉を食べたからといって信仰に影響はなく、肉を食べる事に何の問題もなしと主張する者もいたのです。

「食べてよし」と主張する人々は、「食べるべきではない」と考える人々のことを、存在しない偶像の神々を恐れる未熟な信仰者と見下しました。彼らは敢えて肉を食べ、この様な者の心を踏みにじったらしいのです。「偶像の神は存在しない」という点においては、パウロも同意していましたが、隣人の心に配慮せず、自由と権利を振り回すその態度については厳しく戒めています。

それと同時に、偶像の神は存在しないし、それ自体はただの木片、石の塊に過ぎないとしても、その背後にあって活動する悪霊の存在を知らずして、安易に偶像の宮で行われる儀式や祝宴に参加するとしたら、それも浅墓なこととし注意を与えたのです。

偶像の神は実際には存在しない。これは聖書が一貫して教えていることです。しかし同時に、実際には存在しない偶像をまるで存在するかのように人々に思わせ、これを礼拝させる悪霊がこの世界に存在することも、聖書は教えていました。悪霊は、私たち人間が神と思うもの、神の様に大切にしているもの即ち偶像を用いて、真の神から私たちの心を引き離そうと活動しているのです。

ですから、パウロは「あなたがたに悪霊と交わる者となってもらいたくありません。」と語り、断固偶像崇拝との決別を命じました。偶像の宮での祝宴に参加し、肉を食べることを禁じたのです。

けれども、です。それではどの様な場合でも偶像にささげられた肉を食べることが禁じられたのかというと、そうではありませんでした。偶像の宮で肉を食べることを禁じた使徒も、個人的な家庭での食事の場合は別であり、自由に食べても構わないと明言しています。


10:25,26「市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。地とそこに満ちているものは、主のものだからです。」


日本にも門前市とか門前町がありますが、当時のコリントの人々の食材は、偶像の宮に連なる市場で売買されていました。その場合、買おうとする肉がいちいち偶像にささげられたものか否かを詮索し、心配する必要はない。何故なら、市場で売買される野菜も果物も肉も、すべては神が創造した物、神が人をして生産させたよい物であり、感謝して食べるべき物だからというのです。これは、唯一の神を信じると言いながら、偶像に怯え、神経質に肉の出所を詮索する様な生活を送る人々の世界観を広げよう、自由にしようとの励ましのことばでしょう。このパウロの確信は、次のことばにも示されています。


テモテ第一4:4,5「神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。」


それでは、個人の家庭での食事の場合、いつでも肉を食べてよいのか、自由なのかというと、ちょっと待てと使徒は言うのです。未信者の家に招かれた場合はどうなのかという点についても指示が出されます。コリントは商業の町でしたから、仕事上の交際でその様な家に招かれることもあったのでしょう。


10:27~30「あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」というなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。もし私が感謝して食べるなら、どうして私が、感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。」


先ず、パウロは「自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。」として、自宅の場合と同じ指示を出しています。未信者が用意してくれた食卓であっても、キリスト者は肉の詮索などせず、感謝をささげて食べる。全ての食べ物は神からの恵みという大原則が示されました。

けれども、そこにキリスト者が同席しており、その人が偶像を恐れ,良心にとがめを感じ、「あなたが食べようとしている肉は偶像にささげた肉ですよ」というなら、その兄弟のために食べてはいけないとも命じられるのです。折角神に感謝して食べるその肉によって、信仰弱しと言えども、神が救いたもう兄弟の思いを無視し、躓かせたり、批判されたりするなら、これ程残念なことはない。それを思えば、肉など食べぬがよい、いや食べるべきではない。パウロは、兄弟愛の大切さを伝えています。

実際にコリント教会の兄弟同士が、未信者の食卓に招かれ、この様な会話を交わすことがあったのかもしれません。使徒の勧めは具体的であり、弱き信仰の持ち主に対する優しさが示されています。

尤も、隣人のため、特に弱き信仰の持ち主のためにはいつでも自分の自由を捨て、相手に合わせたパウロですが、神から与えられた自由についての確信がゆらぐことはありませんでした。「私が肉を食べないのは信仰弱き兄弟への配慮であり、私自身が偶像を恐れているわけではない。むしろ、私にはすべてのものを神に感謝して受け取り、用いる自由がある。」これが、パウロの確信だったのです。

自分の内に強い確信を抱くことと、隣人に対する柔和で、柔軟な態度。パウロは、私たちに信仰の持つ二つの面を示してくれました。ともすれば、私たちの信仰はどちらかに傾きがちです。自分の信仰の確信に傾いて、隣人への配慮を欠くことになるか。あるいは、隣人への配慮がいつのまにか相手に合わせるだけの迎合に傾き、信仰の確信を軽んじるか。どちらかに傾くのではなく、良いバランスを保つためにはどうすれば良いのでしょうか。

実は、使徒の行動の原則が、今日の段落の最初の部分に示されていました。


10:23,24「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。」


「すべてのことが許されている」とは、勿論文字通りすべてのことではなく、聖書において神が禁じていること以外のすべてという意味です。ちなみに、「すべてのことが人を育てる」の「育てる」ということばは「建物を建てる」という意味で、これまでの新改訳聖書では「徳を高める」と訳されてきました。そして、このことばは24節で「他の人の利益を求めなさい」という言葉に置き換えられています。

パウロの行動原則の第一は、聖書が禁じていること以外はすべて行うことができるという自由でした。第二は、但し自分の行動が、隣人の利益つまり隣人の人格や信仰を育てることになるのか、隣人の徳を高めることに通じるのか、その点をよく考えることです。言いかえれば、自分の行動が隣人の信仰の躓きとなったり、徳を高めることにならないのなら、その様な行動は選ばない、捨てるという自由です。

使徒が常に心掛けていたであろうこの原則は、イエス・キリストの罪の贖いの恵みとして与えられた自由に基づいていました。イエス・キリストの十字架の死に示された愛が、私たちを自己中心の生き方から自由にし、隣人の為に生きる者と変えてゆくのです。


ローマ15:13「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。…」


雑貨屋の仕事をしながら小説を書いていた三浦綾子さんが、本格的に作家としての道を歩み始めたきっかけは、朝日新聞社が募集した1000万円懸賞小説に応募した小説「氷点」が、見事第一席に入選したことです。

現在の貨幣価値に直せば1億円にも相当する大金を受け取った時、夫の光世さんは綾子さんに言ったそうです。「綾子、神を畏れなければならないよ。人間は有名になったり、少しでも金が手に入ると、そうでなかった時より、愚かになりやすいものだ。また、人にちやほやされると、これまた本当の馬鹿になるからね。これからの生活が大切だよ。」1000万円の内450万円は税金として納め、残りは550万円。それでも大金です。この賞金の使い道について、光世さんは神と人のためにすべてを使い、自分たちのためにはネクタイ一本買わないと決めていました。

長らく闘病していた綾子さんは実家に借金がありましたから、賞金は先ずその返済のために使いました。残りは親族で病気の者、貧しい者のために、また教会のためにささげ、余りのことに綾子さんがせめてテレビを一台買って欲しいと訴えましたが、その願いも退けられ、結局綾子さんが買ってもらえたのは手袋だったそうです。

普通なら「何言ってんのよ。私があれだけ苦労して書いたのよ。私が買いたいものを買っても当然でしょ。」と夫婦喧嘩になってもおかしくはない状況でしたが、夫に助けられ、励まされて小説を書くことができたことを感謝していた綾子さんは、光世さんを信頼し、従いました。念願のテレビを買うことができたのは、10年後のことだったそうです。

「自分の隣人愛なんて、夫のそれに比べると、頭の中の理想というか、絵に描いた餅みたいなものでした。夫がいなかったら、私はあの賞金を全部自分のために使って、自分を特別な存在と思うとんでもない馬鹿になっていたと思います。私が曲がりなりにも、神様のためにとか隣人愛なんて口にできるのは、夫の様なキリスト者がそばにいたおかげです。」三浦綾子さんのことばです。

私は三浦さん夫婦と同じ行動をとるよう勧めているわけではありません。私たち皆が、自分に与えられた賜物と愛すべき隣人の必要を考え、隣人にとって最善のことを実行し続ける者でありたいと思うのです。最後に、三浦綾子さんが夫の光世さんに従うことで、神を畏れることと隣人愛を学んだように、パウロもまた、自分がキリストを見習うように、コリントの兄弟たちも自分を見習うようにとの勧めで締めくくっています。私たちの信仰の成長のためには、教会の交わりが必要なのです。


10:31~11:1「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。私がキリストに倣う者であるように、あなたがたも私に倣う者でありなさい。」


私たちの信仰が単なる理想とか絵に描いた餅で終わらぬように。食べることにも飲むことにも、お金の使い方にも、仕事の取り組み方にも、夫婦・家族の関係にも発揮される様努めたいと思うのです。神の栄光を表すことは、何も人の目を引く大事だけでなく、日常茶飯事の態度、行動においてなされること、なすべきことであると覚え、日々の歩みを進めてゆきたいと思うのです。

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