「命を感謝する」ルカ22:24~30


八月の中旬になりました。八月十五日は、一般的に終戦記念日と言われる日。また堀越暢治先生は、この日を「いのちありがとうの日」にしたいと活動されていました。私たちは、いつでも「平和」について、「いのちの大切さ」について考えるべきですが、この時期、特に取り組みたいと考え、「命を感謝する」ことをテーマに説教を行います。

 私たちは神様から実に多くのものを頂いています。目に見えるものから、見えないものまで。命も、命を支えるのに必要なものも。情熱、能力、知恵や力、財産や地位、経験や人間関係。偶然の積み重ねで今の世界があると考えていた時には思いもしないことですが、世界を創り支配されている神様を知ると、私たちの人生は神様が用意して下さったものであることが分かります。

 それでは、なぜ神様は私たちに命を与えて下さったのでしょうか。多くのものを与えて下さっているのでしょうか。私たちは命を感謝しているでしょうか。神様が下さったものを、どのように用いて生きているでしょうか。過ぎし一週間、自分の知恵、力、財産、地位、経験、人間関係を、何のために使ってきたでしょうか。


 神様から離れた人間。罪の中にある者の特徴の一つは、神様が下さった良いものを、自分のために使うことです。もともとは、他の人に仕えるために与えられた良いものを、他の人を支配し、搾取するために用いる。私が高められたい。私が注目されたい。私の願う通りにしたい。私が支配したい。そのような自己中心的な願いに沿って、神様が下さったものを用いていく。これが罪人の生き方でした。


 最初に、人間が神様から離れる決断をする時。アダムとエバに向けて発せられた蛇の誘惑の言葉は次のようなものです。

創世記3章4節~5節

「すると、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。』」


 何をしても良いと言われていた園で、一つだけ禁じられたのは、善悪の知識の木の実を食べること。この実を食べるというのは、神様の言われることよりも自分の考えを優先させること。神様を愛さない。神様から離れることを意味していました。

 この時の蛇の誘惑の言葉は、それを食べると「神のようになる」というものでした。実際には、「神のようになる」とは正反対。非常に良い存在として創られた人間が、ひどい状態になるわけです。しかし、ひどい状態になった人間は、自分自身を神とするものとなった。自己中心の存在、自己栄光化の怪物になる。

ひどい状態になる。しかし、その思いは、自分を神のようだと思う。蛇の誘惑の言葉は絶妙でした。


 それに対して、イエス様の生き方は、どのようなものだったでしょうか。主イエスの力と言えば、全知全能。正真正銘、何でも出来る神の力。その力を、イエス様はどのように用いたのか。自分のためには用いないで、仕えるために用いました。その具体的な姿は、福音書の中でいくつも確認出来ますが、パウロが次のようにまとめていました。

 ローマ15章1節~3節

「私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、『あなたを嘲る者たちの嘲りが、わたしに降りかかった』と書いてあるとおりです。」


 私たちにあるべき生き方を示して下さるイエス様は(示すだけでなく、実際にそのように生きることが出来るようにと、私たちを変えて下さるのですが)、その生涯を通して、自分の力をどのように使えば良いのか、教えて下さったわけです。


 罪人は、持てるものを自分のために用いていく。主イエスは、仕えるために用いていく。このコントラスト、この対照が色濃く出ているのが今日の箇所となります。

 私たちは、どのように生きてきたのか。神様は私たちにどのようなことを願っておられるのか。命を感謝するとは、どのようなことなのか。新たな一週間、どのように生きていくと決意するのか。考えながら、読み進めたいと思います。

 ルカ22章24節~27節

また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。すると、イエスは彼らに言われた。『異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。』


 AD三十年、四月六日、木曜日と考えられています。キリストが十字架につく前日の夜。この時、イエス様が心待ちにしていたのが、弟子たちとともに過越の食事をすることでした(ルカ22章15節)。出エジプトの過越の小羊と、翌日に十字架にかかるご自身を重ね合わせて、最初の聖餐式を制定する。所謂、最後の晩餐の場面です。

 この時、イエス様は精一杯、弟子たちに愛を示します(ヨハネ13章1節)。弟子たちの足を洗い、食事を給仕する。人となりたもう神が、十字架直前の緊迫した中で、弟子たちに徹底的に仕えていました。

この中には、イエスを売り渡すイスカリオテのユダもいましたし、関係を否定するペテロもいました。弟子たちは皆、イエス様の十字架を前に、散り散りになる者たちでした。このような者たちに仕える救い主。裏切ることを知りながら、それでも弟子たちに仕えることを喜ばれる救い主。相手がそれに相応しいから仕えるのではない。ただ、愛に基づいて仕えるという姿。これが、私たちの救い主です。

 このイエス様を前にして、弟子たちは何を話していたでしょうか。

 ルカ22章24節

「また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。」


 最後の晩餐の席上。明日、十字架に上られる主イエスを正面にして。これまではともかく、この時こそは厳粛になるべき時。しかし、ここで弟子たちの口をついて出たのが、誰が偉いのかという論争でした。実に残念と言って良いでしょうか。三年もの間、イエス様と寝食をともにし、教えられ、愛されてきた者たち。しかもこの時、イエス様に足を洗ってもらい、食事を給仕して頂いた者たち。それでも、弟子たちの頭にあったのは、誰が一番偉いのかということでした。

 この時の弟子たちの根底にある思いは、自分の力は、人を支配するためにある。自分の能力は、人を仕えさせるために用いるもの。自分の賜物は、人の上に立つために使うべきものというもの。罪人の思いでした。

 いかに人を仕えさせるか考える者たちと、いかに人に仕えるかとする救い主。水と油、氷と炭、白と黒、天と地、正と邪。強烈なコントラストです。


 この弟子たちに今一度、神様が下さるものを、どのように用いるべきか教えて下さるイエス様の言葉が続きます。

 ルカ22章25節~27節

すると、イエスは彼らに言われた。『異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。』


 これまで繰り返し教えてきたこと。何度聞いても分からない弟子たち。それでも、丁寧に教えるイエス様の優しさが印象的です。

 「いいですか。人を思い通りに動かすこと。人に仕えられること。それが、地位が高いこと。偉いことだと思っているのでしょう。しかし、それは神を知らない異邦人の考え方です。この世界の作り主を知らず、どのように生きたら良いのか知らない異邦人は、支配し、権力をふるうことこそ、地位があり偉いことだと考えています。しかし、あなたがたはそれではいけません。むしろ地位があり、偉いというのは、それだけ多く、仕える者となるということ。神に与えられしものを、他の人のために用いていくこと。今、わたしがあなたがたにした通りです。神無しの考え方、異邦人の考え方に染まるのではなく、神の国の考え方を忘れないように。」

 このような主イエスの言葉を、皆様はどのように受け止めるでしょうか。現実世界では役に立たない。寝言だ。世迷言だと受け止めるでしょうか。それとも、自分の目指す生き方として受けとめるでしょうか。

この世界の考え方とは正反対。逆説的。しかし、これがイエス様が教えることでした。


 このように弟子たちを諭しつつ、さらにイエス様の言葉は優しさを増します。

 ルカ22章28節~30節

あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。


誰が一番偉いのかと話していた弟子たちに、「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまな試練の時にも、わたしについて来てくれた。」とイエス様の感謝の言葉が響くのです。「え?」と思います。「相手を間違えていませんか?」と不思議に思います。

目の前にいるのは、三年一緒に過ごしながら、この十字架直前の場面で誰が一番偉いのかと話していた者たち。この直後に、散り散りになる者たち。それでもイエス様は、感謝を伝えたかった。「よくぞ、ついて来てくれた。」と。

いやいや、足手まといだったのではないでしょうか。ついて行ったというより、ぶら下がっていただけではなかったでしょうか。むしろ、イエス様の働きを邪魔し、失望させて来たのではないでしょうか。と思うのですが、イエス様は弟子たちを大いに励まそうとされる。「よくぞ、ついて来てくれた」と。

今日でも、イエス様が同じように、私たちに声をかけるとしたら、何と言われるのか。想像します。決して立派な信仰生活ではなかった。罪にまみれ、傷だらけの信仰生活だった。それでも、「よくぞ、ついて来てくれた。」と主イエスに言われるとしたら、それは大きな喜びです。

さらにわたしの国ではともに食事をし、王座に着くと、天国での報酬まで約束される。

全く不甲斐ない弟子たち。それでも、あるべき姿を教え、感謝を示し、大いに励まそうとされる。このイエス様の姿、その優しさが胸に迫ります。


 神様から頂いたものを、仕えるために用いることが出来ない弟子たちを、それでも励ます姿に、一つの言葉が思い起こされます。

 マタイ10章42節

まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。


 ご自身、自分のもてるものは仕えるために用い、その命までもささげられるのに、弟子たちには水一杯をささげることでも激賞する言葉。「よくぞ」と喜んで下さる。水一杯でも、他の人に仕えるために用いるならば、報いに漏れることなしと言われる。恐れ多いというか、恐縮するというか。

 しかし、これは私たちが、持てるものを他の人のために使う時、イエス様が大いに喜ばれるということでしょう。神様が、私たちの生き方に注目し、期待しておられるということです。

 更に言うと、私たちが、仕える者となるように、イエス様が願っておられるというのは、この後のイエス様の姿でより一層明確になります。この翌日、私たちを贖うために、十字架にかかり死なれます。信じる者が、罪の支配から抜け出し、神様から与えられたものを、喜んで他の人に仕えるために、イエス様は命を注ぎだすのです。キリストが命をかけて、仕える者となるように召したのが、私たちです。

私たちは、この救い主の思いをどれだけ意識して生きているでしょうか。神様の眼差しをどれだけ覚えているでしょうか。


 以上、仕えられたいと願う弟子たちと、仕えることを喜びとし、また私たちを仕える者と造り変えられる救い主、仕えるようにと教え励ますイエス様の姿を見てきました。今日、この聖書の箇所を通して、神様が私たちに願われていることは、どのようなことでしょうか。命を感謝するとはどのようなことでしょうか。

 命を感謝するとは、与えられた命を喜ぶ、与えられた人生を感謝することだけではありません。与えられた命をもって、神様の目的に沿って生きること。与えられた人生を、神様の意図に沿って用いることです。

 自分のために生きる。自分中心に生きる。いかに自分の願うことを実現させるかに命を費やす。そのような生き方から、神様を喜び、神様の素晴らしさをあらわす者へと変えられた。神様を愛し、隣人を愛する命を与えられた。その恵みの大きさを味わいつつ、命を感謝する者として生きていきたいと思います。

今日の聖句です。

 ペテロの手紙第一2章16節

「自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。」


 もともと罪の奴隷であった私たち。自分中心にしか生きることが出来なかった私たち。それが今や、自由な者となった。自由に神様に従うことが出来る。神様に与えられたものを、自由に、他の人に仕えるために用いることが出来る。罪の奴隷から、自由な者とされた私たち。

 ところが、再度、奴隷であれと言われます。神のしもべであれ!と。罪の奴隷から自由な者となった私たちは、その自由を悪用、乱用するのではなく、神のしもべとして生きるために用いるように教えられています。奴隷から自由な者へ。自由な者から奴隷へ。一回転していますが、もとに戻るのではない。罪の奴隷から、神のしもべとなる。

 ルターが、その名著「キリスト者の自由」で、キリスト教的人間を次のように表現していました。

「キリスト教的人間はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、誰にも服しない。(しかし、)キリスト教的人間はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する。」


 神様は私たちに多くのものを与えて下さっています。それは、私たちが、その与えられたものをもって、互いに仕え合うためでした。私たちが、与えられたものを仕えるために用いるとき、主イエスはどれだけ喜ばれるのか。

 与えられたものを自由に使うことが許された私たち。その自由を、神のしもべとして用いる決意をして、この一週間を送っていきたいと思います。

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