レント「十字架と復活へ向けて(3)~激しく泣いた~」マタイ26:31~35,69~75


 2019年度最後の聖日礼拝となりました。70周年を祝った年、教会として様々なことを経験しました。この一か月間は、新型コロナウイルス感染症の流行にともなって、礼拝を行えるのか心配な状況にもなりました。喜ばしい恵みも、大変な状況も味わいましたが、一年間、教会の歩み、礼拝の歩み、私たちの歩みが守られたことを感謝いたします。
 受難節に入り、イエス様の十字架での死と復活に意識を向けながら、礼拝を行っています。今年はマタイの福音書を読み進めています。今日は26章、実に多くのことが記録されている章です。祭司長や指導者たちによるキリスト殺しの計画。ある女性が、イエス様に香油が注いだこと。イスカリオテのユダによる裏切りの計画。最後の過越しの食事にして、最初の聖餐式が行われたこと。弟子たちの裏切りの予告。ゲツセマネでの祈り。イエス様が裏切られ捕縛されたこと。最高法院での裁判。ペテロがイエスを否認したこと。十字架直前の緊迫感溢れる内容となっています。今日はこの中から、イエス様が弟子たちの裏切りを予告し、その通りになった場面を取り上げます。この箇所に示されるイエス様の姿、私たちの姿はどのようなものか。この箇所から、今日の私たちは何を教えられるのか。私たちは神様の御前でどのように生きたら良いのか。皆で考えていきたいと思います。
 キリストが十字架につけられる半日前、木曜の夜はイエス様が楽しみにされていた弟子たちとの食事がありました。聖餐式を制定された場面。マタイの福音書には記されていませんが、この時イエス様は弟子たちの足を洗い、その愛を示されます。厳かにして喜びの食事の場面。食事が終わりオリーブ山へ行かれた時、弟子たちは衝撃的な言葉を聞くことになります。裏切りの宣告。それも、あなたが裏切るのですよ、とイエス様から言われるのです。
 マタイ26章31節~32節
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 「あなたがたはみな、わたしにつまずきます。」ギョッとする宣告です。ここまでイエス様とともに過ごしてきた弟子たち。多くの教えを聞き、多くの奇跡を目の当たりにしてきた者たち。弟子たちに、このイエス様の言葉はどのように響いたでしょうか。
 そもそも、イエス様に対する風当たりは非常に強くなっていました。過越しの祭りに合わせて、都エルサレムに来ること自体、危険なことであることは弟子たちも分かっていました。エルサレムに来る前、十二弟子の一人トマスは、「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」(ヨハネ11章16節)と気を吐いていました。この時、イエスの弟子としてエルサレムにいることは身の危険がある、それは分かっていて死ぬことになっても構わない覚悟で、ここまでついてきた弟子たち。その弟子たちがつまずくという宣告。いつか裏切りますというのではなく、その日、その時、「今晩」、つまずくという宣言でした。それも念入りに聖書の言葉を引用し、その神のことばが実現すると言われたのです。
 何故、イエス様はこのような宣告をされたのか。死ぬ気でついてきている者たちに対して、「今晩、あなたは私を裏切る」とは、あまりに冷たい言葉。仮にそうなるとしても、言わなくても良いのではないかと思うところ。何故、イエス様はここで、裏切りの宣告をされたのか。この点、後程確認したいと思います。

ところで、このイエス様の言葉を受け、真っ先に反論したのがペテロでした。
 マタイ26章33節~35節
すると、ペテロがイエスに答えた。『たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。』イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。』ペテロは言った。『たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。』弟子たちはみな同じように言った。

 聖書を引用したイエス様の宣告を前に、それを否定するペテロ。神のことばを否定し、イエス様のことばを否定する。このように考えると、ペテロのしていることは、とんでもないこと。信仰者としてはありえないこと。
しかしペテロからすれば、ふざけていたわけではなく、またイエス様を否定しているつもりもなく、むしろイエス様を愛していたからこそ、裏切りの宣告を受け入れることが出来なかったのでしょう。「たとえ皆が裏切ろうとも、私は裏切らない。」「死ぬことになろうとも、あなたを知らないとは言わない。」強い思い、強い言葉。この時、真剣にそのように思っていたのでしょう。ペテロの人柄がよく表れている場面。他の弟子たちも同じように言ったと言います。

 ペテロの思いはともかくとしまして、実際にどうなったのかと言えば、イエス様の宣告通りでした。弟子の殆どは、イエス様が捕まる際に散り散りになり、裁判の場所まで行くのは、十二弟子の中で、ペテロとヨハネの二人。このうち、マタイの福音書では、ペテロの姿のみが記録されています。今日は、そのペテロの姿に注目いたします。
 マタイ26章69節~70節
ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。『あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。』ペテロは皆の前で否定し、『何を言っているのか、私には分からない』と言った。」

 イエス様が捕縛されたのはゲツセマネの園。必死に祈るイエス様の横で、弟子たちは眠りこけていました。気づいた時には武装した群衆に囲まれていた。度肝を抜かれた弟子たちの多くは、この段階でイエス様を置いて逃げ出しました。捕えられたイエス様は、大祭司カヤパのところへ連行され、ペテロは遠くからイエス様の後を追います。(26章58節)
ここに出てくる外の中庭とは、その裁判が行われている大祭司の中庭のこと。他の者たちが逃げ出す中で、遠くからとはいえ、ペテロはついて行ったのです。なかなか出来ないこと、凄いこと、勇気あること。
夜明け前、標高高い春のエルサレム。暗く、寒い中で、たき火を囲む者たちにまぎれて座るペテロ。(ルカ22章55節)一体どのような思いだったでしょうか。集まった人々の異様な熱気。不安と恐れの中行われている真夜中の裁判。他の仲間はいなくなり、極度の緊張の中で、女性の一声がペテロを震え上がらせます。
「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」
剣を突き付けられたのではない。有罪だと宣告されたのでもない。ただ、「あそこで裁判を受けているイエスと一緒にいた」という一言で、ペテロは恐怖に襲われるのです。慌てて、「何を言っているのか分からない」と答える。いや、答えにもなっていない答え。ペテロの戸惑いぶり、混乱ぶりが伝わってきます。

 ほんの少し前、死すら厭わないとしてイエス様を裏切らないと言ったペテロ。他の弟子たちが逃げ出す中、裁判を見届けようと踏みとどまるペテロ。しかし、召使いの女性の一声で揺れに揺れる。人間の信念、人間の決意の脆さが浮き出てくるところ。
 たき火ごしに向けられる人々の目に耐え切れなくなったペテロは、その場を離れるも、このまま逃げ出すわけにはいかない、入り口で踏みとどまります。しかし、そこでもう一度、恐怖に襲われることになる。
 マタイ26章71節~72節
「そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。『この人はナザレ人イエスと一緒にいました。』ペテロは誓って、『そんな人は知らない』と再び否定した。」

 一人目の女性はペテロに向かって「あなたはイエスと一緒にいた。」と言いました。二人目の女性は、まわりにいる人に向かって「この人はイエスと一緒にいた。」と言いました。より危険を感じたのでしょうか、慌てたペテロは、「そんな人は知らない」と誓い始める。
 「あの人とは関係がない。」「あの人と一緒にいたことがない。」と言うのならば、まだ分かります。しかしここは、イエスの裁判を行っている場。皆、その裁判を見に来ている。そこにいるペテロが、そのイエスを「そんな人は知らない」と誓う。無茶苦茶です。顔面蒼白になりながら、ますます狼狽える様が見える場面。

 入り口まで来たパウロ。このまま立ち去ることも出来る。しかし更にこの状況で、しばし留まります。
逃げようにも逃げられない。ここで逃げたら、それこそ怪しまれる。どうしようもなく、留まっていたのか。それとも、裁判を終わりまで見届ける、せめてもの忠義を果たそうとしたのか。どちらにしろ、この留まりで、ペテロは自分自身の決意、自分自身の真実さが木っ端微塵となる経験へ進むことになるのです。
 マタイ26章73節
しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。『確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。』するとペテロは、噓ならのろわれてもよいと誓い始め、『そんな人は知らない』と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。

 ここまで二回、「イエスと一緒にいた」と投げかけられ、「分からない」「知らない」と答えたペテロ。しかし、その否定の言葉はガリラヤ訛りだったのです。惚け、誓いを立ててまで否定した、その言葉によって、ますます怪しいとされた。これ以上ない皮肉。ペテロからすれば、踏んだり蹴ったり。
「イエスに従う者の多くはガリラヤ人だが、お前もガリラヤ訛りじゃないか。お前も見たことがある。」と言われ、三度目の否定。それも、呪いをかけて誓い、イエス様との関係を否定します。回を重ねる毎に、強くなる否定の言葉。するとすぐに鶏が鳴き、ペテロは激しく泣きました。

マタイ26章75節
ペテロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います』と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。

 大きな失敗を経て、激しく泣くペテロ。ペテロは何故、泣いたのでしょうか。この涙は、どのような意味があるでしょうか。
イエス様に対して、何という罪深いことをしたと泣き崩れたのでしょうか。決して裏切らないと宣言した数時間後に、立て続けに裏切った自分の弱さ、不誠実さに涙したのでしょうか。他の仲間が逃げだしているのに、裁判の場まで行き、結局はつまずいてしまった。自分の愚かさに涙したのでしょうか。ペテロは、そのような自分自身の情けなさ、不甲斐なさ、後悔も味わいながら泣いたと思います。

 しかしマタイは、この涙の中心は「イエスのことばを思い出した」ことによると記しました。鶏の鳴き声をきっかけに、イエス様が宣告されていた言葉を思い出した。そして、激しくないたのです。どういうことでしょうか。
 数時間前、イエス様が裏切りを宣告した際。ペテロは、その宣告を否定しました。自分がつまずくなど考えられない。他の者が裏切ろうとも、自分が裏切るはずがない。死ぬことになろうとも、裏切るわけがない。自分の力を過信していたというか、己惚れていたというのか、神様の前で高慢であったというのか。これ以上ないほど明確に、イエス様から宣告されても、全く聞き入れなかった。自己信頼、己惚れ、高慢というものが、いかに心を塞ぐのか、教えられる姿。しかし、この一連の出来事を通して、ペテロの自己信頼、己惚れ、高慢が崩れたのです。徹底的に崩された。そして、その後で気付いたのが、その自分の弱さを全てご存知である救い主です。イエス様は私が裏切ることを知っていた。イエス様が苦しみの最中にある時に、これほど無様に、必要以上にイエス様との関係を否定することを知っていた。それでも、自分との関係を終わらせることはなかった。「よみがえった後、あなたがたより先に、ガリラヤに行きます。」と声をかけて下さっていた。
呪いをかけてイエス様との関係を否定する。徹底的に自分の醜さを味わうことになったペテロが、それでも自分を愛する救い主を知ることになった。自分の弱さ、自分の醜さ、自分の罪深さを知ることで、それでも自分を愛する救い主の愛に目が開かれていった。この時ペテロは改めて、その罪深さを知りながら、なおも私を愛するイエス様を知り、激しく泣いたのです。

 最後の晩餐の直後、イエス様が急に話された弟子たちが裏切る予告。死ぬ気でついてきている者たちに対して、「今晩、あなたは私を裏切る」とは、あまりに冷たい言葉。何故、イエス様は裏切りの宣告をされたのかと疑問に思うところでしたが、しかしこのペテロの姿で、意図がよく分かります。
 イエス様がこの宣告をされたのは、つまずいた後を考えてのことでしょう。これから弟子たちはつまずく。しかし、それで弟子たちの人生が終わるわけではない。信仰生活に失敗があろうとも、つまずきがあろうとも、イエス様はそれで弟子たちを見捨てるのではない。信仰の落伍者として、日陰者として生きてもらいたくない。そうなることが分かっていても、それでもこの弟子たちのために十字架にかかり、この弟子たちのために復活し、この弟子たちと再度会う約束をされる。
 「あなたがわたしにつまずくことを知っています。今晩それが起こります。しかし、それでわたしとの関係が終わるのではありません。それでわたしがあなたがたを愛さなくなることもありません。わたしがよみがえった後、あなたと会うために、ガリラヤで待っています。わたしに会いに来るのですよ。」と、言っていたのです。

 イエス様にとって、十字架の死は恐ろしいもの。避けたいもの。この夜、イエス様が繰り返し祈られたのは「わが父よ、できることなら、この杯(十字架での死)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」です。全く罪のないお方が、罪人が受けるべき罰を身代わりに受ける。三位一体という完全な愛の関係にある方が、父なる神に見捨てられるという苦難を味わう。神が死ぬという、私たちが想像しえない苦しみに向かわれる。
その苦しみを目の前にしながら、なおも弟子たちを思い、弟子たちに愛を注がれる救い主。この苦しみの最中に自分を裏切る者たちの、裏切りの後のことまで心を配る救い主。この救い主が、私の救い主であることを今日確認します。何度心配しても、どのような失敗でも、それで見捨てることをされないお方。その失敗から立ち直るように、励まし、守り、導いて下さるお方。イエス様がこのような救い主だから、私のような者でも、信仰生活を続けることが出来ていた。その恵みの大きさを覚えて、皆で感謝したいと思います。

 以上、マタイ26章から、十字架へ向かうイエス様の姿を確認しました。今一度、自分の信仰生活、神様の前での信仰の態度を確認したいと思います。
 自分の心のどこかに、信仰面における自己信頼、己惚れ、高慢な思いは無いか。自分の弱さ、醜さ、罪深さには目を留めず、教会の中でどのように見られているか、教会での立場、自分のなした奉仕、どれだけ礼拝を守ってきたのか、そのような自分のこれまでの信仰生活を、自分自身の誇りとしていなかったか。よくよく確認したいと思います。
 自分の弱さ、醜さ、罪深さに気付いたことを通して、それを覆うイエス様の強さ、美しさ、恵み深さを知ったペテロ。受難節のこの時、私たちも同じ歩みをしたいと思います。「神様、私の弱さ、醜さ、罪深さに、私が気付けるようにして下さい。そして、その私を受け入れ、見捨てず、愛したもうイエス様の強さ、美しさ、恵み深さを味わう者として下さい。」と一同で祈りつつ、信仰者の歩みを続けていきたいと思います。

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