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10月, 2019の投稿を表示しています

ウェルカム礼拝「心の声を感じた時に」ヨハネ14:6

一般的に自分を変えたい、変わりたいと思う人は多くいると言われます。 外見を変えたいという人。内面を変えたいという人。もっと評価されたい、能力ある者と認められたいという人。社会的な立場を変えたいという人。憧れの有名人のようになりたいという人。あるいは、どうしようもないことですが、 あの事さえ起こらなければ、あの事さえなければ良かったとして、過去を変えたいという人。鳥になりたい、魚になりたいとか、犬や猫になりたいという人もいるでしょうか。 順風満帆、充実した状況にある人、他の人から羨ましいと思われる状況の人も、ある部分は変えたいと願う。逆境、困難の最中、辛いことが重なると、全てを投げ出して別人としてやりなおしたいと考えることもあります。 何かがおかしい、何かが足りない、何かが欠けている。願うような状況で生きられない。どうも自分らしく生きることが出来ない。 多くの場合、私たちは漠然とした不安、焦燥感の中で毎日を生きています。 変身が題材となる話は、世界中、どの時代、どの文化にもあると言われます。 大人向けのものから、子ども向けのものまで。日本の中だけみても、古事記や日本書紀にも変身譚が含まれ、鶴の恩返しや浦島太郎も変身が重要な題材。中島敦の山月記は、学校の教科書にも載る有名なものですが、詩人を目指すもそれが叶わず虎になった男の話。仮面ライダーやウルトラマンのヒーロー特撮物、プリキュアなどのアニメも、変身が大事な要素です。あちらこちらにある変身話。これもまた、自分を変えたい、変わりたいと思う人が多いということでしょう。  皆様は今の自分に満足しているでしょうか。自分の人生を楽しんでいるでしょうか。自分を変えたい、変わりたいと思うでしょうか。 ある意味で「変わりたい」と思うことは不幸なことです。 今の自分に満足することが出来ない。自分にある良いものに目を留めず、無いものばかり追い求める。自分の願うようになることを第一として、手にいれたいものを追いかけ続ける。変わりたいと言い続けるのは苦しいこと。変えようがないこと、変えたいと願い続けるのは大変なことです。 しかしある意味で「変わりたい」と願うのは、良いことでもあります。自分にも、周りの人にも害をもたらす習慣。凝り固まった思考の癖。怒りや憎しみを手

70周年記念(7)「何一つ忘れるな」詩篇103:1~5

 今朝取り上げたのは詩篇 103 篇。私たちの教会の初代牧師小畑先生は詩篇について書いた「詩篇講録」という本のなかで、この詩篇について「詩篇の横綱、詩篇の最高峰のひとつ」と称賛しています。この本は先生が献げてくださり、教会の図書においてありますから、関心のある方は読んでみることお勧めします。  さて、第 103 篇が詩篇の横綱とか最高峰の一つと言われるのは、分かりやすいこと、名言名句が多いこと、全体が賛美、頌栄で明るい調子であること等が理由と言われます。中でも冒頭の 1,2 節は昔から多くの人に親しまれてきました。私たちの教会の今年度の聖句でもあります。   103:1、2「わがたましいよ【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ【主】をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」   ここで詩人は自分のたましいに向かって「何一つ忘れるな」と語っています。ところで、皆さんが普段「これは忘れてはならない」と考えているものは何でしょうか。奥さんの誕生日でしょうか。銀行の暗証番号でしょうか。恩師や友から受けた恩でしょうか。家族との大切な思い出でしょうか。人によって忘れてならないものは異なるでしょうが、共通しているのは私たちが忘れてはならないと感じているもの、それは人生において非常に大切なものだということです。  それでは、この詩篇が「忘れてはならない」いや「何一つ忘れてはならない」と強調する程大切なものとは何でしょう。それは「主がよくしてくださったこと」でした。私たちクリスチャンにとって、主が良くしてくださったことを忘れないこと、思い起こすこと、ほめたたえることは、キリスト教信仰の生命線だというのです。代々の教会は主が良くしてくださったことを思い起こし、主を褒めたたえることで力を得、前進してきたのです。  これまで 70 周年記念礼拝を一月に一回、計六回行ってきました。今朝が最終の礼拝となります。そこで今朝は、 70 年の間主なる神が私たちの教会に良くしてくださったことを思い起こすことから始めたいのです。とは言っても、主が良くしてくださったことは膨大で、ほんの一端しか紹介できないのが残念ですが、 70 年を三つの時代に分けて、大まか

世界食糧デー「深くあわれみ~主の心で世界を見る~」マルコ6:30~44

今朝の礼拝説教は、世界食糧デーを覚えて行います。そもそも世界食糧デーとは何なのか。ご存知の方もいると思いますが、改めて確認しましょう。世界食糧デーは国連が定めた世界の食料問題を考える日です。世界の一人ひとりが協力しあい、最も基本的な人権である食料への権利を現実のものにし、世界に広がる飢餓、栄養不良、極度の貧困を解決することを目的としています。 それでは、聖書は飢餓、貧困の問題について何を教えているのでしょうか。これを私たち教会が取り組むべき問題と教えているのでしょうか。もしそうだとすれば、どの様に取り組むべきなのでしょうか。 さて、福音書には様々な病の癒し、死者のよみがえり、湖の嵐を静める等、主イエスの行った多くの奇跡が記録されています。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ四つの福音書が共通して記録している奇跡は一つしかありません。その一つが、男だけで五千人、女性と子どもを含めればおよそ一万人とも思われる大群衆の腹を、五つのパンと二匹の魚をし祝福しこれで満たしたという「五千人への給食」の奇跡です。 四福音書中一番最後に書かれたこともあり、マタイ、マルコ、ルカの三福音書が既に記録した奇跡を除き、あえて他の奇跡を記録することに努めたヨハネも、ただ一つ「五千人への給食」の奇跡だけは書き留めています。それ程この出来事が初代教会にとって大切な意味を持っていたということなのでしょう。ところで、この「五千人への給食」の奇跡が行われた時、主イエスと弟子たちはどの様な状況にあったのでしょうか。 6:30~ 33 「さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。」 この時弟子たちは、伝道旅行から帰ったばかり。主イエスの元に集まると、悪霊を追い出したこと、多くの病人を癒したこと、罪の悔い改めと福音を教えたこと等お互いに分かち合い、