世界食糧デー「深くあわれみ~主の心で世界を見る~」マルコ6:30~44


今朝の礼拝説教は、世界食糧デーを覚えて行います。そもそも世界食糧デーとは何なのか。ご存知の方もいると思いますが、改めて確認しましょう。世界食糧デーは国連が定めた世界の食料問題を考える日です。世界の一人ひとりが協力しあい、最も基本的な人権である食料への権利を現実のものにし、世界に広がる飢餓、栄養不良、極度の貧困を解決することを目的としています。

それでは、聖書は飢餓、貧困の問題について何を教えているのでしょうか。これを私たち教会が取り組むべき問題と教えているのでしょうか。もしそうだとすれば、どの様に取り組むべきなのでしょうか。

さて、福音書には様々な病の癒し、死者のよみがえり、湖の嵐を静める等、主イエスの行った多くの奇跡が記録されています。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ四つの福音書が共通して記録している奇跡は一つしかありません。その一つが、男だけで五千人、女性と子どもを含めればおよそ一万人とも思われる大群衆の腹を、五つのパンと二匹の魚をし祝福しこれで満たしたという「五千人への給食」の奇跡です。

四福音書中一番最後に書かれたこともあり、マタイ、マルコ、ルカの三福音書が既に記録した奇跡を除き、あえて他の奇跡を記録することに努めたヨハネも、ただ一つ「五千人への給食」の奇跡だけは書き留めています。それ程この出来事が初代教会にとって大切な意味を持っていたということなのでしょう。ところで、この「五千人への給食」の奇跡が行われた時、主イエスと弟子たちはどの様な状況にあったのでしょうか。


6:30~33「さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。そこで彼らは、自分たちだけで舟に乗り、寂しいところに行った。ところが、多くの人々が、彼らが出て行くのを見てそれと気づき、どの町からもそこへ徒歩で駆けつけて、彼らよりも先に着いた。」


この時弟子たちは、伝道旅行から帰ったばかり。主イエスの元に集まると、悪霊を追い出したこと、多くの病人を癒したこと、罪の悔い改めと福音を教えたこと等お互いに分かち合い、主イエスから労をねぎらわれる。そんな宣教報告会、主イエスとの交わりの時を持つことができて、喜んでいたようです。

 主イエスは弟子たちの活躍を喜びつつも、緊張に満ちた伝道旅行を終えたその顔に疲れを感じられたのでしょう「人々から離れ、あなた方だけで休むことのできる場所に行き、ゆっくりと食事をとりなさい。」と勧めます。主イエスのご配慮でした。弟子たちは、早速舟に乗り込み湖を渡ったのですが、生憎の凪ぎで舟足が遅かったのでしょうか。湖のまわりを徒歩で行く人々が既に目的地で待ち構えていたのです。

 気の置けない仲間とゆっくりできると期待していた弟子たちにとって、この状況はどう感じられたでしょうか。勿論、これ程多くの人々が自分たちの主を慕い集まってくれたことは嬉しいとしても、少し厄介に感じる者もいたかもしれません。

 それに対して、主イエスは群衆の存在をどう思ったのでしょうか。「人が大勢集まってきて嬉しい」とか「これ程多くの人に対応するのは厄介だ」、そんな思いは微塵もなく、主イエスの心は彼らを深くあわれむ思いで満ちていたというのです。


 6:34「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」


 「羊飼いのいない羊の群れ」というのは、旧約聖書にしばしば登場する表現で、貧しい者を守り養う王がいない状況、苦しむ者にあわれみを示す宗教的指導者がいない状況を指します。王も宗教的指導者も私利私欲に走り、私腹を肥やすばかり。貧しい者、苦しむ者に心配る者は少なく、彼らが貧困と苦しみの中に放置されている。主イエスは当時のユダヤ社会をその様に見て、大勢の群衆に対し深いあわれみを感じられたのです。

ここに使われた「深くあわれむ」ということばは、腸がちぎれるような痛みを意味してますから、主イエスのあわれみの深さは尋常なものではありませんでした。ここに神の様なあわれみの心を抱いて人々に仕える真の王、真の宗教的指導者が到来した。主イエスこそ貧しい者が放っておかれる世界に、神が遣わした救い主。そんなマルコのメッセージを聞くことができます。

 こうして始まった大集会がどれ位続いたのか。日暮れが近いと気づいた弟子たちは、「そろそろ解散の時間ではないですか。早くしないと、食べ物を売る店も閉まってしまうのでは…」と進言。しかし、主イエスの答えは意外なものでした。


 6:35~38「そのうちに、すでに遅い時刻になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」すると、イエスは答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリのパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」

イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」


解散とばかり思っていた弟子たちにしてみれば、大群衆を前に「あなた方が、あの人たちに食べるものをあげなさい」と言われたことは吃驚仰天。「イエス様、目を開けてよく見てください。この群衆を食べさせるには、少なく見積もっても二百デナリのパンが必要ですが、手元には五つのパンと二匹の魚しかないんですよ。ここは解散しかないでしょう。」恐らく、これが弟子たちの正直な気持ちでした。

ちなみに二百デナリのパンとはどれ位のものなのか。一デナリは当時の労働者の賃金一日分ですから、二百デナリは二百日分の賃金。現代の日本人サラリーマンの平均給与が450万円とされますから、270万円相当のパン。これ程大量のパン、想像できますでしょうか。

ところで、この奇跡を経験した弟子たちが思い起すべき出来事がありました。それは、旧約聖書の時代、出エジプトをしたイスラエルの民が40年もの間荒野で旅を続けながら、一人として飢えて死ぬ者なく、神様に守られ養われたという奇跡です。

この出来事で大切なのは約束の地が近づいた時、指導者モーセが旅を振り返り、人々に語った教訓です。モーセによれば、神がイスラエルの民を養い続けた奇跡の旅には、学ぶべき二つの目的があったのです。第一は、神を信頼し、神の教えに従う者は霊的にも肉体的にも祝福されること。第二は、神の祝福を受けた者は、貧しい者、苦しむ者を助けるつとめがあることです。

ですからこの場面、主イエスは弟子たちがご自分を神として信頼するように、また、神から受けた祝福、賜物を用いて貧しい者、苦しむ者を助ける者となるように、彼らを訓練していると言えます。しばらくして後、主イエスはご自分が十字架に死に、復活し、天に帰る時が来ることを予測していました。その時以降伝道でもあわれみのわざでも、教会がご自分の働きを継続すること願っておられたのです。

こうして、弟子たちは主イエスとともに貧しい者に仕えるという働きを経験することになります。このれによって、主イエスへの信頼とあわれみのわざにおいて成長するよう訓練されたのです。


6:39~44「するとイエスは、皆を組に分けて青草の上に座らせるように、弟子たちに命じられた。人々は、百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまって座った。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。彼らはみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。」


グループ毎に食べ物を配るうちに、最初は多すぎて数えられなかった群衆が男子だけでも五千人、女性と子どもを含めたらおよそ一万人もいたことに、弟子たちは驚いたでしょう。いや、それ以上に、主イエスが人々の魂の救いだけでなく、人々の日々の糧、腹を満たす食べ物のことにまで心を配る救い主であることに驚いたのではないでしょうか。

この場面に限りません。神が私たちの食物健康問題にどれ程関心があるか。特に貧しい者の胃袋を満たすことについていかに関心を抱いているのか。聖書の至るところに見ることができます。主イエスは繰り返し、天国を神が主催する祝宴と表現していますし、祝宴にはご馳走がつきものです。旧約聖書には、貧しい者への配慮、健康への配慮を示す多くの律法がありますし、天国の祝宴で人々はぶどう酒と脂身の多い肉を食べると預言されていました。

この時人里離れた場所に出現した大きな食卓、主イエスに招かれ人々がともに食物を分かち合う共同体は天国での祝宴を指し示すものと言われます。私たちが天国の到来をただ座って待つのではなく、天国の祝宴に少しでも近い食卓、人々が天国の前味を感じられるような共同体をこの世界に築いてゆく使命があること、ここから教えられたいと思うのです。

以上私たちの使命を確認した上で、飢餓問題に目を向けますが、飢餓とは健康を保つのに必要最低限の食物を口にできず、栄養不足の状態が長く続くこととされます。現在、飢餓に苦しむ人は世界人口の11%、9人に1人が飢餓による死に直面しています。飢餓が原因で命を落とす子どもは1分間に12人、年間690万もの子どもが飢餓で命を落としていることになります。

それでは、世界全体が食料不足なのかというとそうではありません。一年間に一人の大人が生きるのに必要な穀物の量は180キロ。それに対して世界全体の穀物生産量を人口で割ると、一人当たり320キロの穀物を持っていることになり、数字上世界に飢餓は存在しえないわけです。しかし、方や肥満によるダイエットや食べ残し、食料廃棄が大きな問題となるような先進国があれば、方や飢餓で苦しむ人々があとを絶たない国がある。

主イエスがこの様な世界を見られたら、どう感じるでしょうか。一度の夕食を抜くユダヤの人々のことを深くあわれまれた主が、飢餓に苦しむ人々のことをどれ程あわれんでおられることか。それを思う時、私たちは主イエスの心を抱いて、この世界を見る者、飢餓の問題について考える者でありたいと思います。

私たちの内には自己中心の性質が宿り、影響を与えています。主イエスに従う今も主と同じ心で飢餓に苦しむ人のことを見ることができない時もあるでしょう。弟子たちの様に、それらの人々の存在を厄介と感じたり、お荷物と思ったりすることがあるかもしれません。しかし、そのような時は罪を悔い改め、「私の心をあなたと同じ心に造り変えてください。」と主イエスに祈り求めたいのです。

また、これは余りにも大きく、困難な問題ですから、自分達には何もできない。できたとしても焼け石に水、何の役に立つだろうかと思うこともあるでしょう。しかし、そのような時は、主イエスがこの働きに私たちを招いていることを覚えたいのです。弟子たちがわずかなパンと魚をささげ人々に仕えたように、私たちも与えられたものをささげて、飢餓貧困に苦しむ人々に仕えたいのです。

国際食糧デーのポスターでは「一日一食分の食費500円を」とアピールされています。今の日本では、どれ程の価値があるのかと思われる金額です。しかし、貧しい国では400個ものパンを買うことができる賜物、財産と変わります。余裕のある方は一時的な献金だけでなく、一人の子どもの食費や学費を支える定期献金について検討することお勧めします。私たちは経済的に祝福された国に生かされている意味を考え、行動する者でありたいのです。

さらに、飢餓の原因を知ると、私たちがすべきこと、できることは広がって行きます。飢餓は天候不順など自然の原因のみではなく、先進国が行う農業ビジネスのやり方にも原因があると言われます。1970年代以降、先進国はアフリカの国々にコーヒーや砂糖、パイナップルや綿花など先進国に売るための作物を作るよう経済的援助を行ってきました。しかし、それらの作物は安く買い叩かれ、国土の多くが輸出専用の畑となりました。自分たちの食料のため、わずかに残された土地を何度も耕したため、土地が痩せて作物はできない、借金はかさむ。農民たちは貧しい生活を強いられ、飢餓に追い込まれたと言われます。

降雨量の減少も、先進国による大量の木の伐採が原因とされます。森林が破壊されると水分を保つ土地がなくなり、干ばつが起こる。土地は砂漠化し、洪水が頻発。その結果、畑に使用できる土地が失われてゆくというのです。貧困はテロの温床とも言われます。

先週私の知人で牧師をしている兄弟から手紙が届きました。今度タイの友人と協力し、コーヒー豆輸入販売会社を立ち上げたというのです。以前は貧しさゆえに先進国向け麻薬栽培の仕事で生活せざるを得なかった人々の就労支援、教育や医療の充実のためにコーヒー農園を経営するクリスチャンの青年と友人となり、その志に共感、心動かされたそうです。彼が農園で作るコーヒー豆を適正価格で取引できる販売ルートを必要としていることを知り、輸入販売の会社を立ち上げたと言うのです。

私の友人夫婦の娘さんは、南米エクアドルに滞在したおり、子どもたちの教育環境が余りにも貧しいこと、図書館が一つもないことに心を痛め、留学して開発学や平和構築学を学び、将来貧困地域の子どもたちの教育に関わる仕事をしたいと願っています。

献金する。貧しい者の為正しい経営を行う会社を立ち上げる。その会社の製品を買う。貧困と教育、平和の関係について学ぶ。自ら働き人となる。働き人を祈り支える。神は私たち一人一人にできること、すべきことを与え、私たちを通して世界を変えようとしておられるのです。私たちは主イエスの心で世界を見る者、自分にできることを考え、実行する者でありたいと思います。


申命記15:11「貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」

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