ウェルカム礼拝「心の声を感じた時に」ヨハネ14:6


一般的に自分を変えたい、変わりたいと思う人は多くいると言われます。外見を変えたいという人。内面を変えたいという人。もっと評価されたい、能力ある者と認められたいという人。社会的な立場を変えたいという人。憧れの有名人のようになりたいという人。あるいは、どうしようもないことですが、あの事さえ起こらなければ、あの事さえなければ良かったとして、過去を変えたいという人。鳥になりたい、魚になりたいとか、犬や猫になりたいという人もいるでしょうか。

順風満帆、充実した状況にある人、他の人から羨ましいと思われる状況の人も、ある部分は変えたいと願う。逆境、困難の最中、辛いことが重なると、全てを投げ出して別人としてやりなおしたいと考えることもあります。

何かがおかしい、何かが足りない、何かが欠けている。願うような状況で生きられない。どうも自分らしく生きることが出来ない。多くの場合、私たちは漠然とした不安、焦燥感の中で毎日を生きています。

変身が題材となる話は、世界中、どの時代、どの文化にもあると言われます。大人向けのものから、子ども向けのものまで。日本の中だけみても、古事記や日本書紀にも変身譚が含まれ、鶴の恩返しや浦島太郎も変身が重要な題材。中島敦の山月記は、学校の教科書にも載る有名なものですが、詩人を目指すもそれが叶わず虎になった男の話。仮面ライダーやウルトラマンのヒーロー特撮物、プリキュアなどのアニメも、変身が大事な要素です。あちらこちらにある変身話。これもまた、自分を変えたい、変わりたいと思う人が多いということでしょう。

 皆様は今の自分に満足しているでしょうか。自分の人生を楽しんでいるでしょうか。自分を変えたい、変わりたいと思うでしょうか。


ある意味で「変わりたい」と思うことは不幸なことです。今の自分に満足することが出来ない。自分にある良いものに目を留めず、無いものばかり追い求める。自分の願うようになることを第一として、手にいれたいものを追いかけ続ける。変わりたいと言い続けるのは苦しいこと。変えようがないこと、変えたいと願い続けるのは大変なことです。

しかしある意味で「変わりたい」と願うのは、良いことでもあります。自分にも、周りの人にも害をもたらす習慣。凝り固まった思考の癖。怒りや憎しみを手放すことが出来ない。変われないことが、辛く、大変な場合がある。良い意味での向上心は、私たちの人生を良くする上で必要なものです。

皆さまは、自分を変えられるとしたら、何を変えたいと思うでしょうか。どのように変えたいと思うでしょうか。その「変わりたい」という願いは、不幸な願いでしょうか。良い願いでしょうか。


 変わりたいと思うということは、自分らしさとも関係しています。どうも、自分らしく生きることが出来ていないように感じる。親からの期待、友人たちの評価、社会通念と言われるもので、自分の願いではない選択を強いられるようなことがあります。他の人の目、他の人の評価ばかりが気になり、自分の願うような生き方になっていない。借り物のような人生に感じられることがあります。どうも自分らしく生きられていない。だからこそ、変わりたい、変えたいと思う。大なり小なり、多くの人が味わうことです。

 とはいえ自分らしいとは何かということ自体が難しい問題です。そもそも、自分らしいとは何か。快、不快で判断したら良いのか、我慢しないことなのか。好み、傾向のことか。他の人と比べて生きるよりも、自分らしく生きる方が良いとして、しかし自分らしく生きるということが難題なのです。

 皆様は自分らしさとは何か、答えがあるでしょうか。


 良い願い方にしても、不幸な願い方にしても、人間は変わりたいと思う存在。なぜ私たちは、変わりたいと願うのでしょうか。また、何にせよ変わりたいと思うのが人間だとしたら、その人らしさ、自分らしいというのは、どういうことなのでしょうか。「自分らしく生きる」とは、どのような生き方なのでしょうか。このようなことを念頭に置きながら、ともに聖書を開きたいと思います。


 なぜ私たちは変わりたいと願うのか。聖書によれば、そもそも人間は、その人だけでは幸せにならない、自分一人では満足しない存在として造られたと教えています。

 創世記1章27節

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。


 聖書によりますと、この世界は神様によって創られた。造られた世界の中で人間は、最高の作品。「神のかたち」に創られたと言います。これはあらゆるものの中で、人間にだけ当てはまること。「神のかたち」というのは、神様とともに生きることで本当の幸せを味わう存在という意味です。

例えて言えば、神様は人間をジグソーパズルのようなものとして創られた。ただし、完成したジグソーパズルではなく、未完成のもの。あと一つのピースがあれば、完成するジグソーパズルです。神様とともに生きるという最後の一つのピースを当てはめると、人間は最も良い状態となる。その人らしく生きられる。神様は、人間をそのような存在、「神のかたち」に創られたというのです。

 想像してみて下さい。目の前に、あと一つのピースで完成するジグソーパズルがある場合。これで完成、これで満足とは思えないでしょう。最後の一つのピースを埋めたいと思います。同様に、私たちは生まれながらにして、自分一人では満足出来ない、神を求める存在なのです。


 「神のかたち」に造られた人間。最後の一つのピースは、神様とともに生きることが当てはまる存在。この人間が、神を信じない、神に従わない、神などいないとして生きるとしたら、どうなるでしょうか。

 もともと一つのピースが足りていないので、何かを捜し続けることになる。何かが足りない、何かが欠けていると感じるのです。しかし、最後の一つのピースである神様とともに生きることを否定するため、他のものを追い求めることになる。しかし結局のところ何を手にしても満足出来ない。富でも、名声でも、地位でも、快楽でも、夢の実現でも。これがあれば満足するはず、こうなれば幸せになれるはずと追い求めて手にしても、得られるのは一時的な幸福感だけなのです。

 聖書は、神を信じない、神に従わない、神などいないとして生きることを「的外れ」「罪」と表現しています。神から離れた状態は、的が外れた状態。「罪」の中に生きることは、人間にとって様々な点で悲惨なことですが、その悲惨の一つの現れは、本当の満足を得られないということ。その人らしく生きることが出来ないこと。


 何かがおかしい、何かが足りない、何かが欠けている。自分らしく生きられていないように感じる時。

多くの場合、私たちは自分自身に向き合います。自分のここが変われば良いのではないか。新たに何か獲得出来れば良いのではないか。あるいは、自分の周りにいる人たちや、社会に向き合います。私の周りにいる人は、私の主張、私の願いを受け入れて欲しい。私の主張、私の願いが認められる社会であって欲しい。しかし聖書は、まず向き合うべきは神であると言います。私を造られた方を抜きに、自分らしさを考えることは不毛なことなのです。

 いかがでしょうか。聖書のこのような主張、このような人間観を、皆様はどのように受け止めるでしょうか。


 ところで聖書が教える、神のかたちに造られた人間にとって重要な「神様とともに生きる」とは、具体的にどのような生き方なのでしょうか。

 「神様とともに生きる」とは、私中心に生きるのではなく、神中心に生きること。私の生きたいように生きるのではなく、神様の願われる生き方をすること。そして、神様の願われる生き方は、聖書に記されています。

聖書には、具体的にどのように生きることが良いことなのか、多くの記述がありますが、有名な箇所を挙げるとすれば、十の教え、十戒があります。神様を愛するとは具体的にどのようなことか、人を愛するとは具体的にどのようなことか、十の戒めにまとめられたもの。ですので「神様とともに生きる」とは、たとえば、この十の戒めを徹底的に守る生き方と言えます。


「神様とともに生きる」とは、神様の願われる生き方をすること。神様の戒めを守ること。しかし神を無視して生きるようになった人間、罪の中に生きる人間は、この戒めを守ることが出来ません。一見、簡単なように思える戒めでも守ることが出来ない。

例えば、十戒の六つ目の戒めは「殺してはならない」というものです。神様が願われるのは、私たち人間が互いに殺し合わないこと。普通に考えれば、これは守れると思います。しかし、神様の言われる「殺してはならない」という戒めの意味は、ただの殺人の禁止ではありません。心の中も問うものでした。イエス・キリストが、「殺してはらならい」という戒めの意味を次のように解説しました。

マタイ5章21節~22節

昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。


 兄弟というのは、身近にいる人のことです。身近にいる者に対して怒るというのは、相手の存在を疎んじていること。ばか者、愚か者と蔑むというのは、存在を否定すること。それは「殺してはならない」という戒めに反することなのだと言われる。


十戒の第七戒は「姦淫してはならない」というものです。不倫をしないように。結婚関係以外で性的関係を持たないように。普通に考えれば、これも守れるという方は多くいるでしょう。しかし、神様の言われる「姦淫してはらない」という戒めの意味は、ただの不倫の禁止ではありません。これもまた、心の中も問うものでした。

マタイ5章27節~28節

『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。


 行為としての「殺人の禁止」「不倫の禁止」ならば、守ることが出来る人もいるでしょう。しかし行為だけでなく、心の中まで見られる神様の前で、神様の喜ばれる生き方をすることは、私たちには到底出来ないのです。


 このように考えてきますと、私たちはどのような状態と言えるでしょうか。神のかたちに造られた人間は、神様とともに生きることが本来の生き方、本当の幸せを味わう生き方です。ところが、神から離れた人間、罪の中にいる人間は、神様とともに生きることが出来ない。本来の生き方、本当の幸せを味わう生き方が出来ないことになります。それではどうしたら良いのか。聖書はどのように教えているのか。

 神様から離れた人間、罪の中にいる人間。本来の生き方、本当の幸せを味わう生き方が出来なくなった私たちを救う方、救い主がいるというのが聖書の大事な主張です。その救い主がイエス様。イエス・キリストです。


 そのイエス様が言われた言葉が、今日注目する言葉です。

 ヨハネ14章6節

イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』


 ここに「道、真理、いのち」と出て来ますが、簡単に言えば、人間の本来の生き方、本当の幸いな生き方のことです。今日のテーマに合わせて言えば、最も自分らしい生き方のことです。

これまで多くの人が、「道、真理、いのち」について語ってきました。宗教家、哲学者、偉人。著名な人でなくても、本来の生き方、本当の幸せとは何か考え、自分らしく生きることを目指してきました。現在も「自分らしく生きる」ことをテーマにした本は続々と出版されています。様々な主張があり内容は異なりますが、どれも「道、真理、いのち」と思われるものを紹介するものです。〇〇のように生きたら良い、〇〇のように生きることが幸せ、という主張です。

 しかし、イエス様は「私が道、真理、いのちです」と言われ、自分を指しました。〇〇のように生きたら良いから頑張りなさいと言われたのではなく、私を信じなさい、私を救い主として受け入れなさいと言われました。人間にとって最も重要な、神とともに生きるというのは、私を通してでなければ、出来ないと明言されました。

神様の願われる生き方が出来ない私たちの代わりに、正しく生きられた方。神様の願われる生き方が出来ない私たちを、造り変えて下さる方。私が私らしく生きるために、鍵となる方。

聖書が教える救い主とは、神様から離れた者を、神様とともに生きる人生へと連れ帰してくれる方。自分らしさが何か分からなくなった者を、自分らしく生きる者へ変えて下さる方。この救い主を、自分の救い主として信じるかどうか。

 皆様は、この救い主にどのように向き合うでしょうか。


 以上、「変わる」こと、「自分らしく生きる」ことをテーマに、皆様とともに考えました。私たちは人生の多くの場面で、変わりたいと願います。自分らしく生きられていないと感じることがあります。何かがおかしい、何かが足りない、何かが欠けていると、自分の心の声が聞こえてくる時があります。そのような時、どうしたら良いのか。神無し、神抜きで考えるのか。神有り、神様の言われることを受け入れるのか。大きな違いがあります。


神無し、神抜きで考えるとしたら、自分らしさというのは自分で決めることになります。それが本当に自分らしいかどうかは分からない。けれども、自分の決めた自分らしさに向かって、自分を変えていくしかない。変わることが自分にとって本当に有益かどうか分からなくても、そうするしかない。それは本当に大変な生き方ではないかと思います。しかも聖書の言う通りであれば、その生き方ではどれほど自分の願うように自分を変えられとしても満足することはない。本当の意味で、自分らしく生きることは出来ないのです。


 神有り、神様の言われることを受け入れて、「変わる」こと、「自分らしく生きる」ことに取り組む。イエス・キリストが私の救い主であると信じることで、神様とともに生きる人生を歩む。自分らしさを自分で決めるのではなく、イエス様を信じることで、神様との関係の中で自分らしさを見出していく。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と言われたイエス様を信じて生きることを、心からお勧めいたします。

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