投稿

11月, 2019の投稿を表示しています

Ⅰコリント(28)「愛がなければ」Ⅰコリント12:27~13:7

私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、コリント教会がさながら問題のデパートのような教会であることを示し、私たちを唖然とさせてきました。 「誰を指導者とするか」で互いに争う仲間割れ。教会内でトラブルを解決できず、この世の裁判所に出てクリスチャン同士が訴え合うという浅墓な行動。自分の母と通じた者を戒めず、遊女の元に通う者を大目に見る等、目を覆いたくなるような不道徳。未信者の相手と離婚しようとする者がいるかと思えば、徒に結婚を焦る者たちがいたという結婚の問題。偶像にささげられた肉の問題を巡る二グループの対立等々。 主イエスの恵みによって罪赦されたとはいえ、教会が未だなお罪人の集まりであることを示すこの手紙によって、私たちも同じく不完全であり、取り組むべき課題をもつ信仰者の一人と教えられる。そう感じるのは私だけでしょうか。 さて、今朝読みました 12 章の後半から 13 章前半は、 11 章から 14 章まで続く大きな段落の一部です。この段落でパウロが扱っているのはコリント教会における礼拝の混乱という問題で、その混乱ぶりは三つの点で顕著でした。 第一は、当時のギリシャ社会では女性として非常に恥ずかしい格好とされていたこと、かぶり物、ベールなしで礼拝に参加する女性たちの問題です。男尊女卑の社会にあって男女対等、女性の自由を主張するその考えは良しとしても、余りにも常識外れで人々の顰蹙をかったその行動を戒め、パウロは「礼拝の場では頭にかぶり物を着けよ」と命じました。 第二は、当時礼拝の前に行われていた夕食交わりの場で、富める者が貧しい者を辱しめていた問題です。そもそも貧しい者と食べ物を分かちあう目的で始まった夕食交わりなのに、富める者が先に食べて満腹し、貧しい者は空腹のまま見捨てられるという酷い状況を呈していたのです。パウロは、夕食交わりに集まる時は待ち合わせ、互に分かち合って食べるよう勧めました。 そして、 12 章から 14 章では、第三の混乱をパウロは扱っています。賜物自慢の問題でした。これまで何かにつけ対立してきたコリントの人々ですが、教会の礼拝でもどちらの賜物が優れているのか競っていたらしいのです。特に異言の賜物を誇る

一書説教(55)「テモテへの手紙第二~主が授けて下さる~」

神学生時代に公園伝道に取り組んでいた時のこと。仲良くなった小学生の子に、「人は死んだらどうなると思う?」と質問しました。その子は真剣に考えた後、「怖くて考えられない。」と答えてくれました。「怖くて考えられない。」死んだ後、どうなるか分からない。何の確証もないまま、死に向き合うなど、怖くて出来ることではない。とてもまともな答えだと思いました。  聖書を信じる時、 キリストを信じる時、私たちは様々な恵みを頂きますが、そのうちの一つは、死に向き合うことが出来ること です。死は終わりではなく、永遠の世界の始まり。死を前に悲しむことはあっても、絶望することはない。キリストを信じる私たちは、真正面から死に向き合うことが出来る者なのです。  キリストを信じる者は死に向き合うことが出来る。とはいえ多くの場合、私たちは自分の死を想定して具体的に備えることはしません。頭では「いつ死ぬか分からない」と理解しつつ、いつ死んでも大丈夫と備えることはなかなか出来ないものです。 仮に今日、自分が死ぬとしたら、皆様は何に取り組むでしょうか。 周りの人に何を託し、何を願い、何を伝えるでしょうか。(四日市キリスト教会には、葬儀についてのアンケートがありますので、まだ記していない方は記すことをお勧めいたします。)  聖書には、 自分の死を意識して、周りの人に伝えた言葉が、いくつも記録されています。 遺言と言えるような箇所。自分の遺骸について指示を残したヨセフ。(創世記50章24節~25節)「主に仕えるのが嫌であれば、好きなものを選ぶが良い。ただし、私と私の家とは主に仕える。」と直言したヨシュア。(ヨシュア記24章14節~15節)自分の出来なかった人事采配を息子ソロモンに託したダビデ。(Ⅰ列王記2章5節~9節)他にも色々と挙げることが出来ます。一つの書、丸ごと遺言説教として読むことが出来る書もあり、旧約聖書では申命記、モーセの遺言説教。新約聖書ではテモテへの手紙第二、パウロの遺言説教です。  自分の死を意識し、最後に伝えたいことがあるとして語られた(記された)言葉。そこには重みがあり、迫力があります。聖書六十六巻のうち、一つの書に向き合う一書説教。通算、五十五回目。新約篇の十六回目。今日はパウロの遺言にあたる、テモテへの手紙第二に注目いたします。最

成長感謝礼拝 第一礼拝「神に対して富む者」ルカ12:13~21

今日は成長感謝礼拝です。皆様と共に、神に頂いたいのちの意味について考えたいと思います。ところで、聖書は人間のいのちには二つの面があることを教えています。肉体のいのちと霊的ないのちです。肉体のいのちは他の動物にも与えられていますが、霊的ないのちは人間にのみ与えられたもの。果たして、私たちは神を知り、神と交わり、神に対して生きる霊的ないのちの持ち主であること、どれ程心にとめて生活しているでしょうか。肉体のいのちを守り、養うことに関心を抱くのと同様、霊的ないのちを守り、養うことに関心を抱いているでしょうか。 さて今日の聖書の場面、主イエスのもとに群衆、それも互いに足を踏み合う程多くの群衆が集まってきました。数えきれない程の群衆ともあります。彼らを前にして、主イエスはまず弟子たちを戒めました。彼らに偽善に注意するよう語っていた最中のこと、一人の男が声を張り上げます。   12:13 「群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」      突如、割って入った大きな声。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」遺産相続争いです。昔も今も遺産相続は人々の関心の的。争いの種となってきました。  ルカの福音書の特徴のひとつは、他の福音書と比べて金銭、財産に関する教えや問答が多く記されていること。ルカは、人間の心がいかに金銭、財産に捕らわれやすいかを知っていたし、金銭、財産についてどう考え、どう用いるべきかがキリスト教信仰にとって非常に重要な問題であると感じていたのでしょう。  ところで、場所柄もわきまえず、主イエスの話の腰を折ってまで依頼をしたほどです。男もよほど困っていたのかもしれません。毎日兄弟との相続争いで明け暮れて、幾らかでも有利な分け前に預かりたいと算盤をはじいていたことでしょう。その気持ちはよくわかります。  この訴えに対し、主イエスは「自分は裁判官でも調停人でもない」と一旦断ったものの、この問題が人々の関心の的であることを見抜かれたのでしょう。地上の生活、肉体のいのちの問題に捕らわれた人の心を、霊のいのちに向けようと譬え話を語りだしたのです。 12:14~15 「すると、イエスは彼に言われた。「い

Ⅰコリント(27)「互いに配慮し合うため」Ⅰコリント12:12~27

私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、コリントの教会について「これが、本当にキリスト教会か」と思われるような問題を次々に明らかにして、私たちを驚かせてきました。 「誰を指導者とするか」で四グループが争う仲間割れ。教会内のトラブルを解決できず、この世の裁判所でクリスチャン同士が訴え合うという浅墓な行動。自分の母と通じた者、遊女の元に通う者等、目を覆いたくなるような不道徳。未信者の相手と離婚しようとする教会員がいるかと思えば、徒に結婚を焦る者たちがいたという結婚の問題。偶像にささげられた肉の問題を巡る二グループの対立。正にコリントは問題のデパートの様な教会でした。 しかし、もし聖書に残されたパウロの手紙が、ピリピ教会の様に使徒と良い関係にある教会ばかり、エペソ教会の様に理想的な教会ばかりだったとしたらどうでしょう。私たちは自分の中にある罪についてよく考えることができたでしょうか。私たちの信仰の未熟な面に気がつき、考え方や行動の修正に取り組むことができたでしょうか。教会とは何か、お互いの関係はどうあるべきか。自らの足元を見つめることができたでしょうか。 むしろ、コリント教会の様々な問題を赤裸々に示すこの手紙によって、私たちも彼らと同じく不完全であり、取り組むべき課題をもつ信仰者の一人と教えられて来た。そう感じます。 さて、今朝読みました 12 章は 11 章から 14 章まで続く大きな段落の一部です。この段落でパウロが扱うのはコリント教会における礼拝の混乱という問題で、その混乱ぶりは三つの点で顕著でした。 第一は、当時のギリシャ社会では女性として非常に恥ずかしい格好とされていたこと、かぶり物、ベールなしで礼拝に参加する女性たちの問題です。男尊女卑の社会にあって男女対等、女性の自由を主張するその考えは良しとしても、余りにも常識外れで人々の顰蹙をかったその行動を戒め、パウロは「礼拝の場では頭にかぶり物を着けよ」と命じました。 第二は、当時礼拝の前に行われていた夕食交わりの場で、富める者が貧しい者を辱しめていた問題です。そもそも貧しい人々と食べ物を分かちあうという主旨で始まった夕食会、愛餐会が、富める者が先に食べて満腹し、貧しい者は空腹