Ⅰコリント(27)「互いに配慮し合うため」Ⅰコリント12:12~27


私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、コリントの教会について「これが、本当にキリスト教会か」と思われるような問題を次々に明らかにして、私たちを驚かせてきました。

「誰を指導者とするか」で四グループが争う仲間割れ。教会内のトラブルを解決できず、この世の裁判所でクリスチャン同士が訴え合うという浅墓な行動。自分の母と通じた者、遊女の元に通う者等、目を覆いたくなるような不道徳。未信者の相手と離婚しようとする教会員がいるかと思えば、徒に結婚を焦る者たちがいたという結婚の問題。偶像にささげられた肉の問題を巡る二グループの対立。正にコリントは問題のデパートの様な教会でした。

しかし、もし聖書に残されたパウロの手紙が、ピリピ教会の様に使徒と良い関係にある教会ばかり、エペソ教会の様に理想的な教会ばかりだったとしたらどうでしょう。私たちは自分の中にある罪についてよく考えることができたでしょうか。私たちの信仰の未熟な面に気がつき、考え方や行動の修正に取り組むことができたでしょうか。教会とは何か、お互いの関係はどうあるべきか。自らの足元を見つめることができたでしょうか。

むしろ、コリント教会の様々な問題を赤裸々に示すこの手紙によって、私たちも彼らと同じく不完全であり、取り組むべき課題をもつ信仰者の一人と教えられて来た。そう感じます。

さて、今朝読みました12章は11章から14章まで続く大きな段落の一部です。この段落でパウロが扱うのはコリント教会における礼拝の混乱という問題で、その混乱ぶりは三つの点で顕著でした。

第一は、当時のギリシャ社会では女性として非常に恥ずかしい格好とされていたこと、かぶり物、ベールなしで礼拝に参加する女性たちの問題です。男尊女卑の社会にあって男女対等、女性の自由を主張するその考えは良しとしても、余りにも常識外れで人々の顰蹙をかったその行動を戒め、パウロは「礼拝の場では頭にかぶり物を着けよ」と命じました。

第二は、当時礼拝の前に行われていた夕食交わりの場で、富める者が貧しい者を辱しめていた問題です。そもそも貧しい人々と食べ物を分かちあうという主旨で始まった夕食会、愛餐会が、富める者が先に食べて満腹し、貧しい者は空腹のまま放っておかれるという酷い状況を呈していたというのです。パウロは、食事に集まる時は待ち合わせ、分かち合って食べるよう勧めました。

そして、12章から14章では、第三の混乱をパウロは扱っています。それは賜物自慢の問題でした。これまで何かにつけ対立してきたコリントの人々ですが、教会の礼拝でもどちらの賜物が優れているのか競っていたらしいのです。特に異言の賜物を誇る者たちは時も場所もわきまえず、著しく礼拝を混乱させていたと思われます。

それに対してパウロは御霊、聖霊の賜物は少数のクリスチャンにとどまらず、イエス・キリストを主と信じるすべてのクリスチャンに与えられていると語りました。


12:7「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」


 使徒は、御霊の神がクリスチャン一人一人に現れ、つまり賜物や奉仕を与えられたと言います。まるで自分たちだけが賜物を独占しているかのように思いこんでいた人々の鼻を挫くためでした。また「皆の益となるために」と語り、自分達の奉仕、働きが他の人々の役に立っているのかどうかを考えるよう、くれぐれも自己満足に終わらぬよう釘を刺してもいます。

 そして、コリント教会には教えだけでは通じないと考えたのでしょう。これまで教会を畑とか建物に譬えてきた使徒が、今度は教会を人間のからだに譬えるという有名な譬えが持ち出すのです。私たちにとって最も身近なからだによって、教会の多様性と統一性を説明してゆきます。


 12:12~14「ちょうど、からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても、一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。実際、からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています。」


 「ユダヤ人もギリシャ人も」とあり、神の選民というユダヤ人の誇りは打ち砕かれ、どの民族もキリストにあって対等とされます。また「奴隷も自由人も」として、自由人の高慢は挫かれ、奴隷も自由人もキリストにあっては差別なしとされたのです。コリント教会にはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人もいてギスギスしていたのでしょう。教会に集められた者は人種も民族も、身分も境遇も多種多彩。しかし、主イエスにあってひとつとなるために、皆が同じバプテスマ、洗礼を受けたはずではないのですか。そんなパウロの声が響いてきます。

 こうして、洗礼の意味を確認した使徒は次に自分を価値のない者と思い込み、いたずらに人と自分を比べて卑屈になりがちな人々を励ましました。


12:15~20「たとえ足が「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。たとえ耳が「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。」


物を書く、楽器を演奏する、絵をかく。愛する人を抱きしめる、手当てをする。物を作る。痒いところに手を伸ばす。手と足とを比べれば、手の活動の多彩さ、華やかさは、ただ上体を運ぶだけの足の及ぶところではないかもしれません。そこで、「私は手でないから、その賜物その働きにおいて劣っているから、からだの一員である資格はない。」という足の言い分となります。

皆様もこんな足の思いを心の内に感じたことはないでしょうか。それに捕らわれたことはないでしょうか。しかし、よく考えてみると、物を書くテーブルまで手を運ぶのは足です。演奏したい楽器のあるところまで、絵をスケッチするところまで手を運んでゆくのは足です。手が愛する人を抱きしめるためには、その人のところまで足が運んでいかなければなりません。足がなければ手にはできないことが多いのです。「だから足よ、卑屈になるな。神から与えられた賜物、足にしかできない働きを思って顔をあげよ。」使徒の励ましのことばです。

同じことが耳と目にも言えます。目は心の窓、輝く瞳、目力、目は口ほどに物を言い、慈眼(人を慈しむ目)など、目の表情は多種多彩で、その人の内面を映し出してやみません。それに対して、耳に表情はなく、地味な存在です。耳が目に憧れ、自分を卑下する気持ちも分かります。

しかし、聖書は「信仰は聞くことから始まる。」と語り、耳が信仰の源であると教えています。耳学問とも言われる如く、耳は知識の源泉でもあります。また、目には見えなくとも、愛する我が子の思いを声で聞き分ける親の耳とか、「聞く耳のある者は聞け」と言われた主イエスのことばは、耳の働きがいかに重要でユニークなものかを教えてくれます。

大切な目は様々なもので守られてもいます。目は非常に繊細なので、瞼が扉となり、目を使う用事のある時は開き、眠っている時は閉じられる。風が当たって目を痛めることがないように、瞼の上には睫毛が植えられている。頭から落ちる汗が害をしないように、目の上の眉が庇の役目をはたしているという具合です。

私たちのからだに様々な部分、器官が備わり、互いに助け合い、補い合っているのは、神のみこころによる。教会が人体に譬えられる時、誰一人卑屈になる必要がないこと、不要な人など誰一人存在しないこと、各々が神に与えられた賜物と奉仕を喜ぶべきこと、私たちは確認したいのです。 

さて、今度は自分を誇り、人を軽んじる者たちへの戒めとなります。


12:21~24「目が手に向かって「あなたはいらない」と言うことはできないし、頭が足に向かって「あなたがたはいらない」と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。」


先程は足の手に対する卑下、耳の目に対する劣等感が描かれましたが、ここでは手に向かって「あなたはいらない」と言う目の高慢、足を下に見て「あなたはいらない」と言う頭の自惚れぶりが描かれています。卑下が良くないとすれば高慢はさらに良くない。劣等感が信仰の未熟さを表すとすれば、慢心はさらなる未熟さのしるしとされるのです。

それにしても、「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないもの」と言われる「ほかより弱く見える部分」とは何のことでしょう。様々な考え方がありますが、これをからだの外には見えない内臓器官と考えたいと思います。たとえ手がなくても、耳や眼が機能しなくても人間は生きていけます。しかし、脳、心臓、肺、胃腸などの内臓は生命維持という点でなくてはならない器官と言えるでしょう。

しかし、なくてはならない器官とは言うものの、脳や心臓や肺がもしからだの外に出ているのを見たら、ギョッとします。気持ちが悪くなるでしょう。パウロが言うように、それらは見栄えが他より劣っている、見苦しい部分なのです。

けれども、ここに神の配慮がありました。神はそれらの器官を見栄えの良いもので覆われるのです。弱い内臓は頑丈な骨で囲まれ、筋肉で包まれ、滑かな皮膚や毛髪をもって覆われています。神の覆い、神の守りです。人間も顔や眼には衣服をまといませんが、見栄えのしない腹や背中には衣服をまとい着飾ることをしてきました。

同じ教会のメンバーであるなら、神がからだに対してそうしたように、弱く劣る部分をことさらに尊び、配慮し、守らなければならないはず。それをコリントの人々ときたら、自分よりも弱いと考える兄弟たちを貶したり批判したりするばかり。その様な人々が肝に銘じるべきは、神が様々な人々を教会に集め、一つのからだとした目的です。


12:25~27「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」


誰を指導者とするかで争ったコリント教会。偶像にささげた肉に関する知識の優劣で対立したコリント教会。夕食の交わり、愛餐会では貧富の差で反目し合ったコリント教会。そして、神の恵みである賜物についても、その優劣、大小を云々し混乱していたコリント教会。まるで一か所にヒビが入り、修復しないまま放っておくと、次第にヒビが広がり全体が老朽化する建物の様な教会を心配する、パウロのメッセージでした。

最後に、今日の箇所から確認しておきたいことが二つあります。一つ目は、私たちの内にある罪は、御霊の賜物の目的を忘れさせ、自分を誇る材料に変えてしまうことです。

コリント教会は多種多彩な賜物に恵まれた教会でした。しかし、彼らは神から受けた賜物の目的、隣人の益となるため、兄弟姉妹の役に立つためという本来の目的を忘れていたようです。自分の賜物や奉仕が人々からいかに評価されるのか。自分の存在や働きがいかに周りから尊ばれるのか。それが彼らの目的となっていたのです。神の恵みである賜物を、相手のことを配慮せず、自分の思いのままに用いる。己を誇る材料に使う。賜物の私物化。賜物の悪用でした。

それにしても、賜物の活用というのは厄介な問題です。賜物を活用するのは良いこと。奉仕に励むのも良いこと。しかし、賜物を用いての奉仕が、いつのまにか兄弟姉妹のための奉仕から自分のための奉仕になる。神にささげていた奉仕が、気がつかないうちに自分の評判、自分の満足のためにささげる奉仕に変わっている。これは、誰の心の中にもある落とし穴。注意したいと思うのです。

ふたつ目は、神が私たちのからだを配慮してくださるように、私たちもお互いに配慮し合うことです。25節には「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。」とあります。新改訳第三版では「各部分が互いにいたわり合うためです。」と訳されていました。個人的には配慮し合うよりもいたわり合うの方がよりピッタリきます。

労わるとは「労苦をねぎらうこと、力づけること、慰めること」で、おもに弱い立場に置かれた人々、光の当たらない場所で労苦している人への配慮を指すと言われます。ことばを代えれば、兄弟姉妹の奉仕を当然と思わず、感謝する。その労苦にねぎらいのことばをかける。弱っている兄弟姉妹を力づけることと言えるでしょうか。

教会でも家庭でも職場でも、労わる人の存在が必要ではないかと思います。労わるという潤滑油があってこそ、各々の賜物が生かされ、活用される。教会も一つからだとして機能してゆくことができるからです。私たち皆がお互いに配慮する。お互いにいたわり合う。そんな教会を目指したいと思うのです。

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