一書説教(55)「テモテへの手紙第二~主が授けて下さる~」


神学生時代に公園伝道に取り組んでいた時のこと。仲良くなった小学生の子に、「人は死んだらどうなると思う?」と質問しました。その子は真剣に考えた後、「怖くて考えられない。」と答えてくれました。「怖くて考えられない。」死んだ後、どうなるか分からない。何の確証もないまま、死に向き合うなど、怖くて出来ることではない。とてもまともな答えだと思いました。

 聖書を信じる時、キリストを信じる時、私たちは様々な恵みを頂きますが、そのうちの一つは、死に向き合うことが出来ることです。死は終わりではなく、永遠の世界の始まり。死を前に悲しむことはあっても、絶望することはない。キリストを信じる私たちは、真正面から死に向き合うことが出来る者なのです。

 キリストを信じる者は死に向き合うことが出来る。とはいえ多くの場合、私たちは自分の死を想定して具体的に備えることはしません。頭では「いつ死ぬか分からない」と理解しつつ、いつ死んでも大丈夫と備えることはなかなか出来ないものです。仮に今日、自分が死ぬとしたら、皆様は何に取り組むでしょうか。周りの人に何を託し、何を願い、何を伝えるでしょうか。(四日市キリスト教会には、葬儀についてのアンケートがありますので、まだ記していない方は記すことをお勧めいたします。)


 聖書には、自分の死を意識して、周りの人に伝えた言葉が、いくつも記録されています。遺言と言えるような箇所。自分の遺骸について指示を残したヨセフ。(創世記50章24節~25節)「主に仕えるのが嫌であれば、好きなものを選ぶが良い。ただし、私と私の家とは主に仕える。」と直言したヨシュア。(ヨシュア記24章14節~15節)自分の出来なかった人事采配を息子ソロモンに託したダビデ。(Ⅰ列王記2章5節~9節)他にも色々と挙げることが出来ます。一つの書、丸ごと遺言説教として読むことが出来る書もあり、旧約聖書では申命記、モーセの遺言説教。新約聖書ではテモテへの手紙第二、パウロの遺言説教です。

 自分の死を意識し、最後に伝えたいことがあるとして語られた(記された)言葉。そこには重みがあり、迫力があります。聖書六十六巻のうち、一つの書に向き合う一書説教。通算、五十五回目。新約篇の十六回目。今日はパウロの遺言にあたる、テモテへの手紙第二に注目いたします。最晩年のパウロから、最愛のテモテへ記された手紙。パウロ書簡のうち、最後に書かれた書。自分の死を意識したパウロが、何を記したのか。その迫力、重みを感じながら、読み進めていきたいと思います。一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 最晩年のパウロが記した手紙。この手紙は、どのような状況で記されたものでしょうか。パウロがどのような歩みをしたのか、詳しくは使徒の働きに記されていました。当初はイエスをキリストと信じる者を激しく迫害していた者。ところが、イエスこそキリストであると信じてからは、主イエスを宣べ伝える急先鋒となる。異邦人に福音を伝えることを使命とし、伝道旅行を繰り返し、様々な地で教会を建て上げました。その活動の結果、ユダヤ人の妬み、怒りを買い、訴えられ、牢につながれたパウロ。ユダヤで繰り返し裁判が行われるものの決着がつかなく、パウロ自身がローマ皇帝に上訴します。そのためユダヤからローマに移送され、皇帝の前での裁判を待つ状態。ローマでは軟禁状態ではあるものの、家を借りることも出来、訪ねて来る人たちに福音を伝えました。ここまでが、使徒の働きに記されているパウロの姿です。使徒の働きの最後の記録は次の言葉です。

 使徒28章30節~31節

パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。


 使徒の働きを記したルカは、何故ここで筆を折ったのか。この二年間の後、何が起こったのか。皇帝の前での裁判はどうなったのか。大変気になるところ。皆様、この後でパウロがどうなったかご存知でしょうか。この後のことは、パウロが書いた最後の手紙三つから、知ることが出来ます。

 ローマ皇帝の前での裁判が、どのようなものだったのか。一切記されていませんが、この後でパウロは自由の身になります。そのため、長く続いたあの裁判は、パウロが勝利したものと思われています。自由の身になったパウロは、エペソ、マケドニア(Ⅰテモテ1章3節)、クレテ(テトス1章5節)、ニコポリ(テトス3章12節)、コリント、ミレト(Ⅱテモテ4章20節)、トロアス(Ⅱテモテ4章13節)に行きます。その多くは、かつて伝道旅行で行った地、教会がある地。使徒の働きには第三次伝道旅行までしか記録されていませんが、パウロの伝道旅行はその後も続いていたのです。ローマ皇帝の前での裁判がどのようなものだったのか。使徒の働き28章以降の伝道旅行がどのようなものだったのか。その詳細を聞くのは天国での楽しみとなります。

それはそれとしまして、どのような理由か分かりませんが、最終的にパウロは再度捕まり、ローマで獄中生活となります(Ⅱテモテ1章16節~17節)。どうも先のローマでの軟禁生活と異なり、手紙から緊迫した雰囲気を感じます。冬が近いのに、上着一枚持っていない状況(Ⅱテモテ4章13節、21節)。伝道者としてともに労してきた者たちの中から、脱落する者が起こり(Ⅱテモテ4章10節)、行われている裁判も順調ではない様子(Ⅱテモテ4章16節)。いよいよ自分の死が近いと感じたパウロが、テモテへ宛てて記したのがこの手紙です。緊迫した中、牧師、宣教師、神学者として鍛えに鍛えられたパウロは、最後に何を記したのか。必見の書となります。


 その書き出しは次のようなものです。

 Ⅱテモテ1章1節~2節

神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、愛する子テモテへ。父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。


 パウロはテモテのことをよく知り、テモテもパウロのことをよく知っていました。パウロはテモテの母のことも祖母のことも知っている。(Ⅱテモテ1章5節)家族ぐるみの関係。ともに伝道旅行に励み、大変な教会があるとき、パウロはテモテを遣わしました。「愛する子」と言ってはばからない関係。そのテモテに対して、パウロが改めて名乗ります。「神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束に従って、使徒となったパウロ」と。

手紙の中でパウロが名乗るとき、最も多く使った表現が「神のみこころにより使徒となったパウロ」(Ⅰ、Ⅱコリント書、エペソ書、コロサイ書)ですが、この手紙ではそれに加えて「キリスト・イエスにあるいのちの約束に従って」と記しました。最晩年のパウロ、死を間近にしたパウロが、キリスト・イエスにあるいのちの約束を強く意識していたことが分かります。

この手紙の中心は、パウロのこの思い。「キリスト・イエスにあるいのちの約束がどれ程素晴らしいものか。この約束を握って生きるように。この約束を引き継いでいくように。この約束を宣べ伝えるように。私はこの約束を受け取って生きてきました。あなたもそうしなさいと勧める。」ここにあると思います。この思いを、表現を変えながらパウロは繰り返し語ります。手紙を読み通し、どうも同じことを繰り返し言っていると感じたら、それで良いのだと思います。最晩年、キリスト・イエスにあるいのちの約束を持って生きるようにと願ったパウロの息吹を私たちも感じたいところです。


 この中心的なテーマが、どのような言葉で表現されていくのか。一章では次のような言葉になります。

 Ⅱテモテ1章9節~11節、13節~14節

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。…あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。


 私たちがいのちの約束を持っているのは、誰かの働きによるのではなく、神様の計画と恵みによるものです。永遠の昔から、いのちの約束を私たちに与えると決められたからです。このいのちの約束がどれ程素晴らしいものか。キリストご自身が死を滅ぼし、そのいのちが不滅であることを示して下さいました。このいのちの約束を伝える者に私は任命されたのです。あなたもそうです。あなたも、私から聞いたことをお手本とし、いのちの約束に生きる者でありなさい。このようなパウロの言葉をテモテはどのような思いで受け止めたのか、想像します。


 二章にも、いのちの約束がどのようなもので、その約束を宣べ伝えるようにというテーマが出て来ます。

 Ⅱテモテ2章11節~15節

次のことばは真実です。『私たちが、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる。耐え忍んでいるなら、キリストとともに王となる。キリストを否むなら、キリストもまた、私たちを否まれる。私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。』これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神の御前で厳かに命じなさい。あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。


 永遠のいのちを持つイエス・キリスト。この方にどのように向き合うかで、その人の人生が定まります。いのちの約束を持って生きるとは、主イエスとともに死に、主イエスとともに耐え忍ぶこと。いのちの約束を持って生きないとは、主イエスを否むこと。あなたは、このことばを人々に思い起こさせるように。その務めを果たすことが出来るように、最善を尽くしなさい。

 直接会うことが出来ず記された手紙。しかしテモテと膝を合わせて篤く語りかけるパウロの姿が思い描けるような言葉です。


 三章も同様、いのちの約束を持って生きるとはどのようなことなのか、語られます。

 Ⅱテモテ3章12節~17節

キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。


 いのちの約束を持って生きる者は必ずしも平穏のうちに生きることにはならない。平穏の日々ではなく、迫害を受けることになります。パウロ自身がまさにそうでしたし、テモテも経験していることでした。それでも、いのちの約束を手放さないようにしなさい。困難の中、苦しみの中で、それでも整えられた者として生きるために、聖書を読むように、聖書に従うように。これらの言葉を、テモテだけに語られたものとするのか。いのちの約束を頂いた者として、私にも語られていると受け止めるのか。大きな違いがあります。


 この様に、「キリスト・イエスにあるいのちの約束がどれ程素晴らしいものか。この約束を握って生きるように。この約束を引き継いでいくように。この約束を宣べ伝えるように。私はこの約束を受け取って生きてきました。あなたもそうしなさいと勧める。」ことを、様々な表現で繰り返し語ったパウロが、四章でもう一度同じことをします。最後のまとめとなる言葉。

 Ⅱテモテ4章1節~8節

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。けれども、あなたはどんな場合にも慎んで、苦難に耐え、伝道者の働きをなし、自分の務めを十分に果たしなさい。私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。


 「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、しっかりやりなさい。」とか「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」など、多くの人に愛される有名な言葉ですが、これは最晩年のパウロがテモテに語った言葉の中でも、最後の最後のものでした。

 いのちの約束を下さったキリスト・イエスは、生きている人も死んだ人もさばく方です。裁き主である主イエスは必ず来られます。その日を覚えて、あなたは御言葉を宣べ伝えなさい。与えられたいのちの約束を語り告げなさい。どのような状況でも、取り組み続けなさい。私はそのように生きてきました。私も、私だけでなくいのちの約束を信じる者には、義の栄冠が用意されるのです。

 凄まじい熱量を感じます。自分自身が信じ、語ってきたキリスト・イエスにあるいのちの約束。その確かさを、まさに世を去ろうとしている最中で確認するパウロ。この確信に立って生きるように迫るパウロ。

 この手紙はテモテへ向けて書かれたもの。パウロが意識した第一の相手はテモテでしょう。しかしこの最後の最後で、いのちの約束を信じた者、主の現れを慕い求める者には、義の栄冠が用意されていると言い、全てのキリスト者に自分に続く者となるように勧めるのです。いのちの約束を頂いたのはパウロのみ、テモテのみ、ということではない。私たちも、その約束を頂いたもの。パウロからテモテに伝えられたこの思いは、これ以降、いのちの約束を頂いた者に受け継がれてきました。私たちは、この言葉にどのように向き合うのか。いのちの約束を持って生きることに、どのように取り組むのか。真剣に考えたいと思います。


 以上、テモテへの手紙第二を概観しました。パウロの絶筆。最愛のテモテに送った遺言にあたる手紙。この手紙に込められた親愛、信頼、激励の思い。その迫力を感じながら読みたいと思います。書き手のパウロの気持ちを想像しながら。受け取り手のテモテの気持ちを想像しながら。また神様から私へのメッセージとして受け取りながら。キリスト・イエスにあるいのちの約束が、どれ程素晴らしいものなのか。この約束を握って生きるとは、私にとってはどのようなことなのか。この約束を引き継いでいくとは、具体的に何をすることなのか。この約束を誰に宣べ伝えていくのか。この書を通して、皆で真剣に考えたいと思います。

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