Ⅰコリント(28)「愛がなければ」Ⅰコリント12:27~13:7


私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、コリント教会がさながら問題のデパートのような教会であることを示し、私たちを唖然とさせてきました。

「誰を指導者とするか」で互いに争う仲間割れ。教会内でトラブルを解決できず、この世の裁判所に出てクリスチャン同士が訴え合うという浅墓な行動。自分の母と通じた者を戒めず、遊女の元に通う者を大目に見る等、目を覆いたくなるような不道徳。未信者の相手と離婚しようとする者がいるかと思えば、徒に結婚を焦る者たちがいたという結婚の問題。偶像にささげられた肉の問題を巡る二グループの対立等々。

主イエスの恵みによって罪赦されたとはいえ、教会が未だなお罪人の集まりであることを示すこの手紙によって、私たちも同じく不完全であり、取り組むべき課題をもつ信仰者の一人と教えられる。そう感じるのは私だけでしょうか。


さて、今朝読みました12章の後半から13章前半は、11章から14章まで続く大きな段落の一部です。この段落でパウロが扱っているのはコリント教会における礼拝の混乱という問題で、その混乱ぶりは三つの点で顕著でした。

第一は、当時のギリシャ社会では女性として非常に恥ずかしい格好とされていたこと、かぶり物、ベールなしで礼拝に参加する女性たちの問題です。男尊女卑の社会にあって男女対等、女性の自由を主張するその考えは良しとしても、余りにも常識外れで人々の顰蹙をかったその行動を戒め、パウロは「礼拝の場では頭にかぶり物を着けよ」と命じました。

第二は、当時礼拝の前に行われていた夕食交わりの場で、富める者が貧しい者を辱しめていた問題です。そもそも貧しい者と食べ物を分かちあう目的で始まった夕食交わりなのに、富める者が先に食べて満腹し、貧しい者は空腹のまま見捨てられるという酷い状況を呈していたのです。パウロは、夕食交わりに集まる時は待ち合わせ、互に分かち合って食べるよう勧めました。

そして、12章から14章では、第三の混乱をパウロは扱っています。賜物自慢の問題でした。これまで何かにつけ対立してきたコリントの人々ですが、教会の礼拝でもどちらの賜物が優れているのか競っていたらしいのです。特に異言の賜物を誇る者たちが著しく礼拝を混乱させていたようです。

そこで使徒が語り出したのが、教会を人のからだに譬えての説教でした。人のからだには様々な器官がある。人目に立つ華やかな活動をする器官もあれば、地味で見栄えのしない器官もある。しかし、皆が欠かすことのできない大切な器官。互いに助け合い、一つからだ、一つ命として生きている。教会もそれと同じだと言うのです。それなのに、コリントの人々ときたら、自分よりも弱いとか劣ると考える兄弟たちを貶したり批判したりするばかり。彼らが肝に銘じるべきは、神が様々な人々を教会に集め、一つのからだとした目的です。


12:25~27「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」


 私たちは小指一本ドアに挟んでも、全身が痛みを感じます。足に一本のとげが刺さっても全身で苦しみを感じます。他方、良いことが一つの部分になされるなら、あらゆる部分が満足し、全身で喜びを感じることができます。人の痛みは我が苦しみ。人の喜びは我が喜び。キリストによって様々な人が集められた教会は、キリストにあって一つからだとして生かされ、養われてゆく。教会の多様性と一体性をからだと言う身近な例から説いたパウロは、次に現実の教会に目を向けます。


 12:28「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」


 「第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」とある三つは、神が教会に与えた職務です。使徒は復活のキリストを見たことが資格とされ、いわゆる12使徒に加え、裏切り者ユダの代わりに選ばれたマッテヤにこの手紙を書いたパウロのこと。彼らは一地方に限らず、すべての教会に責任を持ち、活躍した人々です。預言者は人々に罪を示し、人々の徳を建てるために語る者、将来を予告することもある特別なメッセンジャー。教師は一つの教会に仕え、聖書を解説し、人々の実際生活に適用する教えを語る賜物を与えられた者。今の牧師に近い存在と考えられます。教会において、神のことばが教えられることがいかに重要とされていたかが分かります。

 聖書はすべての人が神の働きをなす、神の奉仕者と教えています。とはいえ、すべての人が教会の職務につくわけではないことも明らかにしていました。

 次に、力あるわざと癒しという、外に向かって働く奇跡の賜物が続きます。その後には、援助と管理の賜物です。援助とは貧しい者、病人、やもめ、旅人を助ける働きで、管理は集会や礼拝の場所、交わりの場などを整える働きと考えられます。

そして、異言でした。コリントの人々が重んじていた異言を、パウロは一番最後に置きました。礼拝において異言で祈り、賛美をささげる者の姿は、目立ちたがり屋のコリント教会では人気の的でしたが、彼らが軽んじていたであろう、援助や管理の賜物よりも下にされたのです。

こうして、神が教会に与えた特別な職務、特別な賜物を紹介した使徒は、この様な職務に就く人、賜物の持ち主だけで教会が成り立っているわけではない。この様は人々も他の兄弟姉妹に助けられて、奉仕できるのだと語るのです。


12:29~31「皆が使徒でしょうか。皆が預言者でしょうか。皆が教師でしょうか。すべてが力あるわざでしょうか。皆が癒やしの賜物を持っているでしょうか。皆が異言を語るでしょうか。皆がその解き明かしをするでしょうか。あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。私は今、はるかにまさる道を示しましょう。」


「皆が使徒でなくてもよい。皆が預言者でなくてもよい。皆が教師でなくてもよい。皆が力あるわざや癒しの賜物をもっていなくてもよい。皆が異言を語ったり、解き明しができなくともよい。各々に務めがあり、各々に賜物がある。すべての人が務めに励み、賜物を生かすことで教会は生きる。」パウロはそう言いたかったのでしょう。

それをコリントの人々ときたら、誰の働きが他よりも優れているとか、誰の賜物が他よりも優れているとか。優劣を競い、上下を争って、神のみ心を痛めていたのです。「優れた賜物とは何か。神があなたがたに賜物を与えた目的をよく考えて、賜物を求め、それを用いよ。」と使徒は勧めました。そして、ついに「私は今、はるかにまさる道を示しましょう。」と宣言し、有名な愛の賛歌を歌いあげます。先ずは、心に愛なき行い、愛の偽物がいかに多かが明らかにされたのです。


13:1~3「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。


コリントの人々は周りの注目を集め、驚かせる異言に熱中していました。しかし、本人は満足でも周りの人にはチンプンカンプン。思いやりに欠ける行いは、愛に欠けていました。異言の祈りや賛美は、コリンの町にある神殿で打ち鳴らされる銅鑼やシンバルの如く、騒がしいばかりで中味がないとされたのです。勿論、異言はパウロも与えられていた良い賜物です。しかし、良い賜物も愛をもって用いないなら、賜物の与え手である神のみ心に逆らうことになると使徒は戒めました。

次は預言です。パウロは預言を異言よりも上に置きました。ただし、預言の賜物に恵まれ、奥義や知識に通じ、山をも動かすほど力あるわざをなす信仰の持ち主であっても、愛によって賜物を用いないなら、その行いには何の価値もないと使徒は語るのです。

人は知識の多さで他の人を圧倒することができるでしょう。しかし、人の心を真に動かすものは愛ではないでしょうか。人は力ある働きや業績で有名になることができるかもしれません。しかし、愛のみが真の友を作ることができるのではないでしょうか。

さらに、この世でもてはやされる慈善行為です。一般的に慈善や苦行は人の眼や耳をひいて、喧伝されます。しかし、世間で称賛される施しや寄付、宗教的な行いの中にも、人に見てもらいたい、誉めてもらいたいという功名心、名誉欲が潜んでいる場合があることを、パウロは見抜いていました。主イエスの山上の説教の一節が浮かんできます。


マタイ6:2~4「ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」


神の眼は人間の眼とは異なり、大げさな行いや振る舞いよりも、心の底に何があるかを見ていること教えられます。賜物を用い、知識を使い、奉仕に励み、力を尽くして働く時、自らの心の底にあるものは何か。自己満足か、称賛を求める思いか、それとも愛か。私たちの人生にも神の前に出て、心を探る時が必要と思われます。私たちの行いだけでなく、内なる思いを見ておられる天の父の眼を思い、日々の歩みを進めてゆきたいと思うのです。

けれども、心に愛があればそれでよいのかというと、そうではありませんでした。神が与える愛は善き態度、善き行いとなって実を結ぶのです。神の愛は私たちの心を動かし、神のみ心にかなった態度や行いを身につけたいと願うようになるのです。今日は二つの徳を取り上げます。


13:4「愛は寛容であり、愛は親切です。」


ここに登場する「愛」ということば、ギリシャ語でアガペーと言います。アガペーは新約聖書の中で、愛について最も多く使われていることばで、使徒パウロの時代、キリスト教専用語になったと言われます。生まれつきの人間の持つ愛、エロスが、価値あるものを持つ相手を求めるのに対し、アガペーは、愛される資格があるかないかにかかわらず、全力で自分を相手にささげ、相手に与える愛です。

ここに愛を代表する徳として、まず挙げられたのは、寛容と親切のペア。寛容とは怒らないことではなく、簡単には怒らない態度、瞬間湯沸かし器ではないということです。悪口に耐え、冷たい態度に耐える。例え裏切られても失望せず、10年先、20年先のことを期待する気の長い接し方です。

しかし、愛は人の悪を忍耐し、赦すにとどまりません。進んで人の幸せのために何ができるか考え、実際に助けの手を差し出す。具体的な行いとなって実を結ぶ愛です、賜物は豊かだけれど、争い、不和の絶えないコリント教会に、寛容な人、親切な人が存在したら、教会がどれ程変化したことでしょうか。

忍耐するのは苦にならないけれど、親切にする積極性に欠ける。親切心から積極的に行動することは得意だけれど、思うように変わらない相手にイライラする、忍耐が苦手だ。同じアガペーでも、寛容は受け身的、親切は能動的。私たちもこの双子の様な愛の徳目を身に着け、信仰の人から信仰プラス愛の人へと成長、成熟できたらと思います。


最後に、今日の箇所で大切な点を二つ確認しておきたいと思います。

ひとつは、私たちの職務、賜物は、愛をもってそれを用い、人に仕える為、神が与えてくださったものと言うことです。神から見て大切なことは、職務や賜物それ自体ではなく、私たちの心に神から与えられた愛、アガペーがあるかどうかです。

心の中が人と競う思い、自己満足、評判を得たい心で満たされてしまうことがないように、むしろ、神のことばと神の愛で満たされる様に。心を見張り、管理する者でありたいのです。

二つ目は、信仰の成長、成熟は、心の中の愛と態度や行いの両面を見てゆく必要があることです。愛を欠いた善行は偽善ですが、善行を生み出さない愛は未熟です。

「心から偽善や功名心を追い出し、あなたの愛で満たしてください。」と神に祈り続ける。「主イエスの様に、隣人に対する寛容と親切を尽くす者でありたいのです。」と神の恵みに信頼し、自分ができること、変えるべきことに取り組んでゆく。私たち皆でこの様な歩みを進みゆきたいと思うのです。

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