信仰生活の基本(4)「奉仕~神の恵みに応える~」マタイ25:14~30


一月の始めから、今年も新たな思いで信仰の歩みを進めてゆくことを願い、信仰生活の基本となること礼拝、交わり、伝道について学んできました。今日は第四回目で「奉仕」について考えます。
ところで、皆様にとって奉仕は喜びでしょうか。それとも重荷でしょうか。どんな時に奉仕が喜びであり、どんな時に奉仕を重荷と感じるでしょうか。皆様は、人から認められても認められなくても、奉仕できたことを喜べるでしょうか。それとも、人から認められるかどうかで、奉仕に取り組む姿勢が大きく左右されるでしょうか。あるいは、一人奉仕に取り組むことを好むタイプでしょうか。それとも、兄弟姉妹と共に奉仕することを喜ぶタイプでしょうか。大切にしているのは、奉仕の種類でしょうか。奉仕の成果でしょうか。奉仕の動機でしょうか。
信仰生活に奉仕はつきもの。しかし、奉仕を巡って様々な課題に直面するのが信仰生活です。奉仕に取り組む姿勢や評価の仕方にその人の信仰の本質が現れるとも言われます。そこで、今朝は奉仕とは何か。聖書が教える奉仕の基本について確認することから始めてゆきたいと思うのです。

コリント第一12:4~7「さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」

神から私たち一人一人に賜物が与えられていること。賜物は兄弟姉妹の益のために用いるべきこと。お互いに仕え、また仕えられることにより教会は建て上げられてゆくことを示すパウロのことば。賜物、奉仕という側面から見た教会論です。これを通して、私たちは神が自分の賜物とは何かを考えるべき者、賜物を神のみこころに従って用いるべき者、賜物の管理者であることを教えられます。
しかし、今朝確認したいのはこれらに加え、奉仕をささげる時の動機です。私たちがささげる奉仕は、その動機によって喜びともなれば重荷ともなる。その動機は私たちと神との関係に大きく影響される。このことを教えるイエス様のたとえ話が今朝の箇所です。

マタイ25:14~19「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。」

このたとえで、主人は神を、しもべは私たち神の民を意味しています。先ず注目したいのは、主人がしもべたちに与えた財産の莫大さです。最も少なく与えられたしもべでさえ一タラント。当時一タラントは6000デナリ、一デナリは労働者一日分の賃金にあたりますから、このしもべが預けられた財産はざっと計算して労働者17年分の賃金となります。
二タラントはその二倍で34年分の賃金、五タラントは五倍で何と85年分の賃金。いずれにしても、主人がしもべに預ける財産としては驚く程に多額。彼らはしもべの立場にある者としては、並外れた財産、信じられない程大きな恵みを受け取ったのです。
しかも、この主人。しもべたちに指示らしい指示をだすこともなく、長い旅に出かけます。預かったものを活用するかどうか、活用するとすればどのようにするのかは、各々の裁量に委ねられていたようです。主人はしもべたちの自由や考えを認め、まるで農園の共同経営者のように尊重したのです。そして、与えられた恵みを心から喜び、主人のために働いたのが二人のしもべでした。

25:20~23「すると、五タラント預かった者が進み出て、もう五タラントを差し出して言った。『ご主人様。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、私はほかに五タラントをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』二タラントの者も進み出て言った。『ご主人様。私に二タラント預けてくださいましたが、ご覧ください、ほかに二タラントをもうけました。』主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」

五タラント預ったしもべと二タラント預ったしもべ。主人と対面した彼らは異口同音に語ります。「ご主人様。私の様なしもべに、五タラントあるいは二タラントも預けてくださり感謝します。それはしもべである私が受け取る資格のない良いもの、恵みです。私は嬉しくなって働き、さらに五タラントあるいは二タラントもうけました。」主人のために奉仕できたことを心から喜び、満足する二人の姿が目に浮かんできます。
一方、主人の喜びはそれ以上でした。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」 
主人は何を喜んでいるのでしょうか。しもべが自分にもたらした利益でしょうか。そうではないと思います。主人が喜んでいるのは、本来なら受け取る資格のない莫大な財産、信じられないような恵みを与えられ、喜びのあまり忠実に奉仕したしもべたちの存在そのものです。
ですから、主人は彼らに「たくさんの物」つまり財産全体を任せるというさらなる恵みを与えました。主人の喜びをともに喜んでくれと語り、彼らを大切なパートナーと認め、家族同然の存在として受け入れたのです。
ここに、主イエスが成し遂げた罪の贖いの恵みを受け取り、その恵みに応えて生きる者と神との関係が示されています。主イエスを信じる私たちは、神の恵みに感謝する心をもって神と人に仕えることができるようになりました。それに応えて、神は自らすすんで奉仕をささげる私たちの存在を喜んでくださるのです。
「良い忠実なしもべ」は与えられた賜物の大小にかかわらず、神を愛して、自己のベストを尽くすことに努めます。神の恵みに応えて、知恵も力も用いたいと願います。自分が好む奉仕よりも、兄弟姉妹の益になる奉仕を優先します。自分の奉仕や働きを誇らず、神の恵みを誇ります。これが、良い忠実なしもべ、つまり神の恵みを信じる私たちの生き方なのです。
長女が小学生の頃、私の誕生日に聖書カバーをプレゼントしてくれたことがあります。聖書カバーとしてはいささか小さく、少々形が歪んでいました。縫い合わせた糸もほつれてしまいそうなものでしたが、私にとっては宝物でした。使い具合はいま一つで、経済的価値から言えばゼロでしたが、娘が私のために作ってくれたと思うと、古くなり、破れてしまっても捨てることはできませんでした。
神の恵みに応え奉仕をささげる私たちの存在を喜ぶ神がおられること。私たちのささげる小さき奉仕を宝物として受け入れてくださるお方、それが私たちの神であることを覚えて、奉仕の歩みを進めてゆきたいと思うのです。
ところで、気になるのは一タラントを預けられたしもべのことです。彼は何故他のしもべの様に、奉仕に励むことをしなかったのでしょう。何故、主人から叱責されたのでしょうか。

25:24~30「一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。
それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』しかし、主人は彼に答えた。『悪い、怠け者のしもべだ。私が蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集めると分かっていたというのか。それなら、おまえは私の金を銀行に預けておくべきだった。そうすれば、私が帰って来たとき、私の物を利息とともに返してもらえたのに。だから、そのタラントを彼から取り上げて、十タラント持っている者に与えよ。だれでも持っている者は与えられてもっと豊かになり、持っていない者は持っている物までも取り上げられるのだ。この役に立たないしもべは外の暗闇に追い出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。」

このしもべの言うことを聞いていますと、彼がいかに主人のことを誤解していたかが分かります。彼は、主人が求めているのは自分が生み出す利益のみであると考えていました。それどころか、投資しなかった所からも利益を得ようとする強欲な主人であると感じていたようです。ことばを代えれば、主人にとって自分は利益をもたらす道具の一つに過ぎないと思っていました。
この考えは、莫大な財産を預けられても、変わることがなかったのです。他のしもべは預けられた財産を主人からの恵みと思い、感謝しました。しかし、このしもべにとってはプレッシャーでしかなかった。与えられた財産はそれを源に利益を生み出さねばならないもの、それに失敗したら首を切られるかもしれない重荷としか思えなかったのです。
このしもべの姿は神の恵みを信じられなかったユダヤ人、神が主イエスを通して与えてくださった罪の赦し、罪の力からの解放を恵みとは認めることのできない人々、むしろ懸命に奉仕し成果を上げることで、神や世間に自分の価値を認めてもらわなければと考える人々を象徴しています。
しかし、主イエスが教えた神、聖書の神は徹底的な恵みの神。人間を自分のために利用せず、むしろ人間に恵みをもたらすことに熱心な神。私たちと人格的で、親しい関係にあることを何よりも喜ぶ神だったのです。
それでは、神の恵み、あるいは恵みの神を認めなかったこのしもべには、どの様な人生、世界が待っているのでしょうか。主イエスは「外の暗闇、人々が泣いて歯ぎしりする世界」と語っていますが、これは神の恵みが取り去られた世界、地獄を意味する聖書独特の表現です。主イエスも良く用いている表現です。 
このたとえと関連させるなら、そこは人々が隣人の幸せなど全く関心がなく、ひたすら自分のために働く世界。自分の利益のためなら人を道具のように利用したり、されたりする世界。どんなに一生懸命働いても誰からも認められず、感謝されることも、感謝することもない世界。働くことが喜びどころか働くことが空しくて、苦しくて仕方がない、悲惨な世界と言えるでしょう。
主イエスはこれを、神の恵みを認めない人々が死後行くべき世界として描いています。しかし、同時に、この地上においても、神の恵みを認めず、無視して生きる者は、この様な人生を送ることになると警告しておられるのでないでしょうか。
最後に、ふたつのことを確認したいと思います。ひとつは、神の恵みを認め、喜ぶことが、私たちの奉仕、私たちの人生に大きな影響があることです。

コリント第二9:8「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」

このことばを告白したパウロ程、教会の奉仕に励んだ人はいないかもしれません。初代キリスト教会の成長、発展はパウロによるところ大とは、誰もが認めるところです。しかし、パウロはそれを自身の努力や行いによるとはこれっぽっちも考えてはいませんでした。むしろ、パウロは生涯自分の罪を悲しみ、自分の弱さを痛感しています。
しかし、そうであればある程、パウロは神の恵みを認め、喜ぶ思いを深めていったのです。私たちも、「常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる」神を信頼し、奉仕の歩み進めてゆきたいと思うのです。
二つ目は、奉仕を人に対してではなく、神に対してささげることです。今日の聖句です。

コロサイ3:23「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」

ここで、使徒が「主に対して奉仕をなすように、心からしなさい。」と勧める前に、「人に対してではなく」ということばを置いたのは何故でしょうか。
私たちの奉仕は、その殆どが人に仕えるものです。兄弟姉妹のため、教会のための働きです。その際、私たちが「あの人のため、教会のためという意識を強く持ちすぎることは良くない。」そうパウロは戒めていると考えられます。
その意識は兄弟姉妹が自分の労苦に対して感謝すべきだという思いを私たちの中に起こさせます。自分はこれ程奉仕したのだから、あの人の人生について口を挟んだり、教会から何かをしてもらう権利があるという思いを起こさせることがあります。
 しかし、自分のなした奉仕をもとに感謝や報いを求める権利があると考えたり、感謝しない相手を責めるというのでは、本末転倒でしょう。むしろ、相手が誰であれ、奉仕の種類が何であれ、神の恵みに応えて、忠実に奉仕する者、人や教会の働きに仕えることで、神に奉仕できること自体を喜ぶ者でありたいのです。
自分の賜物を考えること、賜物の目的を自覚すること、すべての奉仕を神の恵みへの応答として、神にささげること。皆様の奉仕の歩みが、この一年祝福されますように。

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