信仰生活の基本(1)「礼拝~御霊と真理によって~」ヨハネ4:19~26


2020年の聖日礼拝がスタートしました。この一月は礼拝、伝道、交わり等私たちの信仰生活の基本となる事柄を説教で取り上げてゆきたいと思っています。先ず第一回目は礼拝についてです。

ある人が礼拝は人体にとっての心臓と同じ、と言いました。なるほどと思います。礼拝が教会の心臓とは礼拝こそ私たちの霊的ないのちの源ということでしょう。

礼拝で受けた教えによって考え、行動するのがクリスチャン。礼拝あっての奉仕や交わり。礼拝あっての社会や家庭での営み。もし、私たちの生活から礼拝が抜け落ちたら、心臓が正しく機能しない肉体と同じ。礼拝なくして、霊的ないのちの健康を保つことは難しいと言えるでしょう。

しかし、礼拝自体はキリスト教の専売特許ではありません。どの民族、どの時代、どの地域においても人々は神を思い、様々な宗教的礼拝が行われてきました。

 紀元一世紀のギリシャの旅行家は書き残しています。「世界を旅すると、城もなく、君主もなく、宝物も貨幣もなく、競技場や劇場すらない町を見ることがある。しかし、宮なく、祈りなく、礼拝のない町は、未だかつて見たことがないし、これからもないだろう。」

 それでは、キリスト教の礼拝と他の宗教の礼拝とはどこが違うのでしょうか。今の時期、日本の受験生が最も頼りにする神といえば学問の神様、菅原道真でしょう。道真を祭る天満宮はどこも満員御礼の状況です。それでは、何故道真は神として祭られたのか。

 菅原道真は平安時代の人。学問に秀で、万事有能であった道真は大いに宮廷で活躍。しかし、その活躍が嫉みを買い、同僚の計略により九州の大宰府に左遷され、不遇のうちに亡くなりました。ところが、その後京の都において災いが相次ぎ、これを道真のゆえと恐れた人々がその恨みを鎮めるため、大宰府に天満宮を建て、道真を学問の神に祭り上げたと言われます。

 また、伊勢神宮に行かれた方は聴いたことがあるのではないかと思います。西行法師が伊勢の森で詠んだ有名な歌が流れてきます。「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」。何者が存在するのかわからないけれど、静かな自然の中にいると、何となくありがたい、かたじけないという気持ちが湧いてくる。そういう意味でした。

恨みを鎮めるために、人を神に祭り上げ、礼拝する。聞いても答えず、物言わぬ自然を相手に礼拝する。恐れからの礼拝。手ごたえのない礼拝。いずれも聖書の教える礼拝とは程遠いものです。それに対して、キリスト教の礼拝は天地の造り主の神がご自分のことについて、世界と人間を創造した目的について、聖書によって示し、聖書を通して語る。この神の語りかけに人間が応答するという世界でした。

 つまり、キリスト教の礼拝は人間の側の恐れや、「かたじけない、ありがたい」という気持ちから始まるのではありません。先ず神のことばがあり、それを聞くことから始まるのです。


 ローマ10:17「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」


 みことばを聞いた私たちが、神を知る。みことばに示された罪を悔い改め、罪の赦しの恵みに預かる。みことばにおいて示された神を賛美する。みことばを中心とした、人格的な神との交わり。それがキリスト教の礼拝であり、最大の特徴と言って良いでしょう。

ところで、最初に読みましたヨハネの福音書のことばは、主イエスが真の礼拝、真の礼拝者についてサマリヤの女に語ったものです。当時ユダヤ人とサマリヤ人の間には、宗教的な対立がありました。同じく旧約聖書に基づき、一人の神を礼拝する者同士でありながら、礼拝すべき場所やその他の問題で争っていたのです。

 ユダヤ人は都エルサレムの神殿こそ正しい礼拝の場所と主張する。サマリヤの人々は、「いいや、サマリヤにあるゲリジム山の神殿こそ礼拝すべき所」として譲らない。犬猿の仲でした。

 しかし、主イエスは、そんな人間同士のせせこましい聖地論争を吹き飛ばします。真の礼拝とは御霊と真理(新改訳第三版では霊とまこと)をもって神を父として礼拝すること、それはエルサレムであろうが、ゲリジム山であろうが、世界中どこにおいてもなしうることとしたのです。やがて、福音が世界中に広がり行く時代が来ることを見据えたことばでした。


 ヨハネ4:23,24「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」


旧約時代の礼拝は儀式的、祭儀的でした。様々な儀式や祭りを通して神を知り、間接的に神と交わるという側面をもっていたのです。それに対し、主イエスの教える礼拝は直接的でした。

 主イエスがご自分のいのちを十字架にささげ、私たちのために贖いの死を遂げてくださったからです。主イエスが十字架に死なれ復活したことで、神の聖さ、神の恵みについて人々を教育する旧約時代の儀式や祭りは役割を終えたのです。こうして、主イエスを信じる者が直接的に、つまり旧約の時代に比べ、より自由に、より親しく神に近づき、神と交わることができるようになりました。その喜びをヘブル人への手紙はこう語っています。


 ヘブル10:19「こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」


 愛する父の胸に飛び込んでゆくのを恐れる子どもはいません。近づいてくる子を喜んで抱きしめない父親もいないでしょう。こうした父子の関係に似て、私たちは神を遠慮しながら礼拝するのではなく、私の父として親しく礼拝することができる。一方、神はご自分を慕い、近づく私たちを子として受けいれてくださる。この人格的な交わりこそ、礼拝の中心であることを覚えたいのです。

 それにしても、イエス・キリストが「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」と教えられたのは何故でしょうか。

 御霊は聖書において聖霊とも呼ばれています。聖霊はみことばを通して私たちの罪を示し、みことばを通して神の恵み、神のメッセージを私たちに伝えてくださるお方、主イエスが「もうひとりの助け主」と呼ばれた神です。私たちが罪の赦しに安らい、神の子とされたことを喜べるのは、聖霊がみことばを通して私たち教えてくださるからです。

聖餐式の場合も同じで、地上にいる私たちがどの様にして天におられる主イエスと交わり、そのいのちに預かれるのかというと、聖霊が助けてくださるからだと、私たちの教会は理解しています。みことばを通して教え、助けてくださる聖霊の働きを強調するのが、長老派教会の特色でした。

 また「真理によって礼拝する」の真理(新改訳第三版では「まこと」訳されています。)についてはいくつかの解釈があります。「主イエスが私たちに対して尽くしたまこと、つまり十字架で私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったこと」と考えるか、それとも「私たちが神に対してつくすべきまこと」と考えるか、あるいは新改訳2017のように「真理すなわち主イエスのみ名によって礼拝すること」と考えるのか。いずれとも決めがたいところですが、今回は、「私たちが神に対してつくすべきまこと」と解釈する立場で話を進めたいと思います。

ある辞書を引きますと、礼拝について「神聖な存在に敬意を表して、おがむこと」とありました。他方、聖書において「礼拝」を表すことばは多種多様です。奉仕する、ひざまづく、立つ、罪を告白する、切に願う、求める、仕える、顔を上げる、ひれ伏す、奉仕する、すべてをささげる。礼拝に関する日本語の辞書の定義は静的、聖書のことばは動的でダイナミックと感じます。

 昔から、世々のクリスチャンたちは、礼拝の際神が本当に共にいますこと、ご臨在を覚えて、様々な応答をしてきました。神のご臨在を覚える時、私たちの心もからだも動かされます。神の偉大さを知って、立ち上がり賛美したくなる。神の聖さを覚えて、思わず跪き罪を告白する。神の愛に応えて神に仕え、従ってゆく。事実、主イエスを信じて神を礼拝したサマリヤの女は、自分を見下す人々のために福音を伝えると言う行動をもって応答したことが後の方で確認できます。

 神礼拝は日曜日だけでなく普段の日の生活にも、教会活動にとどまらず、仕事、家庭、経済活動など、私たちの活動のあらゆる領域に影響を与え、私たちの生き方を変えてゆく。これが、まことによる礼拝、全身全霊の礼拝でした。

ところで、礼拝のプログラムは何のためにあるのでしょうか。単に礼拝の順番を示すためだけのものではありません。招詞、交読文、聖書、説教によって、神から私たちにみことばが語られる。祈りと賛美とささげもので私たちが神に応える。みことばを介して、神と私たちの交わりが深まってゆくようプログラムが組まれていることが分かります。

そして、プログラムの最後に位置するのが頌栄と祝祷です。以前出席していた教会の礼拝で、司会者の長老さんが「頌栄の何番」と言うと、「ああ、やっと終わるんだね」と小さな子どもの一声が会堂に響きました。子どもにとっては長く感じられたであろう礼拝。子どもにとって、頌栄は礼拝の終わりの合図にしか思えなかったのでしょう。

しかし、頌栄と祝祷は礼拝の終わりの合図ではなく、礼拝の頂点とされます。神と私たちが交わりを重ね、深めた礼拝は、最後に簡潔な三位一体の神への賛美となって高く上ってゆくのです。

それに応え神から届けられるのが祝祷でした。礼拝を終え、この世へと出てゆく私たちに、イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊との親しい交わりがもたらされる瞬間です。

礼拝は神の招きのことばによって始まり、頌栄と祝祷で頂点を迎え、完結する。この礼拝の流れも意識しておきたいことのひとつです。

最後に、私たち長老教会は聖日の礼拝を「公同の礼拝」と呼び、すべての神の民つまり大人も子どもも一つとなってささげる礼拝を、聖書の教える礼拝として大切にしていること、お伝えしたいと思います。

申命記31:11,12「イスラエル全体が、主が選ばれる場所に、あなたの神、【主】の前に出るためにやって来たとき、あなたはイスラエル全体の前で、彼らの耳にこのみおしえを読んで聞かせなければならない。民を、男も女も子どもも集めなさい。あなたの町囲みの中にいる寄留者も。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、【主】を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行うようにするためである。」


私たちの教会は親の信仰により幼子に幼児洗礼を授け、契約の子と呼びます。子どもたちを神の民の一員と考えています。ここに示されている様に、神は神の民が集まる礼拝、公同の礼拝に大人だけでなく、子どもも出席するよう命じておられます。

新約聖書にこの様な命令はありませんが、公同の礼拝で朗読されていたと考えられる聖書の中には、「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。」(エペソ61)とあります。に子どもたちが出席しているのは、当然のこととされていたのです。

それに対して、「そうは言っても、子どもに説教や讃美歌の意味が分かるのか。」という疑問もわいてきます。しかし、聖書は「今は分からなくてもそれでよい。子どもたちが成長してゆく中で徐々に理解してゆけばよい。」と教えています。

むしろ、子どもにとっては、大人たちが真剣に神を礼拝している環境の中にいることが、重要だと言えます。聖書を学ぶことより、神の民が一つとなって神を礼拝する雰囲気の中に子どもたちを招くこと、神礼拝を味わう体験を積み重ねることが重視されているのです。

子どもをもつ親にとっては、自分の子どもの声や行動が人の迷惑にならないか気を遣ったり、自分自身が礼拝に集中しにくいなど、子どもと一緒の礼拝に難しさを覚える方もおられると思います。しかし、神が子どもを招いているという意識で、子どもとともに礼拝をささげてもらいたいと思います。また、大人たちも礼拝に招かれている神の民として子どもたちを見守り、受け入れ、子どもと共に礼拝することをお勧めしたいのです。

一般的に、私たちは普段していないことを、ある時だけ集中して行うことは難しく、それを喜ぶことはさらに難しく感じるものです。例えば、ベートーベンの第九の演奏会に行って楽しむためには、普段からその一部であっても聞いたり、ベートーベンについて知識を得たりという経験が必要でしょう。

日曜日だけ聖書を開く、日曜日だけ神を礼拝するというサンデークリスチャンにならないように。月曜日から土曜日も、短くても簡単でも良いので、個人的にまた子どもとともに聖書に親しみ、神を礼拝する時間を持つよう努めてゆきたいのです。

みことばにおいてご自身を示される神を礼拝し、神と交わる恵み。みことば通して語られる神のメッセージに耳を傾け、応答する恵み。子どもを含め神の民が一つとなってささげる礼拝の場に招かれている恵み。普段から礼拝に備えるべきつとめがあること。これらを心にとめながら、私たち皆で今年も五十数回行われる公同の礼拝をささげてゆきたいと思うのです。

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