レント「十字架と復活へ向けて(1)~耐え忍ぶ~」マタイ24:1~14


 新型コロナウイルス感染症の流行にともなって、礼拝に集まることが出来なくなっている教会員の方々が増えています。自宅待機を呼びかけインターネットで映像配信のみ行う教会、礼拝も行わないとい教会もあります。数か月前まで、全く想像も出来ないような状況になりました。仲間とともに礼拝をささげることが出来る。当たり前のこと、当然のことと思っていたことが、実は大きな恵みであったことに気付きます。今日、愛する方々とともに、礼拝が出来る恵みを再確認しつつ、いち早くこの状況が改善されるように皆で祈りたいと思います。
 三月中旬になり教会歴としては受難節を過ごしています。主イエスが十字架で死に三日後に復活された。神の一人子が、罪人のために死なれ、死に勝利された。イエス様の死と復活に、どのような意味があるのか。私の人生にどのように関係しているのか。いつでも覚えておくべきこと意識すべきことですが、受難節のこの時、特にキリストの受難に目を向けたいと思います。イースターへ向けて、今年はマタイの福音書を読み進めていきたいと思います。(今日から週毎に一章ずつ進みます。今日がマタイ24章、次週がマタイ25章…と進み、4月12日のイースター礼拝にてマタイ28章の復活の記事を扱うことにします。)

 今日私たちが読むのはマタイ24章、イエス様が世の終わりについて語られる箇所です。やがて起こる神殿の破壊から天地の滅亡まで予告する内容。聖書の最後に「ヨハネの黙示録」がありますが、ここは「イエスの黙示録」とか「小黙示録」とも呼ばれます。
十字架にかかる直前、イエス様は「正しく待つ」姿勢について繰り返し語りました。忠実で賢いしもべの話(マタイ24章)、ともしびを持って花婿を迎える十人の娘の話(マタイ25章)、主人からタラントを預かった三人のしもべの話(マタイ25章)、羊飼いが羊と山羊を分ける話(マタイ25章)、まとめて収録されているこれらの話は、どれも「正しく待つ」ことがテーマとなっています。
死と復活を経て天に昇られるイエス様は、弟子たちと過ごす最後の時に、何を語られたのか。ご自身がもう一度来るまで、どのように待てば良いのか。あの手、この手で繰り返し語られた。「小黙示録」も、この文脈で語られました。イエス様が天に昇られ、もう一度来られるまでの間にどのようなことが起こるのか。キリストを信じる私たちは、どのように待てば良いのか。

 ところで、イエス様がこの話をするのにはきっかけがありました。弟子たちが神殿の美しさに息を飲んだのです。
 マタイ24章1節
イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。


 これは十字架にかかる前、火曜日のことと考えられます。この日のイエス様の働きは聖書に詳細に出て来ます。マタイの福音書に沿って確認すると、21章23節で「イエスが宮に入って、教えておられる」とあり、それ以降、宗教家との激しい論争が続きます。権威について(21章23節~)、税金について(22章15節~)、復活について(22章23節~)、最も大切な戒めについて(22章34節~)、ダビデの主についての議論(22章41節~)が記録されています。身分、政治、神学、聖書解釈と広範囲な論争。当時の宗教家たちは、何とかイエスの主張に欠点を見つけようと攻撃しますが、イエス様は論駁を続け、最後には「誰もイエスに一言も答えることが出来なかった。」という状況。多忙な一日でした。

 おそくらは神殿に入って、一日中、議論と教えに時間を使ったでしょう。夕方になり、神殿を出て行く時のこと。春の夕日に照らされた神殿を見た弟子たちは、その荘厳さに息を飲み、指をさすのです。
 神殿と言えば、ダビデが志、その子ソロモンが建てた第一神殿。バビロンにより破壊された神殿を総督ゼルバベルと祭司ヨシュアが再建した第二神殿。さらに、その第二神殿を大幅に増改修したヘロデ大王の建てた神殿がありました。この時、イエス様と弟子たちが目にしたのは、ヘロデが計画し着工した神殿。ヘロデと言えば、権力欲の怪物、キリストを殺そうと企んだ悪名ですが、当時の世界では建築で有名な人物でした。華美好みのヘロデが増改修した神殿は、その見事さ故に、信仰を持たない者も集まったと言われています。
 あまりの見事な建造物。それも神殿と言えば、都エルサレムの誇り、民族の象徴、歴史的記念碑。この時、歓声を上げた弟子たちの言葉が、マルコの福音書には記録されていました。
 マルコ13章1節
イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。『先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』

神殿内での激論を終え、外に出た時、ふと見上げた神殿の姿がとても美しかったのでしょう。「師よ。見給へ。これらの石、これらの建造物、いかにさかんならずや。」との歓声。そう言われると、私たちも見てみたくなる。どれ程の迫力があったのか。しかし、この弟子たちの声に対するイエス様の言葉は、弟子たちをして驚きの言葉。神殿破壊の予告でした。
 マタイ24章2節
すると、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。』

 安穏とした弟子たちの神殿礼賛の声に、かぶせるように斬りつけられる主イエスの言葉。この神殿は崩される。崩されずに残ることはない。
この地上での歩みは永遠ではない。この地上のものがどれ程美しく、目を奪われるようなものでも、終わりがあるのです。どれほど豪華な神殿でも、どれほど由緒ある神殿でも、神殿自体に力があるわけではない。かつて神様に命じられて建てられた神殿も、多くの祝福を受けてきた神殿も、だから安全というわけではない。真の信仰がなければ、神様の前では瓦礫の山、砂の山でしかないということを知っておくように。
この神殿崩壊の予告は、これより約四十年後に実現します。自然の要塞と言われるエルサレム。攻め上るローマ軍は、都市を包囲し兵糧攻めを選択します。一年、二年とびくともしなかったエルサレムですが、四年目に遂に陥落。歴史家の記録では、十万人近くの捕虜、百万を超える死者を出しての敗戦。都もろとも、神殿が破壊されました。
「どうですか、この見事な美しさは」と言われた神殿は、イエス様が告げられた通り無くなる。今の私たちが、このイエス様の言葉を聞くと、この地上の歩みを永遠と思うことのないように。目に見える物や伝統が大事なのではなく、第一にすべきことを見失わないようにとのメッセージを受け取ります。
 しかし、当時の弟子たちからすれば、この神殿が破壊されるとは思いもよらないこと。神殿が破壊されるなど、そのような不謹慎ことを言っても良いのかというような、衝撃の言葉。イエス様の宣告を聞きながら、しばし動揺したのでしょうか。神殿を出て谷を挟み、オリーブ山に着いたところで、それはいつ起こることなのかと質問します。
 マタイ24章3節
イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。』

 この弟子たちの質問はとても興味深いものです。イエス様が予告したのは神殿の崩壊。世が終わるとは言っていない。しかし弟子たちは、神殿が崩壊するというのは世が終わることだと考えているのです。そのため、「神殿崩壊が起こるのはいつなのか。いや神殿崩壊だけでなく、世が終わる時にはどのようなことが起こるのか。」という質問になっているのです。
 弟子たちは神殿の崩壊は、まさに世の終わりのその時に起こることだと勘違いをしていた。しかし、その勘違いのおかげで、イエス様に「世の終わりの時のしるしとはどのようなものですか。」との質問に至ったのです。私たちからすると、ありがたい勘違い。よくぞ聞いてくれたという質問。この質問を契機に、「イエスの黙示録」が語られることになります。主イエスがもう一度来られるまで、信仰者はどのように待てば良いのか教えらえるところ。
 マタイ24章4節~12節
そこでイエスは彼らに答えられた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします。また、戦争や戦争のうわさを聞くことになりますが、気をつけて、うろたえないようにしなさい。そういうことは必ず起こりますが、まだ終わりではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。

 先に確認したように、イエス様がこれを語られたのは火曜日の夕暮れ。金曜日には十字架につけられ死に、日曜日に復活となります。復活されたイエス様は、四十日にわたって弟子たちと過ごしましたが、その後で天に昇られます。それ以降、キリスト者はイエス様が来られるのを待つのです。この待つ間、何が起こるのか告げられます。
 ここでイエス様が語られたことは、この世界には苦難があるということ。「待つのは大変なこともあるかもしれない。」とか、「苦労を味わう人もいるかもしれない。」とは言われませんでした。苦難があると名言しています。
偽キリスト、偽預言者が現れ、多くの人を惑わす。戦争が起こる。戦争の噂を聞く。飢饉や地震が起こる。身近なところで起こる裏切り、憎み合い。正しいことをしない人が増え、隣人を愛することが馬鹿らしく思える世界となる。大変な世界。
戦争や飢饉、地震というのは、全ての人にとって苦しいこと。しかしそれに加えて、信仰者ならではの苦しみがあることも語られています。キリストを信じるからこそ、憎まれ、苦しみにあわせ、殺される。この世界で生きる限り、私たちは苦しみを味わうのです。

 ところでこのような苦難、苦しみをイエス様が何と表現しているでしょうか。「産みの苦しみ」です。「産みの苦しみ」。
男の私が「産みの苦しみ」を経験することは出来ないのですが、悪阻の辛さ、陣痛の苦しさ、まさに誕生する際の痛みは大変なもの。男性には耐えられない痛みとも言われます。出産には産みの苦しみがある。大変な苦しみであることが分かっていても、それでも出産を願うのは、子どもが生まれる喜びが大きいから。苦しみ以上に、新しい命の誕生の喜びがあるからでしょう。何の理由もなく、出産にまつわる苦しみを味わうようにと言われても、耐えられるものではない。新しい命の誕生があるから、産みの苦しみを耐えることが出来るのです。
 キリストを信じる者たちがこれから味わう苦しみを語る時、イエス様は「産みの苦しみ」と表現されました。世の終わりへ向けての苦しみは、「産みの苦しみ」である。新しい命の誕生を迎えるための苦しみなのです。

 このイエス様の言葉を直に聞いたペテロは、後にイエス様の到来を待つ者たちの姿を次のように表現しました。
 Ⅱペテロ3章13節
私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

イエス様がもう一度来られるのを待つ者たちの味わう苦しみとは産みの苦しみ。それは「新しい天と新しい地」を待ち望む苦しみでした。ただ苦しいというのではなく、新しい創造、新しい天と地を確信しての苦しみ。罪にまみれた世界にあって、不条理と思える苦しみを味わう私たち。苦しみの中にあって、ただ苦しいとして終わるのか。新しい天と新しい地へ、産みの苦しみの最中にいると受け止めるのか。ここには大きな違いがあります。

 それでは、産みの苦しみの中で主イエスの到来を待つ者たちは、どのように待てば良いのでしょうか。信仰者の正しく待つ姿勢とはどのようなものでしょうか。
 マタイ24章13節~14節
しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

 聖書の神を信じる者。神の民の生き方はどのようなものか。答えの一つは「救い主を待つ」という生き方。神を信じる者は、救い主を待つ者。旧約の時代、神の民は、約束の救い主が来ることを待ち望むようにと教えられました。主イエスが来られた新約の時代、神の民は、もう一度来ると約束されたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。聖書は、信じる者に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるようにと教えています。
 それでは、どのように待てば良いのか。正しく待つ姿勢とはどのようなものか。ここで二つの姿勢が確認出来ます。
 一つは耐え忍ぶこと。耐え忍ぶというのは、苦しみに対してただ我慢するという意味ではありません。どのような苦しみの中にあっても、神様が世界を新しくされることに希望を失わないということです。神様が、キリストを信じる私を造り変えて下さる。私だけでなく、世界をも造り変えて下さる。今、目の前で起こっている様々な苦しい状況が全てではない。この先に新しい天と新しい地がある。この確信を持って生きるということです。
 多くの苦しみに囲まれると、希望を持って生きることが難しくなります。将来へ向けて、神様がどのような約束をして下さっているのか考えられなくなる。全てを投げ出したくなる。全て、どうでもよくなる。そのような時にこそ、今日のイエス様の言葉を思い出したいと思います。苦しみは必ずある。キリスト者であるから味わう苦しみもある。しかし、それは産みの苦しみであること。耐え忍ぶように、希望を失わないように。このイエス様からの励ましの言葉を、しっかりと受け止めたいと思います。

 もう一つは福音を宣べ伝えること。この世界がどれ程悲惨に満ちたものでも、神様はこの世界を新しくされるという福音。キリストの御業によって、私も、世界も新しくなるという福音。この福音が全世界に宣べ伝えられるまで、終わりはこないと言われます。つまり、キリストの到来を待つ者は、この福音を宣べ伝える者となるのです。
 やがてイエス様が来られ、新しい天と新しい地が完成する。神様は、その新しい天と新しい地に一人でも多く入るように願っておられる。その神様の情熱を覚えて、イエス様の到来を待つ私たちは、福音を宣べ伝え続けるのです。

 受難節に入り、十字架直前のイエス様の言葉を確認しました。小黙示録と呼ばれる箇所。キリストの到来を正しく待つ姿勢として教えられるのは、耐え忍ぶこと、福音を宣べ伝えること。その生き方は、神様の新しい創造に希望を持つことと言えます。自分の力で自分を変えるのではない。自分の力で世界を変えるのでもない。神様が私を新しくして下さる。神様が世界を新しくして下さる。この希望を宣べ伝える。
 くれぐれも、自分の力に頼ることのないように。弟子たちが神殿を見たように、この世のもの、自分自身を見ることのないように。神様が罪人を造り変え、世界を造り変えて下さる。今はその産みの苦しみの中にある。この世界で、私たち一同、最後まで耐え忍び、福音を宣べ伝える者として、生きていきたいと思います。

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