レント「キリストの受難(3)~罪人を赦し、生かす十字架の恵み~」ルカ23:32~43


現代では、世界中どこに行っても、キリスト教のシンボルが十字架であることを知らぬ人はいないと思われます。多くの人が、十字架と言えばキリスト教のしるし、今風に言えばロゴと考えています。女性にとって、十字架はちょっとオシャレなネックレスの一種でもあります。ですから、主イエスと弟子たちが生きていた時代、それが権力を保持するためローマ帝国が定めた処刑の一種であり、人間が考え出した最悪の殺人方法だったことを思い起こす人は、最早多くはないのでしょう。

囚人を裸にし、手足を釘づけにして、死ぬまで放置する。一気に殺さずじわじわと苦しめる拷問刑。ローマ広しと言えども、果たして一年に何人の者が十字架にかけられたことか。余りにも残酷な刑であったため、記録されることも稀であったとされる十字架の刑。その十字架で死んだイエスを救い主として礼拝することを、当時一般の人々はどう思っていたのでしょうか。


コリント第一1:23 「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、」


ユダヤ人にとって救い主とは、ローマ帝国を倒し自分達をその支配から解放してくれる者であって、十字架刑の犠牲者ではありませんでした。他方、ギリシャ人ローマ人にとって、十字架刑で殺されたと言うことは、イエスが恥ずべき罪人であり、軽蔑されて当然の人物であると感じられたのです。

紀元200年頃に彫られたとされる壁の落書きが、今でもローマに残っています。そこに描かれているのは、十字架につけられたロバの頭をした人物に向かって祈りをささげる、一人の男の姿。そこには「この男は神を礼拝している」という文字も刻まれているそうです。当時一般の人々が、十字架につけられたイエスのことを、またイエスを救い主として礼拝するクリスチャンのことを、どう考えていたのかが良く分かります。

しかし、たとえユダヤ人が変に思っても、ギリシャローマの人々から馬鹿にされても、ルカを含め四つの福音書は、十字架の死と復活を主イエスの生涯における頂点、最も重大な出来事として描いているのです。それは、何故なのか。このことを考えながら、今日の箇所を共に読み進めてゆきたいと思います。


23:32,33「ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」


この日、処刑の当番に当たったローマの兵士たちの仕事ぶりは、いささか乱暴、無造作に感じられます。「一人の犯罪人を処刑するだけでも厄介だと言うのに、よりによって今日は三人もの犯罪人を片付けなければならないとは、何と厄介なことか。」「それも、そのうち一人はユダヤ人の王を名乗る宗教家で、ちっとも犯罪人らしくない。しかも、俺たちのことを怖がってもいなければ、十字架に怖気づいている様子もない。」

主イエスの泰然とした姿が気に食わなかったのでしょうか。彼らは主イエスを真ん中につけ、二人の犯罪人を家来のごとく左右の木に吊るしました。主イエスをユダヤの王ならぬ「裸の王様」

に仕立て上げると、嘲り始めました。


 23:36~38「兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」


 いくら法律とは言え、生身の人間を張り付けにする等と言う汚れ仕事は、とても素面ではできないと感じる者が多かったのでしょう。処刑の当番に当たる兵士には、安物のぶどう酒が支給されたらしいのです。その濁ってすえた匂いのする酒、それも自分たちの飲み残しを、彼らは突き付けます。

そして、「これは、これはユダヤの王様。一杯いかがですか。一杯ひっかけて、王様なら王様らしく、自分を救ってみたらどうですか。」そう、からかったと言うのです。それを見ていた民衆も、ユダヤ教の指導者たちも図に乗って、嘲笑いを浴びせたのです。


 23:35「民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」


 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言うローマ兵士の声。「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と叫ぶユダヤ人の声。両者とも尤もな言い分と聞こえます。

 「今日まで、あちらこちらで何人もの命を救ったのなら、今この時、自分自身を救ったらどうなのか。」「もし、本当にユダヤ人の王なら、自分を釈放させることぐらい朝飯前だろう。」自分自身を救えないような者が救い主であるはずがない。木に吊るされたまま、何もできないとはどういうことか。それこそ、お前が救い主、キリストでないことの証拠ではないのか。非の打ちどころのないことばと思えます。

 これは、何も兵士や民衆だけの思いではありませんでした。この場に主イエスの男の弟子がいなかったのは、彼らが十字架につけられた主イエスの惨めで、無力な姿など見たくもないと思い、逃げ去っていたからです。

 こうして、人々から嘲られ、弟子たちから置き去りにされた主イエスは、どうだったのか。主イエスは、十字架の上で微動だにしませんでした。そこから降りる気配は全くなかったのです。何故、主イエスは一言も言い返さないのか。何故、十字架から降りようとしないのか。

 その姿をよくよく眺める時、私たちの耳に、主イエスがかって語られたことばが聞こえてきます。人々が浴びせる嘲笑の中、十字架の上で苦しみを受け続ける主イエスの心には、別の思いがあったことに気がつくのです。主イエスの思いが示されたことばを二か所、確かめておきます。


 マルコ10:45「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

 ヨハネ12:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」


主イエスにとって救い主とは、自分のいのちを捨て人々を救う者。本来、神のさばきに価するひとりひとりの人間に代わって死する者。人の罪を背負ってそれを贖う者のことだったのです。「自分自身を救えない者が、他人を救えるのか。」ではなくて、他人を救うために、自分のいのちを捨てるのが真の救い主のしるしだったのです。

 「十字架の上で死の苦しみの中にとどまり、罪人の罪を贖うことこそわたしの使命。」そんな主イエスの無言のメッセージを、私たちここに聞くことができると思いますし、聞くべきでしょう。

 そして、主イエスが救い主であることのしるしは、この時あることばによって示されていました。


 23:34「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。」


 主イエスは、兵士のためとりなしの祈りをささげられました。普通、囚人は十字架刑に際し、助命を願うか、運命を呪うかするものでしょう。けれども、この恐ろしい瞬間、主イエスの口から洩れたのは、助命の願いでも、呪いでもありませんでした。とりなしの祈り、それも自分を十字架につけた兵士たちの赦しのための祈りだったのです。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」この祈りによって、主イエスは人殺したちの罪を覆い、彼らが当然受けるべき神の怒りから、彼らを守ろうとしました。普通の王なら、民を殺して自分を救うかもしれません。しかし、主イエスと言う王は、自分のいのちを捨てて、民の身代わりに甘んじるのです。普通の人間なら、周りの人から嘲りを受ければ、怒りを爆発させ何倍も言い返すことでしょう。けれども、主イエスは自分を嘲る者のため、黙々と祈りをささげることに命を使われたのです。

 そして、この主イエスの祈る姿に心打たれたからでしょう。ともに十字架につけられた二人の犯罪人の内の一人が、改心したのです。


 23:39~43「十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。

ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」


「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。人は不幸に落ちると、同じ境遇にある他人を罵ることで、自分の不幸を軽くしようとするとも言われます。犯罪人の一人は、主イエスに悪口を吐きました。しかし、もう一人の相棒は、それをたしなめ「…われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そう語ったと言うのです。

昨日まで腕を組んで盗み、暴力、殺人、世の中を荒らしまくってきた仲間同士が、ここで右と左に分かれました。一方は、最後まで命に執着し、人の悪口を言い、世間を呪いました。もう一人は、自分の刑を受けとめ、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえ」と自省したのです。

それも、昨日までの相棒に向かって「お前は、神をも恐れないのか」と神の名を呼んだのです。この男も、子どもの頃は会堂で聖書を読み、賛美歌を歌い、祈りをささげたことがあったのでしょうか。それが大人になり、悪に染まり、生活も荒れ果て、神のことを忘れていたのでしょう。それが、今や生涯を終えようとするに及んで、神の名を口にしたと言うのです。

片方は、主イエスの祈る姿を目にしながら、「お前が救い主だと言うんなら、俺を救え」とどこまでも、自分を省みることがない。しかし、もう一人は、主イエスの祈りを聞いて心の目が開かれ、「私は、十字架でさばかれて当然の罪人です」と、自分の罪を自覚する。全く対照的な二人の姿を見るにつけ、果たして自分は、十字架の主イエスの前にどのような態度をとってきたのか、とっているのか。私たちも自分を振り返る必要を感じます。

そして、です。権力者も、兵士も、民衆も、人と言う人がみな「お前など、救い主であるものか」と叫ぶ中、神を思い、自分の生涯を省みた男は、今目の前で十字架についているお方こそ、真の救い主と直感したのでしょう。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と祈りをささげたのです。

「イエスよ、私を救え」ではありません。「本当なら滅びて当然の私ですが、私のことを思い出してください」。そんな慎ましくも、切なる祈りでした。神の前に自分の罪を深く自覚し、同時に、主イエスの恵みに信頼する祈り、いついつまでも主イエスとともに生きることを願う祈りです。

そんな男のために、主イエスは間髪を入れず、救いの宣言を発しました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」明日と言わず今日、それも処刑台の上から天国へ。主イエスの地上生涯最後の弟子が誕生した瞬間です。

最後に、二つのことを確認して、終わりにしたいと思います。

一つは、十字架の主の恵みは、私たちが犯すどんな大きな罪をも赦し、私たちに平安をもたらすことです。ウェストミンスター信仰告白の中に、「…真に悔い改めている者にも永遠の刑罰をもたらすことができる程、大きな罪はない。」と言うことばがあります。少し難しく感じる方がいるかもしれませんから、分かりやすく言い代えます。私たちが真に悔い改めるなら、私たちが犯したどんな大きな罪も、神に完全に赦されている、だから安心してよいと言うことです。

この真理を、今日の箇所程鮮やかに示してくれる箇所はないでしょう。強盗、暴力、殺人。前科何犯か分からない程罪を犯し、悪に染まった男が、生涯の最後に罪を認め、主イエスの恵みに信頼した。ただそれだけで、すぐに天国に引き上げられたと言う事実。自分が犯した罪の大きさ、重さに悩む者にとって、これ程の福音はないと思われます。

二つ目は、十字架の主イエスの恵みは、私たちに「主イエスとともに生きたい、主イエスに従ってゆきたい」と言う願いを起こさせることです。十字架の主を信じる時、私たちは罪を赦された平安を受け取るだけで終わりません。どんなことがあっても、主イエスとともに生きたい、主イエスのように生きたい。その願いが心の中で徐々に成長してゆくのです。

自分を悪く言う者に腹を立て、言い返さない自制心。むしろ、自分を苦しめる者のために祈りをささげる愛と忍耐。主イエスのように生きたいと言う願いが、私たちの生き方を変えてゆくのです。

今日の聖句です。


 テモテ第一1:15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」


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