レント「キリストの受難(4)~この方は、正しい方~」ルカ23:44~56


「人間臨終図鑑」という本があります。古今東西、様々な人々の死に際の記録を集めたものです。糖尿病と神経痛、皮膚病とノイローゼ、加えて胃潰瘍に悩まされていた文豪夏目漱石は、死の前日酷く苦しみ、自分の胸を開けると「早くここに水をぶっかけてくれ。死ぬと困るから」と言い、直後に意識を失ったと言われます。イギリスの政治家チャーチルは、最後に「私は随分たくさんのことをやってきたが、結局何も達成できなかった」と娘に語り、息を引き取ったと言われます。

 教会音楽家のバッハは、枕元に妻を呼び、「私に音楽を聞かせておくれ。もはやその時だから、お別れは死の歌を歌っておくれ」と頼み、家族が讃美歌を歌うと、顔が穏やかになり、最後を迎えたとされます。

 最後まで病に苦しみ続ける者。多くのことをなしてきたにもかかわらず、「結局何も達成できなかった」と呟く者。賛美歌を聞きながら、神を仰ぎ、穏やかに死んでいった者。三者三様、人間の死に方は様々と感じます。もし、死に方を選べるなら、病に苦しむことなく、虚しい心を抱いてでもなく、神を信頼し、穏やかな心で最後の時を迎えたいと、誰もが考えるでしょう。

 ところで、イエス・キリストはどの様な最後を迎えたのか。歴史上最も残酷な刑とされる十字架に吊るされ、人々の嘲りを受けた主イエス、激しい痛みと渇きに悩まされた主イエスは、一体どの様な思いを抱いて死んでゆかれたのでしょうか。今日は、主イエスの死の瞬間を共に見てゆきたいと思います。

 紀元30年頃、「ゴルゴダ」つまり「どくろ、骸骨」と呼ばれる丘で十字架にかけられた主イエスは、七つのことばを発せられました。所謂、十字架上の七つのことばです。私たちが読み進めるルカの福音書は合わせて三つ、第一のことば、第二のことば、そして第七のことばを記録しています。

 七つのことばの第一は、ご自分を十字架に釘付けにした者たちの赦しを願う、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか分かっていないのです。」第二は、十字架上の犯罪人への救いの宣言で、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」この二つは、先回確認しました。第三から第六までは、他の福音書に記されています。第三は、


 ヨハネ19:26,27「…母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた」


 これは、弟子のヨハネに愛する母マリヤのことを託した主イエスのことばです。第四が、


 マタイ27:46「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」


 これは、神の怒りを受け、捨てられた主イエスの苦しみの叫び。第五は、


 ヨハネ19:28「わたしは渇く。」


 これは、天の父を心から求める主イエスのことばでした。第六が、同じくヨハネの福音書にある


 ヨハネ19:30「完了した。」


 これは、人類のため罪の贖いのわざを成し遂げた主イエスの勝利のことば。そして、最後第七のことばが、ルカの福音書だけが記す「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」との叫びです。


 ルカ23:44~46「さて、時はすでに十二時ごろであった。全地が暗くなり、午後三時まで続いた。太陽は光を失っていた。すると神殿の幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」


 聖書において、全地を覆う暗闇は罪人に降る神のさばき、神の聖なる怒りの現れです。人類が受けるべき神の怒りを、自ら代わって受けた主イエスの苦難は十分となり、罪の贖いが完成。その時、神殿の幕が真ん中から裂けたとあります。この幕は、神と人類の間に隔てがあること、聖なる神から罪ある私たち人間が遠く離れていることを示すものでした。ですから、この出来事は、主イエスによって、すべての人が、罪あるまま神に近づくことのできる道が開かれたと言う真理を教えています。

その瞬間、主イエスが大声で叫ばれたのが、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」でした。十字架上で発せられたこの最後のことばは、何を物語っていたのでしょうか。

天の父は、御子イエスに人類の贖いとなることを託しました。御子イエスは、父の命じるままに人となり、人類の身代わりとして十字架につき、苦しみ中にとどまり続け、ついに息を引き取ります。直前のゲッセマネの園では、御子イエスが「父よ、みこころなら、この十字架の苦しみを取り去ってください。」と訴えたにもかかわらず、天の父はそれに応じることはありませんでした。

天の父は、最愛の主イエスを罪に落ちた人間の身代わりとする。主イエスは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と苦しむ。それでも、父のみこころに従い、十字架の苦しみを飲み干し、罪の贖いを果たし終えた今、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」と、主イエスは再び天の父の懐に帰ることができたのです。

私たちが想像する以上に、父なる神と主イエスが大きな犠牲を払い、罪人を愛していること、主イエスの尊い死をもって私たちの罪を贖い、救い出そうとしたことが、聖書を読むことによって確認できます。この時、天の父と御子イエスが払われた犠牲の大きさを思ってのことでしょう。主イエスが母マリヤを託した弟子、あのヨハネは、十字架の愛についてこう語っています。


ヨハネ第一4:10「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」


「ここに愛がある。」主イエスを十字架に追いやった天の父。父のみこころに従い、力を尽くして贖いのための死を遂げた主イエス。二人の願いは、神の愛とはいかなるものかを、私たちに示すことにあったと、ヨハネは伝えているのです。

そして、使命を果たし終えた主イエスは、天の父に自らをゆだねました。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」人生に悔いなし。天の父に信頼するこのことばからは、歩むべき道を歩み、成すべきことを遂げた主イエスの満足と平安が伺えます。

この死を前にしての主のことばを心に銘記したい。私たちも、やがて来る死に際して、こう言えるよう、残りの人生を歩んでゆきたいと思うのです。

しかし、主イエスは十字架上で息を引き取っても、その影響は周りの人々に及びました。十字架上での主イエスのふるまいを目の当たりにして、人生を変えられた人々がいたのです。

一人目は、死刑執行官、ローマ軍の百人隊長でした。軍律厳しいローマ軍の将校、それも占領軍の勝利者として、十字架刑執行の監督に当たった誇り高い軍人です。当時の常識からすれば、十字架につけられるのは恥ずべき罪人、人間の屑でした。それをこの百人隊長は何と言ったのか。


ルカ23:47「百人隊長はこの出来事を見て、神をほめたたえ、「本当にこの方は正しい人であった」と言った。」


注意してください。百人隊長は、「本当に、この人はかわいそうな人だった」と、単に同情した訳ではありません。「神をほめたたえ」とある様に心を神に向け、主イエスを倫理的道徳的に正しい人と確信したと言うのです。ユダヤ人が何と言おうと、ローマの法律がどうあろうと、このイエスと言う人物をさばいた自分は間違っていた。この方は神も認める程に正しい人であると判断したのです。

十字架の主イエスは、死の直前に悪を重ねた犯罪人を救いに導きましが、死しては誇り高き軍人の心を砕き、へりくだらせ、神への信仰へ導いたと言えるでしょう。

次は、十字架刑を眺めていた群衆です。


ルカ23:48、49「また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、これらの出来事を見て、悲しみのあまり胸をたたきながら帰って行った。しかし、イエスの知人たちや、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちはみな、離れたところに立ち、これらのことを見ていた。」


最初の内、主イエスを罵っていた人々、あるいは他人事の様に眺めていた人々の中から、良心に目覚めた者が起こされたと言うのです。彼らは、嘲るべきでない人を嘲ってしまったことを悔やんだのでしょうか。真に尊ぶべき人物を死に追いやったことに心を痛めたのでしょうか。悲しみのあまり胸を叩いたとあります。

この日からおよそ50日後。ペンテコステの日、都エルサレムで使徒ペテロが行った説教によって罪を悔い改め、主イエスを信じた人々の中に、この時の群衆がいたと考えられています。

ところで、彼らが去った後、主イエスの女の弟子たちはそこに残りました。恐らく、せめて愛する主イエスの遺体を悲惨なまま、人目にさらしたくはない。人間らしく埋葬してあげたい。そう願っていたのでしょう。しかし、彼らにはどうすることもできませんでした。

そこに敢然と現れ、女の弟子を助けたのがヨセフという人物です。


ルカ23:50~56「さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。

この日は備え日で、安息日が始まろうとしていた。イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。そして安息日には、戒めにしたがって休んだ。」


ヨセフは、ユダヤ最高議会の議員、エリートでした。他の福音書を見ると、有力な議員であり、資産家でもあったとあります。他の人がなす術なく、離れているしかなかった状況で、身分においても資産においても堂々たる人物ヨセフが、名乗りを上げたのです。

順調な時、主イエスに従っていた男の弟子は、ヨハネ以外は逃げ去り、後に残るは女ばかり。そこに、これまで名を聞いたことのない弟子ヨセフが現れると、総督ピラトと交渉。自ら用意した墓に埋葬する許可を得ると言う、大活躍を演じたのです。

それにしても、このヨセフ。今の今まで、どこで何をしていたのでしょうか。51節には「ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった。」とあります。彼は議員でありながら、主イエスを排斥する議会の計画や行動にくみしてはいませんでした。しかし、自分を公にすることはなく、決議を求められる会議には欠席していたらしくあります。

ヨセフは、議員としての名誉、資産家としての生活を守るため、主イエスへの尊敬を隠していました。公然と信仰を告白し、世間や同僚に非難されることから逃げていました。

それが、いざ主イエスの十字架上での振る舞いを見るにつけ、自分のぬるま湯の様な信仰、卑怯な態度を悔やんだのでしょう。せめて、「主の遺体を墓に葬らせてもらいたい」と人前に飛び出したのです。主イエスに従うことから逃げ、隠れてきたヨセフが、敢然と十字架に進んで、罪人のために命をささげた主イエスの姿を目の当たりにして、大きく心を動かされたのです。


マルコ15:43「アリマタヤ出身のヨセフは、勇気を出してピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願い出た。」


十字架の主イエスは、善良な人ヨセフにただ一つ欠けていた勇気と言う賜物をもたらしました。それによって、ヨセフは議員として、資産家として生きることよりも、主イエスに従うクリスチャン、キリスト者として生きることを選ぶことができたのです。私たちも、ヨセフと同じ弱さを持つ者。主イエスから勇気と言う賜物を頂きつつ、信仰の歩み続けてゆきたいと思うのです。

以上、人の目からは全く無力な状態にあると思われた十字架の主イエスが、実は人を造りかえるほどの測り知れない恵みを与えていたことを、私たち確認してきました。

誇り高き軍人の心をへりくだらせ、神を前にし、「この方は正しい人であった。」と言う告白へと導いた恵み。弱い立場にある者をいじめ、無抵抗の人を罵って恥じることがなかった群衆の良心を目覚めさせ、自分の言動を悔いる者へと変えた恵み。世間をはばかり、保身を重んじ、信仰を隠してきた弱き信仰者を奮い立たせる恵み。私たちも、十字架の主イエスを仰ぎ、私たちを造りかえる恵みを受け取ってゆきたいと思います。

この時、十字架の主イエスから離れ、逃げ去っていたものの、やがて立ち返り、初代教会で活躍した使徒ペテロは、十字架の主の恵みについてこう告白していました。今日の聖句です。


ペテロ第一2:24「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」

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