イースター「キリストの復活~どうして死人の中に~」ルカ24:1~10


 人間とはどのような生き物か。答えは様々ありますが、答えの一つは「死ぬもの」、「死ぬ存在」です。古今東西、哲学者、思想家、宗教家、偉人から一般の人、実に様々な人が人間について、死について論じてきましたが、人間は「死ぬ存在」であることは大前提なのです。

形あるものは壊れる。命あるものは、必ず死ぬ。死といのちでは、百戦百勝で死が勝利する。もっと言えば、そもそも生きているということは、死に向かって進んでいること。不老不死を追い求めることはあっても、「もしかしたら、私は死なないかもしれない」と言い出す人はいないのです。人が死ぬのは当然のこと、当たり前のこととして、私たちは生きています。

 ところで、聖書は「死」について、肉体の死だけでなく、霊的な死があることも教えています。創造主から離れた人間は、肉体が死ぬようになっただけでなく、霊的にも死ぬ存在となった。霊的な死とは、罪の悲惨の中、自分中心に生きることです。

悪を考え、実行してしまう。愛すべき人を愛せない。赦したいのに赦せない。怒りや憎しみを手放せない。止めたいと思う悪を止められない。良かれと思うこと、正しいと思うことをしても、結局は自分と周りの人を傷つけながら生きることになる。世界を見る時も、自分自身を見る時も、人間は霊的に死んでいることがよく分かります。

 肉体の死という意味でも、霊的な死という意味でも、私たちは死が身近です。死に支配されている世界。死に服従している人間。しかし、この死の世界に、まことのいのちである方が来られたというのが、聖書の教える福音でした。

 キリストの復活を祝う聖日、死の世界に、まことのいのちを持っておられる方、永遠のいのちを持っておられる方が来られたことの意味を皆で再確認したいと思います。


 私たちは四週に渡って、キリストの受難について見てきました。先聖日、イエス様の死と埋葬を確認しました。

神の一人子が死なれ、埋葬された。死が当然の世界、死が支配する世界であれば、これで終わり。八方塞がり、万事休す。イエスの埋葬にて、聖書は終わるところ。しかし、続きがあるのです。死で終わらない。死が当然、死が支配する世界だと思い込んでいる私たちに、そうではないと教える聖書。


 ルカ24章1節~3節

週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た。見ると、石が墓からわきに転がされていた。そこで中に入ると、主イエスのからだは見当たらなかった。


 イエス様が十字架で死に、埋葬されたのが金曜日の夕方。当時、遺体に香料や香油を塗る習わしがありましたが、埋葬の際には時間がなく、ともかくイエス様の遺体を墓に納めることだけします。この埋葬を手配したのはアリマタヤ出身のヨセフという人でしたが、イエス様とともにガリラヤから同行していた女性たちは、その場に立ち合い、香料と香油を用意しました。何としてでもイエス様を丁寧に葬りたいと願っていたのです。

翌土曜日は安息日のため、戒めに従って休み、日曜日の朝を待ちに待ちます。やっと、遺体に香料、香油を塗ることが出来る。日が昇るやいなや、準備していた香料を手に、墓へ駆けつけるのです。

男性の弟子たちは、キリストの十字架を前に散り散りになっていました。ところが女性の弟子たちは、その死と埋葬を見届け、葬る上でも丁寧にしたいと願っていた。勇気と強さ、イエス様への愛を感じます。麗しい場面のように思います。

 しかし、肝心なところで、この女性たちには問題がありました。生前のイエス様に対する愛や感謝がありました。勇気も強さも持っています。しかしこの朝、この女性たちが会おうとしているのは、死んだイエスなのです。手に持つのは香料で、遺体に塗ろうとしていたのです。

この女性たちは、「マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、その他の女性たち」と言われています。それぞれ、イエス様に助けられ、旅に同行した人たち。イエス様が為された奇跡を目撃し、イエス様が語られたことを聞いてきた人たち。しかし、キリストが復活するとは思っていなかったのです。死から埋葬に立ち合い、遺体を丁寧に葬りたいと愛と感謝を示した女性たち。麗しい姿と見るか。それ程の愛と感謝を示しながら、それでも復活は信じられなかった、残念な場面と見るか。


 十字架にかかる前、イエス様はご自身が死ぬことだけでなく、三日目に蘇ることを弟子たちに伝えていました。ごく限られた者たちにだけ伝えていたのでしょうか。この女性たちは、聞いていなかったのでしょうか。それはあり得ません。何しろ、イエス様ご自身が三日目に蘇ると言っていたのは、イエス様に敵対し、十字架につけろと騒いだ者たちですら知っていたことです。マタイの福音書には次のような記録があります。

 マタイ27章62節~66節

明くる日、すなわち、備え日の翌日、祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。『閣下。人を惑わすあの男がまだ生きていたとき、『わたしは三日後によみがえる』と言っていたのを、私たちは思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の惑わしよりもひどいものになります。』ピラトは彼らに言った。『番兵を出してやろう。行って、できるだけしっかりと番をするがよい。』そこで彼らは行って番兵たちとともに石に封印をし、墓の番をした。


 イエス様は、ご自身の死と三日目の蘇りを宣言されていた。いつか蘇ると言っていたのではなく、「三日目に」蘇ると言われていた。しかし、この三日目の朝、復活のイエス様に会いに来た者たちは、一人もいなかったのです。弟子たちの多くはキリストの復活など頭になく墓に来ることもなく、墓に来た女性たちは遺体に香料を塗るために来ていました。つまり、誰一人、復活を信じていなかったのです。死が全て。死ねば終わり。この世界は死が支配している世界だと思っていたのです。

 肉体の死という意味でも、霊的な死という意味でも、死が身近な世界。死に支配されている世界。死に服従している人間。イエス様と三年間一緒に過ごした弟子たちでも、その弟子たちよりもこの朝はより強く、より愛を示していた女性たちでも、死に打ち勝つことがあるとは思えなかった。つくづく人間は、死よりも強いいのちがあることが分からない。いのちが支配する世界を信じられないことが分かります。

(余談になりますが、ルカはここで「主イエス」という表現を初めて使います。福音書の続編にあたる使徒の働きでは、17回も「主イエス」と使います。つまりルカにとって、「主イエス」という表現は、復活のイエス様を指す言葉です。ルカは葉遣いの点でも、ここでイエス様が復活されていることを記しているのです。)

                  

 この女性たちに、主イエスの復活を伝えるべく、神様の備えがあったことが記録されます。

 ルカ24章4節~5節a

そのため途方に暮れていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着た人が二人、近くに来た。彼女たちは恐ろしくなって、地面に顔を伏せた。


 イエス様が復活されて以降、復活を信じられない者たちのために、父なる神様も、イエス様ご自身も、様々なことを通して、復活が事実であることを示して下さいます。弟子たちの前に現れる。聖餐を行う。焼いた魚を食べることで、肉体の復活であることを示されることもあります。

 復活の朝、墓にまで来た女性たちのために用意されたのは、御使いたちでした。まばゆいばかりの衣を来た人、それも二人が近づいてきた。明らかに普通ではない。恐れをなした女性たちは、地面に顔を伏せます。

 復活を信じられない者たちのために、天使が遣わされた。一体何が語られるのか注目の場面。しかし、その言葉は特別なことではない。「思い出しなさい」というものでした。


 ルカ24章5節b~8節

すると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人たちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。』彼女たちはイエスのことばを思い出した。


 あまりに「死」に馴染みすぎている人間。復活を信じられない人間。弟子の中には、他の者から復活の主を見たと言われても、「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」と言った者もいます。(その弟子、トマスに対して、イエス様はその通りにしなさいと言われましたが。)

 しかし、ここで御使いたちが言ったことは、「主がお話しになったことを思い出しなさい」と、それだけでした。そして、この女性たちには、それで十分だったのです。復活のイエス様に会ったから復活を受け入れたのではない。手と脇腹の傷に触れたから信じたのでもない。復活を最初に受け入れた者たちは、イエス様の言葉によったのです。

 三日目に蘇ると言われていたことを思い出した女性たち。思い出したと言っても、忘れていたのを思い出したという意味ではないでしょう。本当に言われた通りなのだと受け入れたのです。喜び勇んで、主イエスの復活を他の弟子たちに伝えてにいきました。


 ルカ24章9節~10節a

そして墓から戻って、十一人とほかの人たち全員に、これらのことをすべて報告した。それは、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブの母マリア、そして彼女たちとともにいた、ほかの女たちであった。


 言葉によって、主イエスの復活を受け入れた女性たちの姿に、私たちは大いに励まされます。私たちはこの地上で、再臨までの間に、復活のイエス様に直接お会いすることはありません。しかし、神の言葉は手にしているのです。神の言葉によって、キリストの死の意味も、復活の事実も、復活の意味も信じることが出来る。復活の朝、真っ先に復活を受け入れた女性たちの姿に、私たち一同、大きな励ましを受けたいと思います。


 以上が、ルカが記すキリスト復活の記録の第一弾です。ここから、復活されたイエス様と、弟子たちとのやりとりが展開し、復活の意味が詳しく語られていくことになりますが、それは皆様それぞれで聖書を読んで頂くこととしまして、今日は最後に、御使いの一つの言葉に注目して説教を閉じたいと思います。女性たちに、御使いが最初に言った言葉です。

 ルカ24章5節

あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。


 死が当然、死は当たり前。命がある者は必ず死ぬ。命と死であれば、必ず死が勝つ。この世界は死が支配している世界。そう思い込んでいる者からすれば、復活などありえないこと。復活など、世迷言、虚言です。死んだイエスの遺体を墓に捜しに来るのは当然のこと。それ以外に可能性はないのです。

 しかし、イエス・キリストを知る者からすれば、墓に会いに来るなど、ナンセンスもナンセンス。非常識の非常識。神の一人子であり、永遠のいのちを持つお方が、死んで終わりなわけがない。ありえない。主イエスが復活しないという、そんな馬鹿げたことが起こるわけない。

「命と死であれば、必ず死が勝つなどと、誰が言ったのですか。命が勝つに決まっているでしょう。」「この世界は死が支配しているなどと、誰が言ったのですか。命そのものである方が、この世界を支配しているのを知らないのですか。」「イエス・キリストを、一体誰だと思っているのですか。」そのような意味を込めて、「あなたがたたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。」という言葉を私たちも聞きたいと思います。


 身近な人の死を経験し、自分自身も衰えを感じ、肉体の死を身近に感じる私たち。悪を考え、実行してしまう。愛すべき人を愛せない。赦したいのに赦せない。怒りや憎しみを手放せない。止めたいと思う悪を止められない。繰り返し、霊的な死を身近に感じ、失望する私たち。その私たちに、神様はいのちである救い主を送って下さいました。

 もはや、死を当然とする必要はない。死を身近に感じる必要はない。死に服従する必要はない。いのちである方とともに、いのちが支配する世界へ入れられたこと。やがて永遠に生きる世界へ入れられることを確信して、イエス様の復活をお祝いしたいと思います。

キリストの復活を祝う聖日、皆様とともに礼拝が出来ることを大変嬉しく思います。約二千年前に主イエスが復活されたことが、今の私たちにとってどのような意味があるのか。どれ程大きな恵みであるのか。ともに味わうことが出来るようにと願っています。

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