Ⅰコリント(19)「キリスト者の自由~労苦をになう自由~」Ⅰコリント9:1~18


自由と言うことばを耳にする時、皆様が思い浮かべる自由とは何でしょうか。時代によって、国によって、その人が置かれた状況によって、答えは異なるかもしれません。圧政に苦しむ人は政治的自由を、貧しさに悩む人は経済的自由を、自らの考え方や宗教のゆえに差別されている人は、思想信仰の自由を求めてきました。これらの自由を得るために努力し、戦ってきたのが人類の歴史と言えますし、これからも戦いは必要とされることでしょう。

 それでは、イエス・キリストを救い主と信じる者の自由とは何でしょうか。それは、罪に対する神のさばきからの自由、罪の力からの自由、死の呪いからの自由でした。神のさばきを恐れず、安心して生活できること、罪を悔い改め、神の教えに従う歩みを進められること、死後の復活への希望を抱いて生きられること。私たちは、皆この様な自由を神から与えられたのです。

 そして、これら内面的な自由をもとに、この世界に政治的自由、経済的自由、思想信仰の自由を実現するための努力を、神が私たちに求めていることも忘れてはならないでしょう。しかし、折角主イエスが与えてくださった、この尊い自由を歪め、自己中心的な行動、わがままで放縦な生活に支配された人々が、コリント教会の中には存在したのです。

私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、この様なコリント教会の有様を明らかにし、私たちを驚かせてきました。仲間割れ。日常生活のトラブルを教会内で解決できず、この世の裁判所に持ち出して黒白をつけようとする、浅墓な行動。そうかと思えば、自分の母と通じてさばかれた者、遊女の元に通いながら、これを恥じぬ者など、目を覆いたくなるような不品行が横行していました。

さらに、奴隷の兄弟を見下す自由人がいるかと思えば、独身者ややもめを軽んじる等、この世の風潮を当然と考える人々もいる。コリント教会は、様々な点において人の上下、優劣が云々され、いつも誰かと誰かが対立する、そんなギスギスした雰囲気に覆われていたと考えられます。

それに対し、かって自分が精魂込めて伝道した教会が、こんなにも悲惨な状態に後退したことに心痛めたパウロは、教会から送られて来た質問状に一つ一つ応えてゆきます。これら質問状に対する回答が、私たちの目の前にあるコリント人への手紙でした。

さて、先回と言っても一か月以上前になりますが、私たちが礼拝で読んだのは第8章。偶像にささげた肉を食べてよいのかどうかと言うコリント教会からの質問状と、それに対する使徒の回答です。

今日の日本と同様、当時ギリシャの町には、偶像が溢れていました。太陽の神に月の神、大地の神に海の神、雷の神から森の神に至るまで、多くの神々が存在すると信じられていた社会。この様な社会に、聖書の神、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれることは、当然のことです。

古代の宗教の中心は、神々に対するささげものと後に続く祝宴でした。町の市場で売られている肉も、多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、食卓に出された肉を食べることに後ろめたさを感じる兄弟姉妹もいたようです。この様な中、教会内で「偶像にささげた肉を食べてよいのか、否か」と言う問題が起こり、意見は二つに割れました。

ある人たちは、その様な肉を食べるのは偶像を認めることになるとして、反対します。これに対し、知識を誇る人々は、真の神は唯一であって、本来偶像は何でもないもの。何でもない偶像にささげられた肉も何でもないものである訳で、食べる事には何の問題もなしと主張しました。彼らは偶像の宮でも、知人の家に招待された場合でも、躊躇うことなく肉を食べていたらしいのです。

「食べるべきではない」とする禁食派と、「食べても構わない」とする進歩派の争いは、進歩派が優勢、禁食派は劣勢であったらしく見えます。進歩派は、偶像の神々への恐れを、未だ心の中から吹っ切ることのできない兄弟姉妹を未熟者と見なしました。自分には肉を食べる自由があると考え、その権利を行使し、禁食派の兄弟たちを悩ませたのです。この配慮に欠ける言動をパウロは戒めました。


8:13「ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。」


「兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べない」。パウロは、弱い人々のためなら、自分の自由な権利を捨てる決意を示して、隣人の心を踏みにじる者たちを戒めました。自ら率先して肉を食べないと宣言することで、隣人を切り捨てる者たちの行動に、ブレーキをかけたのです。

さて、今朝の箇所はこの続きとなります。一見すると、伝道者が教会から生活費を得ることが正しいことなのかどうかという問題を扱っているようですが、パウロが伝えたいのは、キリスト者の自由の使い方です。パウロは、コリント教会の弱さに配慮して報酬を求めず、テント作りの仕事をしながら伝道すると言う労苦を重ねてきました。使徒の権利を使うことを控えてきたと言うのです。


9:1、2「私には自由がないのですか。私は使徒ではないのですか。私は私たちの主イエスを見なかったのですか。あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。」


コリント教会の中には、パウロが使徒であることを疑う者がいました。彼らは、主イエスが地上におられた時ともに行動した12使徒の一員ではないことを理由に、パウロを批判し、苦しめたのです。しかし、「私は主イエスを見なかったのですか」と語る様に、ダマスコの町でパウロに現れ、異邦人のための使徒となる様命じたのは他ならぬ主イエスご自身でした。「復活の主イエスを見たこと、直接主イエスから使命を託されたことで、私も使徒として十分な資格を備えている」とパウロは語るのです。

さらに、「何よりもあなたがたコリント教会の存在そのものが、私の伝道の結果であり、私が異邦人のための使徒として立てられたことの証拠ではないか」と踏み込みました。ここまで言わねばならなかったパウロには、自らの伝道によって生まれた教会員から批判された悲しみが感じられます。

けれども、一人忍耐して済む問題だったら、パウロも黙っていたはずです。しかし、自分が使徒であることが否定されることで、これまで伝えてきたキリストの福音が無にされ、福音によって生まれた教会が無にされることになるとしたら、他の使徒のことも批判されるとしたら…。

そう思うと居ても立ってもいられなくなったのでしょう。パウロは、自分が他の使徒と等しく、正真正銘の使徒であり、教会から生活費を受け取る権利があることを説明し始めたのです。それは、奉仕する教会に給与を求めず、受け取らないと言うのは、パウロの側に何か後ろ暗いことがあるのでは、と批判派の人々が考えていたからです。


9:3~7「私をさばく人たちに対して、私は次のように弁明します。私たちには食べたり飲んだりする権利がないのですか。私たちには、ほかの使徒たち、主の兄弟たちや、ケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、私とバルナバだけには、生活のために働かなくてもよいという権利がないのですか。はたして、自分の費用で兵役に服す人がいるでしょうか。自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない人がいるでしょうか。羊の群れを飼いながら、その乳を飲まない人がいるでしょうか。」


ケパつまりペテロを代表とする他の使徒たちも、主イエスの弟たちも夫婦で旅を続け、福音を伝え教会を建て上げある働きに専念していたようです。初代教会の主だった人物たちの多くが、奉仕する教会から生活費を受け取っていることを示したパウロは、同じ使徒であるのに、「私とバルナバだけには、教会から生活費を受け取る権利がないのですか。いや、あるでしょう」と確認しています。

「国のために働く兵士は、国からの給与を受け取る権利があり、ブドウ園の所有者は、ブドウの実を食べる権利がある。羊飼いは、自分が飼う羊の乳を飲む権利がある。同様に、私にも奉仕する教会から給与を受け取る権利があるはずです。」日常的な事柄を例に、使徒の権利について説明したパウロは、このことはモーセの律法にも命じられているとして、次は旧約聖書に目を向けます。


9:8~12「私がこのようなことを言うのは、人間の考えによるのでしょうか。律法も同じことを言ってはいないでしょうか。モーセの律法には「脱穀をしている牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。はたして神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。私たちのために言っておられるのではありませんか。そうです。私たちのために書かれているのです。

なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは、当然だからです。私たちがあなたがたに御霊のものを蒔いたのなら、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。ほかの人々があなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちは、なおさらそうではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。」


旧約の時代、収穫した麦の脱穀作業を牛が助けていました。日本でも、農作業を助ける動物として、農家が牛や馬を飼っていたのはそう昔のことではありません。しかし、牛や馬を家族同然に扱う農夫もいれば、吝嗇な農夫もいます。旧約の昔、わずかな収穫を惜しむ農夫は、黙々と作業する牛に鉄製の口輪をはめ込み、牛が食べられないようにしたらしいのです。そんなかわいそうなことをしてはならないと、神は命じています。

しかし、この命令は牛のためだけでは、勿論ありませんでした。勤勉に働く者が、報酬を受け取るのは当然の権利であること、労働者の権利保護が、神のみこころだったのです。そして、このルールは使徒たちが御霊のものを蒔くこと、つまり救いの福音を伝える働きの報酬として、教会から物質的なものを刈り取ること、つまり給与、生活費を受け取る権利の保護に通じている。そうパウロは語るのです。

こうして、働く者が報酬を得る権利はこの世の常識であり、他の使徒も行使し、神のみこころでもあることを説いてきたパウロですが、それは自分の権利を要求するためではありませんでした。逆に、その権利を放棄したことと、その理由を述べるためだったのです。この理由ついては、後で詳しく見るとして、以下二つの事例と、主イエスの教えをもって念には念を入れるパウロのことばが続きます。


9:13、14「あなたがたは、宮に奉仕している者が宮から下がる物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇のささげ物にあずかることを知らないのですか。同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の支えを得るように定めておられます。」

コリントの町でも、ユダヤでも、宮で働く者たちが、人々のささげものを報酬として受け取り、生活を営むことが認められており、慣例ともなっていました。さらに、主イエスも、弟子たちを伝道旅行に派遣する際「働く者が食べものを与えられるのは当然だからです。」(マタイ109,10)と教え、財布や余分な物を持たぬよう命じていたことが確認できます。パウロが言う通りでした。

こうして、伝道者が教会から生活費を支給されることは道理であり、神のみこころであることを確認、証明して来たパウロ。しかし「だからと言って、私は物欲しげな心で生活費を求めているのではない。むしろ、自給自足で伝道することが私の望み、私の誇り。」と語り続けます。


9:15~18「しかし、私はこれらの権利をひとつも用いませんでした。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用いるよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできません。私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。私が自発的にそれをしているなら、報いがあります。自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられているのです。では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに無報酬で福音を提供し、福音宣教によって得る自分の権利を用いない、ということです。」


「私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはならない。」「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいだ。」「…自発的にするのでないとしても、それは私に務めとして委ねられている。」これらのことばは、福音を伝え教会に仕えることを神から与えられた尊い義務として、パウロがいかに深く受けとめていたかを物語っています。

そして、「福音と教会に仕えることが果たすべき義務であるなら、私の誇りは教会から生活費を受け取らずに福音を伝えること、私の報酬は、報酬を受け取る権利を捨て、福音と教会に仕えること」と力を込めて語るパウロの姿が目の前に浮かび、私たちに問いかけてくるのです。

「あなたは、隣人の徳を高めるために、自分の権利を放棄していますか。兄弟姉妹に仕えるために、自分が楽をする権利を捨て、労苦を負うことを選んでいますか。イエス・キリストが十字架の死をもって与えてくださった自由の意味を、あなたは理解し、実践していますか。」

コリント教会同様、私たちも自分の権利は行使して当たり前と言う時代に生きています。自分が手にした権利はことごとく使う。一つも手放さない。そんな風潮を感じる時代です。

富める者が権利を行使することで、貧しい者が踏みにじられ、力ある者が権利を行使することで、弱い立場にある者が苦しむ時代です。隣人のことに配慮し自分の権利を使うことを控える自由、相手の徳を建てるために自分の権利を捨てる自由がある等とは夢にも思わない時代です。自分の思うがままに行動することが自由と誤解され、自由が乱用される。その結果、金銭欲、物欲、性欲、名誉欲、人々は様々な欲望に縛られ不自由でありながら気がつかない時代。その様な時代に、私たちは生きています。

しかし、この様な時代であるからこそ、神が私たちに与えてくださった自由、人間本来の自由がどの様なものなのか、日々確認したいと思います。キリスト者の自由を実際の生き方を通して、人々に示してゆく責任があることを自覚したいのです。自分が楽をする権利よりも、隣人の為に労苦を負う生き方を選ぶ自由が与えられていることを感謝し、私たちパウロのような人生を目指したいと思うのです。

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