ガラテヤ(5)「信仰による完成」ガラテヤ3:1~6
2017年10月からガラテヤ人への手紙について説教シリーズを始めました。出来るだけ四日市からアメリカに帰る前に、この手紙の最後まで行きたかったんですが、そうできなくなったようです。8月まで居る予定なので、それをものともせず残り時間を使って目一杯続けたいと思います。
ニュースで聞いたかも知れないのですが、最近日本全国では様々な詐欺が一つの社会問題です。怪しい犯人は何も知らないおじいさん、おばあさんに電話して、親戚のふりをしながらお金を送ってくれと無礼に命令するなど。いわゆる「オレオレ詐欺」となります。かわいそうなおじいさん、おばあさんたちは信頼するに足らない犯人に騙されて、由々しい危機です。皆さんの周りには、詐欺の被害者が居るでしょうか。誰でも騙されないようにするため、警察は新聞やチラシ、テレビや雑誌などで警告しています。
使徒パウロもガラテヤにある諸教会に対して同じような警告をしました。偽教師はガラテヤの教会に忍び込んでいって、詐欺のような破壊的な教えを広めていたのです。そこで、ガラテヤの教会員を守るために、福音の真実を保つために、パウロはこの手紙を送りました。この様な現象は、現代の私たちの教会や私たちの心にも、危険をもたらします。
信仰生活の中で、詐欺の被害者のように、私たちも信頼するに足らない人を信頼する傾向があります。すなわち、自分を信頼する傾向です。この問題は詐欺よりもっと切実、もっと危険なのです。自分の力でこの問題を乗り越えることは不可能です。
しかし、神様の方はそれを解決することができるでしょう。私たちはこれを解決してくれる神様に信頼を置いています。この信仰を完成せんがため、(1)イエス様の十字架、(2)私たちに御霊が与えられたこと、と(3)私たちが義と認められたこと、三つのことを中心にすべきことを、今日の箇所は教えています。 なので、ガラテヤ3章に記されたパウロの警告をよく聞いて、心に留めていきたいと思います。
何よりもまず、ガラテヤ人はなぜこの誘惑に負けたかというと、イエス・キリストの十字架を忘れたからです。覚えているかも知れませんが、偽教師の教えは以下の様なものでした。イエス様を信仰するだけでなく、救いを得るためにユダヤ教の律法に従う必要があると教えていました。この教えに対して、パウロの言葉はびっくりするほど激しいものです。「ああ、愚かなガラテヤ人」(1節)。1章、2章で、パウロは自分が説いたメッセージを弁証したのです。自分の証、自分のメッセージは神様から直接きたもので、それゆえに、その教えから移ることは、異端であり、愚かなことに他ならないと教えたのです。それから3章で、パウロはガラテヤ人の個人的な経験から、論じています。
「十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出された」(1節)ことを思い出させています。勿論、ガラテヤ人はイエス様が十字架に付けられた時にエルサレムにいたと言う意味ではなく、これはパウロが教えたことに言及しています。パウロの説教や訓練を通して、彼らはイエス様が死んだ時にエルサレムに居たかのように十字架をはっきり見えるようになったという意味です。パウロの思想の中で最も大切なのはイエス様の十字架でした。「十字架」について語ることは、イエス様のすべての働きに触れることです。イエス様の生涯、死、復活を知らなければ、誰も救われません。ですから、論争の始めに、パウロは十字架を強調しました。
私たちの心の中で、十字架がぼやけると、イエス様以外のもの、自分の力などに信頼するしかありません。だからこそ、講壇の上にこの十字架を付けてあります。教会の最も高いところにも十字架があるでしょう。ただの飾りではなく、私たちは何を信じているかについての宣言なのです。それに、多くの方は十字架のネックレスをかけたりするでしょう。ただの宝飾ではありません。先々週、イエス様の復活に重点をおいたイースター礼拝でしたが、毎週の安息日はイエス様の十字架と復活を祝う日なのです。毎週の説教を通して、皆さんの目の前に十字架につけられたイエス・キリストが描き出されてきました。この教会の多くの方は、小畑先生、堀越先生、藤田先生、山崎先生、大竹先生、パウロのような忠実な説教者から十字架のメッセージを明らかに聞き続けてきました。もしくは、自宅の食卓を囲みながらお父さん、お母さんから十字架の話を聞いた方もいます。おそらく、教会学校か、めぐみの園の先生の教えを通して、イエス様の生涯を初めて聞いたでしょう。感謝なことです。
ガラテヤ人のように、私たちの目の前にもイエス様の十字架が描き出されました。それを忘れると、イエス様以外のものに信頼し始めると思います。十字架による確信はなくなると、心配も不安も生じることになるでしょう。すべての罪に源は、根本的に分析すると、やっぱり不信仰だと言えると思います。すべての罪を産む中核は不信仰です。心配はその結果の一つです。イエス様の十字架、偉大な力を信頼しなければ、人生の問題を解決するために「自分しかいない」と考えて、心配が生じます。そこで、毎日の必要を神様に委ねるよりも、自分の力で事態を収拾することになるでしょう。愚かなことです。イエス様は「心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」と言われました。心配は信仰の正反対であります。だから、パウロは十字架の真実を何度も示してくれます。十字架を見て、世界の一番ひどい問題を解決できるイエス様を見ることもできます。そうすると、あくせくせずに、イエス様の十字架の下に憩うことができるでしょう。
しかし、これは非常に難しいでしょう。自分の努力でこの問題は乗り越えることはできません。なので、十字架だけでなく、御霊の力も覚える必要があるとパウロは語ります。二節から五節まで、パウロは律法と信仰の役割の違いについて教えています。この律法というのは、旧約聖書の数百の掟という意味です。神様の民の生活のなかに、様々な役割を果たしています。例えば、律法を読んで、自分の罪をよりはっきり見えるようになります。神様の正しさ、清さも明らかになります。生活の正しい送り方も、律法を見てすぐ分かります。しかし、律法そのものには救う力はありません。
その一方「信仰をもって聞く」ことです。信仰をもって、福音を聞いたからこそ御霊を受けました。つまり、救われたのは神様の御言葉を聞いて、そのメッセージを信仰したからです。パウロはローマ10章でこの過程を記しています。「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです(ローマ10章17節)。
私たちの救いは神様の御業です。だからこそ、信仰によって救いをもらったので、別の道で(つまり、律法を通して)救いを完成するとしたら愚かなことです。完成する方法も、救いを得る方法も一緒で、信仰にほかなりません。
私たちクリスチャンに御霊が与えられたから、私たちの間で力あるわざが行われます(5節)。これは何かと言うと、天と地を創造した神様と平和を体験出来ること。救いは天国に行けるだけでなく、今でも、毎日神様と一緒に歩みながら、お互いに喜び合うことも含んでいます。これより素晴らしい事は全くありません。こんなに喜ばしい贈り物をもらったのに、別の考え方、別の生活に誘惑される危険があります。そうしたら、この恵みを捨て、神様と一緒に歩んだことが無駄になるとパウロは教えているのです(4節)。
偽教師の教えは、割礼とか、律法に従わないと救いを得ることはできない、という異端でした。現代の状況はちょっと違いますが、この誘惑は私たちにも強く仕向けられています。それに陥らないために、「肉によって完成できる」という誘惑について、一緒に見ていきたいと思います。
ところで、「肉」には二つの側面があります。身体だの、言葉だの、思いなどを使って意地悪なことをすれば、勿論それは罪なのです。それは肉の表で、誰でもそれを見てすぐ罪だと分かります。しかしながら、肉の裏はそれより陰湿な誘惑です。肉の裏というのは意地悪なことじゃなくて、良いことをすることです。良いことは罪ではないですが、動機次第では罪だという時もあります。それは危険な肉の裏の面です。私たちは、自分が正しく見られるために良いことをします。つまり、神様の恵みの代わりに、自分自身の努力を信仰するのです。特にクリスチャンにとっては、それは切実な問題となります。例えば、聖書をよく読むから、教会で奉仕をよくやるから、神様によりよく愛される、という動機です。パウロによると、それは神様の恵みを無駄にすることと一緒だと言います。肉によって完成されると言うのです。そうすると、ガラテヤ人のように騙されて、唯一の福音から離れることになる、という意味です。
それでは、自分の努力(肉)を信頼せず、信仰をもって完成するとは、具体的にはどのようなことでしょう。愛する妻、夫、子供との関係の中に自分の罪を見出だしやすいので、私たちの家庭生活から信仰による成長がよりよく理解できると思います。
これを個人的にどのように経験したか、一つのことを語ります。正直に言うと、私はプライドの誘惑に負けるきらいがあります。教会の皆様に、あるいは友達に偉い宣教師だと思われたいのです。そんな訳で、神様からの愛、神様からの完全な赦しに憩うよりも、自分のいい評判を作ることに打ち込む傾向があります。その結果として、家族の関係に損害を与えてしまいました。
例えば、GWの間、他の宣教師の友達家族と一緒に交わるために名古屋まで行って、一日中家族で遊ぶ計画を妻が立てました。口で喜んで一緒に行くと私は言いましたが、心の中で文句をひっそり言ってしまいました。その時間、自由に子供達や友達との関係を喜ぶよりも、イライラしてストレスを感じていました。なぜかというと、この説教の準備をその日できなくなって、つまり大好きな自分の評判を打ち立てる時間を無くしたからです。私のひねくれた態度によって、心の中の罪がにじみ出てしまいました。
このような問題はどのように解決できるでしょう。パウロはこの箇所で教えてくれます。すごい確信をもっても、自分の肉の力で自分の心の問題は治せないのです。心を癒すことができるのは聖霊様だけです。 それだから、私たちができるのは自分の助けの必要性を告白することしかありません。このような時に、神様に、家族に罪を告白して、「神様憐れんでください」と。素晴らしいことに、こんな時にも神様は私たちを捨てられません。
信仰をもって、恵み深い神様に委ねます。信仰をもって、救ってくださった神様は完成してくださると信じる必要があります。成長するコツはこの罪だらけの肉にはなくて、信仰にあるのです。神様に委ねて信頼すると、時間が経つにつれて、徐々に成長できます。神様は私たちの心を喜んで治してくださいます。自分の罪を見ないで告白しないと、神様の赦しと愛を体験できません。刻々その赦しと愛を体験しないと成長できません。成長の始まりは罪をより明確に見ることです。
使徒パウロは、このプロセスが非常に難しいことを分かっています。なので、六節では最も心強い話をしてくれます。腕の立つ説教者はいつも聖書を踏まえて教えます。パウロもそうします。六節はこうです「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」。信仰の父・アブラハムに言及する理由が三つあります。
一つ目は、クリスチャンはどのようにして神様と正しい関係を持つかを思い起こすためです。神様との正しい関係は信仰によるものです。と言うのは、旧約聖書のアブラハムにとっても、新約聖書のガラテヤ人にとっても、現代のクリスチャンにとっても、神様を信仰すれば義と認められます。
この創世記15章の引用は偽教師の教えを言い負かす役割も果たします。その偽教師達はモーセの律法を土台にして教えましたが、パウロはモーセの400年前に生きてたアブラハムの方を見習ったら良いと教えています。
最後に、パウロは、ガラテヤ教会の元牧師として、ガラテヤ人は神様の目からして義と認められていることを思い出してほしいと語っています。すなわち、私たち神の民は、神様に愛されていることを忘れると、自分の努力でその愛を得たいと言う誘惑が出てくるでしょう。しかし、もうもらったものを努力で得ようとすることは無駄なことでしょう。
「義」という言葉は日常会話であまり使っていないのですが。ここでは、イエス様に信頼すれば、神様の目にはもう義しい者だと見られると言う意味です。信仰によって、私たちの罪はとり除かれたからこそ、今より聖く、今より義しくなれません。「義しい」と神様に宣言されました。
この宣言は、例えるとすれば、印鑑のようなものだと思います。アメリカには印鑑制度はありません。書類か何かを認める時に署名します。しかし、印鑑の方は署名よりも強い、もっと確実で、もっと恒久的なものです。押印を消そうとしたことありますか。うまくいかないでしょう。クリスチャンの皆の上に神様が「義」と証印しました。この押印も同じように決して消すことができません。私たちに対する、神様の愛の証拠なのです。神様が証印した「義」というのは、それより強い宣言は想像できません。神様が私たちを離さない証拠なのです。私たちの目には、この証印は見えないかもしれませんが、悪霊も、御使も、神様もこれを見て、忘れることはありません。この人生で良いことをしても、神様の宣言の上に追加できません。また、罪を犯しても、この宣言から何も取り去ることはできません。この関係を始めたのも、この関係を完成するのも一緒で、信仰なのです。
パウロの弁論をまとめるため、お釈迦様の最期の言葉を見ていきます。お釈迦様の最期の言葉とイエス様の最期の言葉を比べると、この箇所のポイントは分かると思います。亡くなる前にお釈迦様は弟子に「おこたることなく修行を完成しなさい」と言いました。つまり、訓練を努力し続けてくださいと。その一方で、イエス様は十字架につけられた時に「完了した」と言われました。よみがえられた後、弟子達への最後の言葉は「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」(使徒1章8節)です。救う働きはイエス様が完成しました。私たちの信仰の歩みを成長させる力は聖霊から来ます。仏教のメッセージというのは「自分の力で完成しなさい」です。キリストのメッセージは、「私が救いのわざを完成した。私を信仰しなさい」なのです。
私たちの信仰は弱いかも知れませんが、信仰の対象であるイエス・キリストは驚くほど強いお方でしょう。私たちの目の前で十字架に死んで下さいました。私たちを救うためのわざを完成し、御霊を与えて下さいました。そして、神様は、イエス・キリストを信仰する者を、義と認めて下さいました。それだから、私たちすべて喜びをもって、信仰を成長させるため、また信仰生活の完成のために、この恵み深い神様を信仰しましょう。
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