70周年記念(2)&講壇交換「この石はどういうものなのですか」ヨシュア記4:1~24


 私は知多シオン・キリスト教会で牧師をしております齋藤愛希信といいます。

 四日市教会は今年で創立70周年を迎えるということで、本当におめでとうございます。私自身も、八年前に知多シオン教会へ籍を移すまでは、四日市教会の教会員として信仰を守らせていただきました。ありがたく思っております。今この場には、私のことを子どもの時から知っているという方もおられれば、逆に初めて会ったという方もおられることと思います。私をご存知の方には今更なことではありますが、私はめぐみの園幼稚園の卒園生でして、そこから教会学校に上がり、あっという間に20数年、私が若い日に創造主を覚えるよう導いていただいたのはこの四日市教会の皆様に祈られ教えられ、育んでいただいたからです。ありがとうございます。


 本日は、教会70周年の節目を覚えて、「恵みを振り返ること」というテーマで説教をさせていただくこととなりました。神の民イスラエルが、神様に愛された恵みをどのようにして振り返ったのか。恵みを振り返ることにはどんな意味が、目的があるのか。民の指導者ヨシュアの取り組みから、私たち自身が「恵みを振り返る」ための手掛かりをもらうことができたらと願っております。

1.ヨルダン川を歩いて渡る

・出エジプトから40年後

 さて、ヨシュア記4章は、イスラエルの民がヨルダン川を歩いて渡る、奇跡の記録です。出エジプトをはたして40年後の民が、ようやくカナンに入ろうとするところです。でも、川を渡るといっても、ただ普通に歩いて渡れるような浅い川ではありません。ではどうやって渡ったのか。その様子が、ひとつ前の3章に具体的に書かれています。3章の14節からお読みします。

・神様の奇跡によって川がせき止められる

民がヨルダン川を渡ろうとして彼らの天幕から出発したとき、契約の箱を担ぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱を担ぐ者たちがヨルダン川まで来たとき、ヨルダン川は借り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた。ところが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際の水に浸ると、川上から流れ下る水が立ち止まった。一つの堰が、はるかかなた、ツァレタンのそばにある町アダムで立ち上がり、アラバの海、すなわち塩の海へ流れ下る水は完全にせき止められて、民はエリコに面したところを渡った。

・指導者ヨシュアによる奇跡

 神様があの大ヨルダン川の流れをせき止められたので、水が上流で立ち止まった。止められたその水は、そこで立ち上がったと。奇跡でした。指導者モーセが海を二つに分けた奇跡は有名で、知らない人はいないでしょう。それに比べると、この後継者ヨシュアがヨルダン川をせき止めた奇跡は、不思議にマイナーな気がします。なぜなんでしょうか。ともかく、ヨシュア記三章四章は、神様の大いなる奇跡の御業がヨシュアの上に働いて、イスラエルの大軍勢がヨルダン川を無事に渡り終えたことを記録していました。

・佐布里池の水が全部抜かれました(川底の石)

 聖書は、彼らが乾いたところを渡った、と記しています。おりしも、私が住んでいる知多市にある佐布里池という人工池が、池の水を抜くプロジェクトをやっています。「池の水全部抜く大作戦」というテレビ番組でも取り上げられていました。湖岸の耐震工事のためだということでしたが、名古屋ドーム13個分の広さがある池の水が全部抜かれるということで、ちょっとした話題になりました。これは奇跡でも何でもありませんが、普段は誰も見ることができなかった水の底が見える、というのは、なんとなくヨルダン川の川底が見えたことに通じるものがあるような気がします。指導者ヨシュアは、川底の石を記念に取っておくようにと命じるのですが、私も佐布里池の底の石を取っておけば、また水が戻ったらいい記念になるかなぁなどと同じような気持ちになったりしました。

2.恵みを振り返り、信仰の思い出を伝える使命

・未来の神の家族のため、12の川底石を担いでくる

ということで、これがヨシュアの「恵みを振り返る」ための具体的な方法でした。彼は民全員が渡り切ったのを確認すると、12の部族に1人ずつ、全部で12人の代表を選び出し、ヨルダン川の真ん中から一つずつ石を取って、宿営地に持って帰るよう命じました。ヨルダン川の真ん中に、その地面にあった石。川が流れている間は決して触れることができなかった石。見た目は、何の変哲もないただの石ですが、しかし、ヨルダン川を横切るという奇跡を体験した一人一人にとっては特別な意味を持つ石となりました。5節を見ると、ヨシュアの言葉で「各自が石を一つ、その肩に担ぎなさい」と言われていて、この石は男が背負うような、結構大きなものだったのかもしれないと想像します。

ところで、ヨシュアはこの川底の石をどうしようと思ったのでしょうか。12個集めて、自分の部屋に並べて、人に自慢するために取っておこうと思ったのでしょうか。そうではありません。ヨシュアは、いつでも教会の家族のこと、彼らの信仰のこと、そして将来のことを考える指導者でした。決してただ自分の思い出の品とかコレクションにしようと思ったのではありません。

彼の目は、未来の神の家族のことを見据えていました。6~7節「それがあなたがたの中で、しるしとなるようにするためだ。後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、あなたがたは彼らにこう言いなさい。『ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせき止められたのだ。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水はせき止められた。この石はイスラエルの子らにとって永久に記念となるのだ。』」

・信仰継承は自然に起きることではない、だから伝える必要がある

信仰を受け継ぐという出来事は、自然に起きることではありません。この悲しくも厳然とした事実をきちんと知っておくことは大切なことです。イスラエルの民は、あの偉大な指導者モーセとともにたくさんの奇跡を経験してきました。だから、きっと彼らの信仰は先祖代々揺らがなかっただろう、とそんな淡い期待はことごとく裏切られるからです。出エジプト以来、このイスラエルの民は、何度も神を捨て、指導者を裏切り、互いに喧嘩し、つぶやきを繰り返し、不平不満で暴れまわってきたからです。素晴らしい信仰体験をしたんだから、あの人の信仰も素晴らしいだろう、などという考えは木っ端みじんに打ち砕かれるべきです。海が二つに分かれても、岩から水が噴き出しても、天からパンが降って来ても、まして川が上流でせき止められても、人間というのは神様を忘れます。神様を侮ります。聖書を読まず、み言葉に従わず、感謝を忘れ、互いに言い争い、分裂し、道を踏み外します。本人でさえそうなのです。ましてや次の世代にも、何もしないで自然に信仰が受け継がれるなどということはありません。このことは何千年の神の民の歴史が何度も何度も証明してきたことです。

私たちは、自分の信仰は大丈夫とか、私の子どもたちは大丈夫などと、たかをくくることは出来ません。信仰者の歩みを砕こうとするサタンの方が、人間よりも策略にたけています。実際、私たちの心は、神様のことばよりも、自分の欲望や不平不満や妬み嫉み憎しみ悲しみのほうになびきやすいのです。ヨシュアは、そういう心の弱さ、優柔不断さ、頼りなさ、信仰の軟弱さを、決して甘く見ない、実に良い指導者でした。ヨルダン川を横切った、この奇跡体験者たちであっても、その記憶はすぐに薄れていく。ましてや次の世代となれば速やかに信仰は弱くなる。ヨシュアには、そういう悲しいけれども現実的な確信がありました。だから、ヨシュアは次に生まれてくる者たちのための、信仰の準備をしました。なるようになれではなく、自分がどんなに神様に助けられ、守られ、支えられたのかを、具体的に見える形で次の世代に残そうとしたのでした。それがこの川底の12の石でした。

・あなたの記念の石は?伝えるべき信仰の思い出は?

皆さんの子どもは、あるいは皆さんの周りにいる人たちは、あなたの生きざまからどんな印象を受け取っているでしょうか。子どもたちや周りの人から「これは何?」と聞かれて、「これはね、神様が私にこんなすごいことをしてくれた思い出の品なんだよ」そんなふうに、繰り返し話して聞かせられるようなものを、なにか持っていますでしょうか。あなたの信仰が、目に見えて説明できるような、そんな思い出の品。そういうものを、誰かに伝えるために持っていますか?

それは別に、特別なものでなくてもいいのです。洗礼を受けた時の写真一枚と、救われたみ言葉と、その時の自分の思いを誠実に語る準備さえあれば、それで充分です。でもそれが、きちんと伝わる言葉で語れるように、準備しておく必要はあると思います。というか、一度話したくらいではほとんど何も伝わりませんので、何度も伝える必要があります。実際、何度も伝えたって伝わらないことのほうが多いのです。ですから、もう伝えられないという日が来る前に、何度も何度も、飽きるくらいに自分の信仰の歩みについては伝えておくべきです。本当に、もう伝えられない日というが、すぐにやってきますから。

また、教会の記念誌も、そのような恵みを語り継ぐ記念の石となるのではないでしょうか。ぜひ、作って終わりでなく、それを一緒に読みあって、感想を分かち合って、思い出を新たにされると良いと思います。

・何度も何度も語ること、「もう伝えられない」という日が来る前に

人の気持ちは、きちんと伝えなければ分からないというのはよく言われます。しかし、もう一度言いますが、実際には、伝えていても伝わっていない、わかっていないことの方が多いのです。分かったつもり、伝えたつもり、でも十分にはわかっていない、十分には伝わっていないと言うことの方が多いのです。親が言った言葉の意味を、本当に、十分に子どもが理解するなんて、一体いつなんでしょうか。伝えるほうも、伝えられる方にも、時間が必要、成長と成熟が必要です。

イスラエルの民は、ヨルダン川の12の石を囲みながら、親子で何度も何度もこの思い出を語り継いでいった事でしょう。そういう取り組みが必要なのです。そういう経験、そういう時間が必要なのです。

伝えること、示すこと、教えること、受け継いでいくことは、先に救われた者たちの当然の使命です。伝える工夫をすることは、すべてのクリスチャンの使命なのです。その結果、子どもたちが受け継いでいくか、自分の信仰を持つようになるかは、主の御手の中のことです。しかし、もし伝えないなら、伝わるように工夫と努力を重ねないなら、それは伝えなかったものにも責任が残ります。

わざわざ重たい石を12個も運ばせたヨシュア。そのように、伝える工夫、伝え続ける努力には、苦労が伴います。しかも、伝えたところで、素直に受け入れてくれるとは限りません。でも、伝えなくてはいけません。伝えないのに、信じることは出来ないからです。

伝えられた子どもたちは、すぐにはその言葉の意味を理解できないかもしれません。しかし、時を経て、伝えてもらった言葉の意味をたどり、探し、いつの日か自分の人生の中に真理を見出すようになるかもしれないのです。でも、伝えられなかった言葉は、そもそも思い出すこともできません。ですから、あなたの信仰を、ちゃんと話して伝えてあげてください。どうして救われたのか。何を経験したのか。何を感じたのか。神様との歩みは、どんな歩みだったのか。よかった経験も、悲しかった経験も、子供の成長とともに、少しずつ、誠実に伝えてください。そして、一度でなく、繰り返し話してあげてください。親から信仰の話しをたくさん聞かせてもらったという思い出が、将来、子どもたちを待ち受けている様々な誘惑から彼らを守ってくれるからです。皆さんがどうか知りませんが、少なくとも、私にとってはそうでした。親が分かち合ってくれた信仰の話しが、今の私を助け、守り、導いてくれています。どんな試練や誘惑にあっても、忍耐強く愛情深く道を外さずに歩むよう、励ましてくれています。

3.信仰のレッスンから、良いものを学びつくそうとする態度

さて、契約の箱を担ぐ祭司たちが、皆の最後に、川から上がってきました。するとその時、すなわち彼らの足の裏がかわいた地に上がったその時、ヨルダン川の水はあっというまにもとの状態へと戻りました。水は岸いっぱいになりました。まるでダムの放水のように、せき止められた川の水が一気に解放されたのでした。

そして、ヨルダン川を無事渡り終えたヨシュアたちは、ギルガルの町に宿営して、12の石をそこに据えました。ヨシュアはもう一度、子どもたちに信仰の経験を語り継いでいくように促して、こういいました。23~24節「あなたがたの神、主が、あなたがたが渡り終えるまで、あなたがたのためにヨルダン川の水を涸らしてくださったからだ。このことは、あなたがたの神、主が葦の海になさったこと、すなわち、私たちが渡り終えるまで、私たちのためにその海を涸らしてくださったのと同じである。それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。」

ヨシュアの、こういう信仰の視点を見習いたいと思います。彼は経験した試練を通して、学ぶべきものを全部学ぼうとする人、そしてそれを無駄にしないようにする人でした。大勢のイスラエルの民とともに、ヨルダン川横切っていく。この大試練を何とか乗り切ったヨシュア。乗り切ったのは良いこと、立派なこと。でも安心安心で、安心して終わってしまわないところがヨシュアの偉いところです。試練が過ぎ去れば後はもう全部忘れてしまう、とならない。この信仰のレッスンで学んだことをしっかり記憶し、思い出し、みんなで語り合いながら、その恵みを何度も思い起こそうとするのでした。そうしなければ私たちは神様の恵みをすぐに忘れるから。神様の偉大な力をすぐに忘れるからです。自分が経験したことを、まだ神様を知らない人たちに伝えていくこと。それによって語る方も聞く方も、「主が良くしてくださったことを何一つ忘れない」で、心に刻んで生きていけるからです。

むすび.恵みを語り継ぐことで、次の世代を守ってあげられる

 はじめに、私の家の近所の佐布里池の話しをしました。最初のころは話題にもなって見物人の車がたくさん止まっていることもありましたが、数か月たった今はもういつもの様子です。水が抜かれた水の底には、今や雑草が生え始めていました。地面もかつてそこに水があったことを忘れ、人も干上がった池の様子にすっかりなじんでしまったかのようです。そんなことを思うとこの川底から担ぎ出した12の石は必須でした。12の石がなければ、どうして彼らが忘れないでいられたでしょうか。

 今日、ヨシュアが「子どもたちに聞かれたら、教えなければならない」と、これを「命令したこと」に、十分心を留めたいと思います。信仰の恵みの経験は、語られる必要があります。語られなかった思い出は、すみやかに忘れられていきます。伝えられなかった記憶は、まるでなかったかのように消えていくのです。あなたが神様とともに経験したことを、もし子供に伝えなかったなら、その子がまた同じ過ちを犯すかもしれません。信仰の思い出は、伝えられることで次の世代を守り、育て、励ますことができるのです。あなたの救われた思い出、あなたが神様とともに経験した思い出は、どれもあなたのためだけのものではありません。あなたの隣りの人、あなたの次の世代の人のために、「伝えられなければならない」思い出です。そして、伝えることによってはじめて、あなた自身もその思い出から良いものを受け取ることもあるのです。ヨシュアたちは、今、恵みを振り返り、恵みを伝えていく、その歩みを始めようと決意したのです。

 皆さんが語るべき自分の信仰の思い出は何でしょうか。皆さんにとっての川底の石は、なんでしょうか。あなたは、それを誰に、どんな風に語ることができるでしょうか。どうか、その取り組みは決して無駄にはならないことを知っていてください。

「それは、地のあらゆる民が主の手が強いことを知るためであり、あなたがたがいつも、自分たちの神、主を恐れるためである。」

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