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70周年記念(4)「わたしを愛していますか」ヨハネ21:15~17

この箇所は復活後のイエス様がペテロとやり取りされた有名な箇所です。ペテロは十字架前夜にイエス様を 3 回知らないと言いました。たとえ他の者がつまずいても私だけは大丈夫です!と豪語した上で、彼は見事に倒れてしまいました。このような人は、この世の考え方で行けば捨てられてしまうと思います。信用ならない人とのレッテルを貼られて、日の当たらない人生を行くしかない。ところがそのペテロがイエス様の使徒として公に回復されます。この記事はイエス様と私たちの関係において大事なことは何か、イエス様と私たち教会の関係はどうあるべきかについて、大切なことを教えてくれていると思います。 3 つのポイントで見て行きたいと思います。  一つ目に注目したいことは、イエス様がペテロに問うたただ一つのことは「イエス様に対する愛」であったということです。イエス様はペテロの能力はどうかと問うていません。二度と同じ失敗は繰り返さないか?そのことを約束するか?とも問いません。イエス様が問うたただ一つの質問は「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛していますか。」 この問いによってイエス様はご自身に従う者にとって最も大事なことは愛であるということをお示しになりました。  私たちの毎日の信仰生活は主への愛によって導かれているでしょうか。振り返ると、そうでない様々な動機によって歩んだり、奉仕したりしていることがあるのではないかと思わされます。たとえば一つは「他の人から認められたい」という動機です。あの人、この人から素晴らしいと言われたい。尊敬されたい。好意を持ってもらいたい。関心の中心にあるのは人からどう評価されるか。またある人は「義務感」から行動しているかもしれません。他にこれをやる人がいない。あるいは長老や執事の立場にあるからする。また「恐れる気持ち」からすることもあるかと思います。このように頑張らないと主からの祝福をいただけないかも。何か悪い結果が生じるかも。さばきに日に最低限の言い訳ができるようにこれくらいのことはやっておかなくては・・・? 等々。しかし聖書は、私たちのすることに価値を与えるのは、そこに愛があるかどうかであると語ります。Ⅰコリント 13 章 1 ~ 3 節:「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバル

世界宣教礼拝「世界宣教~送り出す教会~」使徒13:1~3,14:26~28

聖書の中には様々な教会の姿が記録されています。それぞれ特徴があり、それぞれに弱さや強さがあります。中には残念な状態、反面教師となる姿を晒す教会もありますが、目標となる姿、憧れの教会も多く出て来ます。麗しい共同体を築いたエルサレム教会。極度の貧しさの中でも惜しみなくささげたピリピ教会。熱心に聖書を調べたベレヤ教会。世界宣教に取り組んだアンティオキア教会。助け合うこと、ささげること、聖書を読み続けること、宣教すること。どれも教会にとって大事なことですが、今日は世界宣教に取り組んだアンティオキア教会に注目いたします。この教会の姿から、教会とはどのようなものなのか。神様は教会にどのような役割を与えておられるのか。私たちは教会として、どのように生きていくのか。今一度確認したいと思います。  イエス様の生涯が記された福音書。それぞれ最後に十字架の死と復活を記録しますが、その後でイエス様が弟子たちに命じた言葉が記録されています。大宣教命令と呼ばれるもので、表現は異なりますが四つの福音書に記録されています。(マタイ28:19~20、マルコ16:15、ルカ24:46~49、ヨハネ20:21) 罪人を救う働きは、十字架の死と、死からの復活によって成し遂げられたイエス様は、その福音を宣べ伝える働きは弟子たちに託された。聖書を読み、イエスこそ約束の救い主であると信じる者は、その救い主を宣べ伝えるようにというのが、四つの福音書の共通した主張となっています。  大宣教命令で閉じられる福音書。その後、弟子たちはどうしたのか。それは使徒の働きに記録されます。そして使徒の働きの冒頭には、もう一度大宣教命令が記録されていました。 使徒の働きは大宣教命令から始まる書。  使徒1章8節 「 しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。 」  使徒の働きにおいて、この言葉は鍵となる聖句です。このイエス様の約束が実現する。このイエス様の命令に弟子たちが従う。その結果何が起こったのか、というのがこの書の内容です。その記された順番も、 「聖霊が臨む記録」、「エルサレムでの出来事」、「ユダヤとサマリアの全土での出来事」、

Ⅰコリント(21)「信頼しているのは自分か、神か」Ⅰコリント10:1~13

皆様はイソップ物語に、オリーブの木と葦と言うお話があるのをご存知でしょうか。こんなお話です。「オリーブの木と葦が、口論していました。どちらがしんぼう強くて、力があって、しっかりしているかで、言い争っているのです。オリーブの木は、葦に向かってこう言いました。 『お前なんか、へなへなで、てんで意気地なしさ。ちょっと風が吹けばすぐにおじぎをして、まいったと言うじゃないか』葦はだまったきり、何も言い返しません。そこへ、まもなく強い風が吹いてきました。ビュー、ビューと、吹きまくる風の中、葦はさんざんにゆさぶられ、おじぎをさせられましたが、無事に切り抜けました。ところがオリーブの木は、風に刃向かって頑張っているうちに、ポキリ!と、折れてしまいました。」 限界をわきまえず、人を見下す者、自分を過信して生きる者は、必ず倒れる。だから、自分の限界をわきまえ、弱点を知って生きよと教えるお話でした。今朝私たちは、このお話を頭の隅に入れて置きながら、コリント人への手紙第一第 10 章を読み進めてゆけたらと思います。 ところで使徒パウロによって書かれたこの手紙は、「本当に、これがキリスト教会なのか」と思われる程乱れ切った教会の実態を明らかにし、私たちを驚かせてきました。知恵を誇る者の高慢。争いと仲間割れ。自分の母と通じていた者、遊女の元に通う者など、目を覆いたくなる不品行。さらに、奴隷の兄弟を見下したり、独身者ややもめを低く見る差別等、当時コリントの町をおおっていた悪しき風俗、習慣、価値観がそのまま教会にも持ち込まれていたのです。 この有様を耳にし、パウロが心を痛めなかったはずがありません。何故なら、パウロこそこの教会の生みの親でした。愛する子とも言うべき教会が抱えていた一つ一つの問題に対し、使徒が処方箋として書き送った手紙。それがコリント人への手紙です。 さて、今朝読み進める 10 章は 8 章からの続きで、偶像にささげた肉の問題を扱っています。偶像にささげた肉の問題とは何だったのか。当時ギリシャの町には、日本と同じく偶像が溢れていました。太陽の神、月の神を始めとして、自然の中に多くの神々が存在すると信じられていた社会です。この様な社会に、この世界の造り主、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれるのは、当然のことだったでしょう。

信仰の勇気(5)「~生きた信仰~」ヤコブ2:14~19

イエス・キリストを信じた者は、その生き方がどうなるのか。変わるのか、変わらないのか。変わるとして、どのように変わるでしょうか。皆様は、キリストを信じる前と後で、生き方が変わったでしょうか。  キリスト教は恵みの宗教と言われます。神様の愛を得るのに、しなければならないことはない。何か出来るから救われるのでもない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。とはいえ自堕落な宗教、放縦な宗教なのかと言えば、そうではありません。どのように生きたとしても、キリストによる救いがあるのだから、好き勝手に生きれば良いとは教えられていません。キリストを信じる者の生き方、神の子、神の民らしい生き方についても、聖書は多く記しています。  宗教とは心の問題、頭の中だけのことと考える人もいますが、聖書はそうは言いません。信仰はその人の心の問題を扱うだけでなく、その人の生き方を変え、その人を通して世界も変えていくと教えています。  信じることと、生き方の問題。信仰と行いは、どのような関係があるのか。自分自身の信仰者としての生き方、信仰者としての行いはどのような状態なのか。皆で確認していきたいと思います。  開きます聖書箇所は、ヤコブの手紙。 イエス様の肉の兄弟、ヤコブが記したと目される書です。 イエス様の弟たちは、もともと兄であるイエスが約束の救い主とは信じていませんでした。(ヨハネ7章5節)しかし、ある時点で兄のイエスはキリストであると信じ、やがてエルサレム教会で指導的な役割を担うようになります。聖書には記されていませんが、伝承ではよく祈る人と言われています。石畳に膝をついて祈るため、ヤコブの膝は節くれだち、ラクダのようになっていたと言います。ラクダ足のヤコブ。  この手紙の中心的なテーマは次の節にまとめられていると考えられています。  ヤコブ1章22節 「 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。 」  神の言葉を聞いて、聖書を読んで、信じたとしても、それで終わりとならないように。みことば信じて終わりではない、みことばを行う人になるように。キリストを信じる者は、どのように生きるのか。その生き方、行いに注目が向いている書です。 教理的とい