世界宣教礼拝「世界宣教~送り出す教会~」使徒13:1~3,14:26~28


聖書の中には様々な教会の姿が記録されています。それぞれ特徴があり、それぞれに弱さや強さがあります。中には残念な状態、反面教師となる姿を晒す教会もありますが、目標となる姿、憧れの教会も多く出て来ます。麗しい共同体を築いたエルサレム教会。極度の貧しさの中でも惜しみなくささげたピリピ教会。熱心に聖書を調べたベレヤ教会。世界宣教に取り組んだアンティオキア教会。助け合うこと、ささげること、聖書を読み続けること、宣教すること。どれも教会にとって大事なことですが、今日は世界宣教に取り組んだアンティオキア教会に注目いたします。この教会の姿から、教会とはどのようなものなのか。神様は教会にどのような役割を与えておられるのか。私たちは教会として、どのように生きていくのか。今一度確認したいと思います。


 イエス様の生涯が記された福音書。それぞれ最後に十字架の死と復活を記録しますが、その後でイエス様が弟子たちに命じた言葉が記録されています。大宣教命令と呼ばれるもので、表現は異なりますが四つの福音書に記録されています。(マタイ28:19~20、マルコ16:15、ルカ24:46~49、ヨハネ20:21)

罪人を救う働きは、十字架の死と、死からの復活によって成し遂げられたイエス様は、その福音を宣べ伝える働きは弟子たちに託された。聖書を読み、イエスこそ約束の救い主であると信じる者は、その救い主を宣べ伝えるようにというのが、四つの福音書の共通した主張となっています。

 大宣教命令で閉じられる福音書。その後、弟子たちはどうしたのか。それは使徒の働きに記録されます。そして使徒の働きの冒頭には、もう一度大宣教命令が記録されていました。使徒の働きは大宣教命令から始まる書。

 使徒1章8節

しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。


 使徒の働きにおいて、この言葉は鍵となる聖句です。このイエス様の約束が実現する。このイエス様の命令に弟子たちが従う。その結果何が起こったのか、というのがこの書の内容です。その記された順番も、「聖霊が臨む記録」、「エルサレムでの出来事」、「ユダヤとサマリアの全土での出来事」、「地の果てへ向けての出来事」、となっています。1章8節は、テーマを示すと同時に、目次としての意味もあります。

 ところでイエス様は最初から「地の果てまで、わたしの証人となります」と言われていました。限られた地域、限られた人にだけ福音を宣べ伝えるのではない。地の果てまで、全ての人に福音を宣べ伝えるように命じています。しかし、弟子たちは最初から地の果てを目指したわけではありませんでした。「エルサレム」で、それも基本的にはユダヤ人に宣教しました。地の果てを目指す、世界宣教を目指すのに、「備え」が必要でした。

 どのような「備え」が必要だったのか。三つ挙げられます。「確信」と「人」と「教会」の三つです。


 使徒の働きの前半、「エルサレムでの出来事」、「ユダヤとサマリアの全土での出来事」の段階では、弟子たちは基本的に異邦人には宣教しませんでした。使徒たちにとってもユダヤ人以外に宣教して良いのか、定かではありませんでした。イエス様は「あらゆる国の人々に福音を宣べ伝えなさい。」(マタイ28章19節)、「地の果てにまで、私の証人となります。」と言われ、明確に全ての人に福音を宣べ伝えるように命じています。それでも、弟子たちはまだ、異邦人に宣教することに取り組めていなかったのです。

この状況が大きく変わるきっかけとなる出来事が、使徒の働き十章に記録されています。コルネリウス事件です。ペテロが幻を通して教えられ、異邦人のコルネリウスという人のもとに導かれ、その証を聞き、神様は異邦人にも救いをもたらしていると確信することになります。

使徒10章34節~36節

そこで、ペテロは口を開いてこう言った。『これで私は、はっきり分かりました。神はえこひいきをする方ではなく、どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人は、神に受け入れられます。神は、イスラエルの子らにみことばを送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えられました。このイエス・キリストはすべての人の主です。』


 ペテロが異邦人コルネリウスに福音を宣べ伝え、洗礼を授け、交わりを持った。このことは、当初、エルサレムの教会で問題視されます。そんなことをして良いのか。いや、良くないだろうという非難です。

 使徒11章1節~3節

さて、使徒たちとユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のことばを受け入れたことを耳にした。そこで、ペテロがエルサレムに上って来たとき、割礼を受けている者たちが、彼を非難して、『あなたは割礼を受けていない者たちのところに行って、彼らと一緒に食事をした』と言った。


 非難を受けたペテロ。とはいえ、間違ったことをしたとは思わないペテロは、自分が経験したことを説明します。弟子たちの中でも大きな役割を担うペテロが、コルネリウスの救いの場面を目撃したということが、他の人々にとっても大事なこと。教会もペテロの報告を受けて、非常に重要な確信を抱くことになります。

 使徒11章18節

人々はこれを聞いて沈黙した。そして『それでは神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ』と言って、神をほめたたえた。


 キリストを信じる者たちが、世界宣教へ踏み出す上で、必要な備えの一つは、この「確信」です。神様は何をしようとされているのか。神様は何を願っておられるのか。神様は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになった。神様は全ての人が福音を聞くことを望んでおられる。世界宣教に取り組む上で、この確信が極めて重要でした。


 地の果てを目指す、世界宣教を目指す「備え」。二つ目は「人」でした。使徒の働きにおいて、世界宣教に取り組む重要な人物はパウロです。(使徒の働き十三章章まではサウロと表記されます。当時、一人の人が、二つ以上の名前を持つことはよくあることでした。サウロはユダヤ名。パウロはローマ名です。また聖書には記録されていない世界宣教に取り組んだ人物もいたと思われます。)

パウロは当時のユダヤの社会では大変なエリート。ローマの市民権を持ち、著名な人物のもとで学びを積み、影響力のある地位に就いていた人。当初は、キリスト者を迫害し、何人も牢に入れ、殺しました。ところが、イエス様こそ約束の救い主であると信じてからは、イエス・キリストを伝える急先鋒となる。激動の人生を送った人物。

 神様が、パウロについて語っている重要な箇所があります。

 使徒9章15節~16節

しかし、主はアナニアに言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。』


 異邦人、王、イスラエルの子らに主の名を運ぶ。つまり、あらゆる人にキリストを宣べ伝える働きをする。しかも、そのために大変な苦しみを味わうと言われたのがパウロでした。

キリストを信じる全ての人が、キリストの証人です。それぞれ、福音を宣べ伝える働きにつきます。しかし神様は、自分の住む場所を離れ、生活圏の異なる地域にて福音を宣べ伝える働きをする者を召されることがある。パウロは、地の果てにまで福音を宣べ伝える器として選ばれた人。

パウロ自身、ペテロと比較して自分の役割を次のように言っています。

ガラテヤ2章7節~8節

ペテロが割礼を受けている者への福音を委ねられているように、私は割礼を受けていない者への福音を委ねられていることを理解してくれました。ペテロに働きかけて、割礼を受けている者への使徒とされた方が、私にも働きかけて、異邦人への使徒としてくださったからでした。


 パウロは自分の役割を「割礼を受けていない者へ福音を伝える者」「異邦人への使徒」と受けています。それではパウロは、異邦人にしか福音を宣べ伝えなかったのかと言えば、そうではありません。多くのユダヤ人にも福音を宣べ伝えています。しかし、自分の主な働きは異邦人に福音を宣べ伝えることだと受け止めているのです。

 世界宣教が果たされるためには、このような「人」も必要でした。福音を宣べ伝えるために、自分の住む場所を離れ、異なる文化圏に入る人。その役割を神様から与えられる人物です。


地の果てを目指す、世界宣教を目指す「備え」。三つ目は「教会」です。

 パウロという世界宣教に取り組む人が備えられ、当時のキリスト者たちは世界宣教が神様の御心であると確信しました。これで地の果てまで福音を宣べ伝える働きが開始されるのではないかと思うのですが、そうではなかった。「確信」が与えられ、「人」が備えられても、まだ世界宣教は始まりません。その「人」を送り出す「教会」が必要であるというのが、聖書の教えるところです。

 使徒13章1節~3節

さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が『さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい』と言われた。そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。


 私たちにとって「アンティオキア」という地名はあまり馴染みがないものですが、新約聖書の時代、非常に有名な都市、大都市でした。

(ローマの支配する地域には十六もの「アンティオキア」と名がついた都市がありました。今日、私たちが注目するのはシリアのアンティオキア。いくつもある「アンティオキア」の中でも最も有名な都市。現在はトルコの都市です。)

ローマ帝国内において、ローマ、アレキサンドリアに次いで、第三の都市に数えられ、人口は五十万人にも上ったと推定されます。シルクロードの出発点と知られ、遠く中国まで続く交易の要所。ユダヤ人も多くいましたが、人が行き交い、いくつもの文化が集まる国際都市。


 この大都市に建てられた教会がアンティオキア教会。使徒の働きには、この教会に属する五人の名前が記録されています。

筆頭はバルナバ。本名はヨセフですが、慰めの子を意味するバルナバというニックネームの方が有名な人物。このバルナバが、アンティオキア教会にパウロを連れてきた人です。二人目がニゲルと呼ばれるシメオン。ニゲルとは「黒」という意味。「黒さん」と呼ばれた人。黒人だったと思われます。クレネ人のすぐ前に名前が出てくることから、このシメオンもクレネ人であると考えられており、クレネ人シメオン(シモン)と言えば、イエス様の十字架を担いだ人物と見る人もいます。三番目がルキオ。このルキオは使徒の働きを記したルカであるという見方があり、古い写本の中には、そのように受け取っているものもあります。四番目はマナエン。領主ヘロデの乳兄弟と紹介されていますが、政治的支配者に近い人物であることが分かります。ルカの文書に特有のヘロデに関する記事は、このマナエンが情報源だったのかもしれません。五番目がパウロ。世界宣教のために召された人物。

大都市アンティオキアは、様々な文化を持つ者たちが集まりやすい場所。教会の中にも、様々な背景を持つ者たちが集まっていました。神様はこの教会に、バルナバとパウロを集め、礼拝を通して教会に命じます。聖霊を通して語られたのは「バルナバとサウロを、わたしが召した働きに就かせるように。」この言葉で、それが地の果てへ向けての宣教であると理解出来たということは、パウロは自分の召しについて、教会に説明していたのでしょう。

パウロはアンティオキア教会に合流する前に、異邦人へ福音を伝える者として召されていました。しかし、すぐには伝道旅行には行きませんでした。神様は、パウロをアンティキア教会へ導き、教会にパウロを送るように命じるのです。世界宣教は教会の働きでした。教会とは、世界宣教に召された者を送り出す使命があることを示す重要な記事となります。


 アンティオキア教会から送り出されたバルナバとパウロ。この時の伝道旅行の様子は、十三章、十四章に記録されます。大成功と思える地域もあれば、大変な苦境に会う地域もある。途中、パウロは死ぬほどの迫害にも会います。手に汗握る大伝道旅行。

 ところで、この時のパウロ一行はどこを目指していたのでしょうか。地の果てを目指すとして、それはどこなのでしょうか。パウロたちは、最終的にどこをゴールとしたのか。

 使徒14章26節~28節

そこから船出してアンティオキアに帰った。そこは、二人が今回成し終えた働きのために、神の恵みにゆだねられて送り出された所であった。そこに着くと、彼らは教会の人々を集め、神が自分たちとともに行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そして二人は、しばらくの間、弟子たちとともに過ごした。


 地の果てを目指すと言っても、旅に出て終わりではない。伝道旅行のゴールは、自分たちを送り出した教会でした。何故でしょうか。それはパウロたちが、世界宣教は教会の働きであり、この旅を通して行われたことは、教会に報告すべき、教会で分かち合われるべきものと考えていたからです。世界宣教は教会の働きなのです。

 ここに教会の一つの姿が出て来ます。世界宣教の担い手を送り出す。送り出すというのは、一度送ったらそれで終わりというのではなりません。送り出した者たちの働きを、自分たちの働きとする。送り出す者たちのために祈り、支え、励まし、その報告を聞く。これが教会でした。私たちは、この送り出すということについて、どれだけ真剣に考えてきたでしょうか。


 天に昇られる前、イエス様が語られた約束。地の果てにまでキリストの証人となるというのは、このように「確信」と「人」と「教会」が備えられて、実現へと進みました。

 私たちも真剣に世界宣教について考えたいと思います。神様は、私たちに世界宣教を命じているのか。自分はどのような役割が与えられているのか。世界宣教に召された者を、教会が送り出すとは、具体的にどのようなことなのか。聖書を読み、祈り、礼拝をささげ、断食を通して、真剣に向き合いたいと思います。

 先週、世界宣教礼拝を行いました。ジョセフ・コンドン宣教師の当面最後となる説教。この二年間は、ジョセフ先生ご夫妻にとって、日本で教会を建て上げる訓練の時期でした。しかし、よくよく考えてみますと、この二年間はジョセフ先生ご夫妻だけにとっての訓練の期間ではありません。同時に、私たちにとって、世界宣教に召された人を送り出す教会となる訓練の二年間でもあったのです。神様は、ジョセフ先生ご家族を四日市キリスト教会に送って下さり、私たちが送り出す教会になる機会を与えて下さったのです。

ジョセフ先生家族は一度アメリカに帰り、その後、東京で教会を建て上げることに取り組みます。いよいよ世界宣教へ打って出る。その時、私たちは送り出す教会でありたいと思います。ジョセフ先生ご家族が取り組む教会を建て上げる働きは、私たちの働きでもある。そのような使命と特権を頂いたことを、しっかりと受け止めたいと思います。

 そして、それはジョセフ先生ご家族に限ったことではありません。私たちの中から、新たに世界宣教の働きに召された者がおこされることを期待したいと思います。日本長老教会の中で、世界宣教のために労している人々もいます。私たち一同で、世界宣教は教会の働きであることを、しっかりと受け止めたいと思います。

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