信仰の勇気(5)「~生きた信仰~」ヤコブ2:14~19


イエス・キリストを信じた者は、その生き方がどうなるのか。変わるのか、変わらないのか。変わるとして、どのように変わるでしょうか。皆様は、キリストを信じる前と後で、生き方が変わったでしょうか。

 キリスト教は恵みの宗教と言われます。神様の愛を得るのに、しなければならないことはない。何か出来るから救われるのでもない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。とはいえ自堕落な宗教、放縦な宗教なのかと言えば、そうではありません。どのように生きたとしても、キリストによる救いがあるのだから、好き勝手に生きれば良いとは教えられていません。キリストを信じる者の生き方、神の子、神の民らしい生き方についても、聖書は多く記しています。

 宗教とは心の問題、頭の中だけのことと考える人もいますが、聖書はそうは言いません。信仰はその人の心の問題を扱うだけでなく、その人の生き方を変え、その人を通して世界も変えていくと教えています。

 信じることと、生き方の問題。信仰と行いは、どのような関係があるのか。自分自身の信仰者としての生き方、信仰者としての行いはどのような状態なのか。皆で確認していきたいと思います。


 開きます聖書箇所は、ヤコブの手紙。イエス様の肉の兄弟、ヤコブが記したと目される書です。イエス様の弟たちは、もともと兄であるイエスが約束の救い主とは信じていませんでした。(ヨハネ7章5節)しかし、ある時点で兄のイエスはキリストであると信じ、やがてエルサレム教会で指導的な役割を担うようになります。聖書には記されていませんが、伝承ではよく祈る人と言われています。石畳に膝をついて祈るため、ヤコブの膝は節くれだち、ラクダのようになっていたと言います。ラクダ足のヤコブ。

 この手紙の中心的なテーマは次の節にまとめられていると考えられています。

 ヤコブ1章22節

みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。


 神の言葉を聞いて、聖書を読んで、信じたとしても、それで終わりとならないように。みことば信じて終わりではない、みことばを行う人になるように。キリストを信じる者は、どのように生きるのか。その生き方、行いに注目が向いている書です。教理的というより実践的、抽象的ではなく具体的な内容が多く記される書。

 一章で苦難、試練にあっても耐えるようにと勧めたヤコブは、二章に入り、キリストを信じる者にふさわしい生き方、その行いに焦点を当てていきます。二章の冒頭は次のようなものです。

ヤコブ2章1節~4節

私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、『あなたはこちらの良い席にお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい』と言うなら、自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。


 富む人、社会的立場の強い人には敬意が払われ、貧しい人、社会的立場の弱い人には敬意が払われない。この世界では様々な場面で見受けられることだとしても、教会の中でそのようなことがあってはならない。キリストを信じる者が、そのように振る舞ってはならない。えこひいき、差別をしてはいけない。ヤコブ書らしい、抽象的ではなく具体的な記述です。具体的な描写がされているので、実際にエルサレム教会で、このような場面があったということなのかもしれません。私たちは、大丈夫でしょうか。経済力や社会的立場で、優劣をつけること、接し方に差別を設けていないでしょうか。


 ここでは「えこひいき」をしてはいけない、「差別」をしてはいけないと、禁止の教えで語られていますが、それでは積極的にはどのように生きたら良いのか。次のようにまとめられています。

 ヤコブ2章8節

もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。


 「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とは黄金律と呼ばれる教え。イエス様が聖書をまとめた教えと言い(マタイ7章12節)、ヤコブは最高の律法と言います。キリストを信じる者の行い、生き方とは何かと言えば、この言葉に集約される。えこひいきや差別というのは、この律法に反するもので、キリストを信じる者にふさわしくない。この戒め、黄金律を守るならば、その行いは立派なのだと確認されます。

 自分の信仰生活を振り返る時。皆様は何を基準に、充実している、足りていないと考えるでしょうか。礼拝出席、聖書を読むこと、祈ること、奉仕をすること、ささげること。信仰生活と言っても様々なことがありますが、ヤコブが掲げる基準は黄金律です。隣人を愛しているのか。毎週礼拝に出席し、日々聖書を読み祈り、精いっぱい奉仕に取り組み、喜んでささげる。そのようなことが、信仰者の行いと思いやすいですが、ここでヤコブが意識している行いとは、隣人への愛なのです。

 この点で問われるとしたら、私たちの信仰者としての行いはどうでしょうか。この一週間、隣人を自分自身のように愛する歩みを送ってきたでしょうか。


 ヤコブ書は信仰者の行いに焦点が当たっている書。行いの中でも、二章は特に、隣人を愛することに焦点が当てられている。この文脈の中で、今日の箇所が出て来ます。

 ヤコブ2章14節

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。


 ここに出てくる「行い」は、隣人への愛のことでしょう。キリストを信じていると言いながら、隣人を愛さないとするなら、その信仰は役に立たない。それも、救いに関して役に立たないと言われるのです。「え?」と思います。ドキッとします。

皆様はこの言葉をどのような意味として受け止めるでしょうか。自分の力で隣人を愛することが出来ない、黄金律に従うことが出来ないから、私たちはキリストを信じたのです。しかしヤコブは、行いの伴わない信仰は、その人を救うことが出来ないと言っています。

「キリスト教は恵みの宗教。救いに必要なのは信仰のみ。行いによって救われることはない。」というのは間違いなのでしょうか。救いには行いが必要ということでしょうか。信じるだけで救われることはないという主張なのでしょうか。


ここでヤコブが言いたいことは何なのか。次の言葉でより詳しく表現されていると思います。

 ヤコブ2章15節~17節

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい』と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。


 ここでもまた具体例が挙げられています。着る物や食事にも欠く人に対して、どれ程優しい言葉をかけたとして、実際に助けることがなければ、一体何の役に立つのか。何の助けにもならない。当たり前のこと、当然のことです。

 「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい。」一般的に言えば、優しい言葉、祝福の言葉です。しかし着る物がなく、食べる物がない人に向かって、助けもしないでこの言葉を言うのは、優しいどころか冷酷、残酷です。着る物も食べ物もない状態で、この言葉をかけられた、どのように思うのか。言葉自体は優しい。しかし、実際にはこれ以上ないほど、冷酷で残酷。ヤコブは行いのない信仰というのは、ここに示されている問題を抱えていると言います。これと同じように、信仰も行いが伴わないと死んでいる、と言うのです。


 「死」とは、何でしょうか。聖書で「死」というのは「分離する」こと、その結果「本来の状態ではなくなる」ことを意味します。

肉体の死は、肉体と霊が分離すること。罪を犯す前の人間(もともと死なない存在として造られた人間)からすると、肉体と霊が分離するというのは、本来の状態ではありません。霊的な死とは、神様と人間の関係が分離した状態。もともと神様とともに生きる存在として造られた人間からすると、神様と人間の関係が分離するとは、本来の状態ではありません。

信仰も行いが伴わないと、死んでいる。それはつまり、本来、信仰というのは隣人を愛するという行いが伴うもの。隣人に対する愛、黄金律に沿った行き方は、キリストを信じることと切り離せないと言っているのです。ここが極めて重要な部分です。キリストを信じる者は、信じて終わりではない。必ずや隣人を愛するようになるというのが、ヤコブが言いたいことです。


 先に見た十四節の言葉だけで考えると、ヤコブは救いに必要なのは信仰だけではない、行いが必要と言っているような気になります。しかし、ここまで読むと、ヤコブが言いたいのは、信仰と行いは切り離して考えることが出来ないということなのだと分かります。キリスト教は恵みの宗教というのは当然のこととして、自堕落な宗教、放縦な宗教ではないと言っているのです。


 ところでヤコブは、当然のこととしていて詳しく触れませんが、なぜ行いの伴わない信仰は死んだものなのでしょうか。なぜ信仰には隣人を愛することが伴うのでしょうか。

それは、キリストを信じるというのは、キリストと一つとなり、キリストの命を頂くことだからです。隣人への愛をこれ以上なく実践されたイエス様と一つとなる者は、隣人への愛を持たないはずがない。主イエスへの真実な信仰は、その者のうちに必ずや隣人への愛を生み出すのです。「キリストを信じる者は、キリストの命を頂く。キリストの命を頂いた者は隣人を愛する者へ変えられていく。」これを裏返して言えば、「行いのない信仰は死んだもの」なのです。


 ヤコブは続けて、生きた信仰がどのようなものか述べていきます。

 ヤコブ2章18節

しかし、『ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります』と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。


 当時の教会の中に「信仰も、行いも、神様が賜物として下さるもの。信仰は頂いて行いは頂いていない人。反対に信仰は弱くても行いに強い人もいる。信仰と行いは切り離して考えるべきではないか。」という意見の人もいたようです。分かる気がします。

 信仰を持ったら、すぐに隣人を愛せるようになるかと言えば、そうではありません。キリストの命を頂いても、自分に残る罪との戦いがあります。イエス様を信じながら、隣人を愛せない自分を許せないこと、自己嫌悪に陥ることもしばしば起こります。神様は信仰を下さったけれども、まだ隣人を愛することは頂いていない。行いを頂いたら取り組みますと考えたくなります。

 しかしヤコブはそのような考えを一刀両断します。確かに信仰も行いも神様が下さるもの。しかし、それは別々に与えられるものではなく、一つとして与えられるもの。信仰だけ与えられて、行いが与えられないということはない。信仰は与えられているけれども、行いは与えられていないと考えるのは、すでに与えられているものを見ていないことになる。


 信仰と行いは一つ。そのため、「行いによって、信仰を見せる」とまで言います。凄い言葉、大胆な言葉。自分の生き方を通して、キリストの命、キリストの愛を示す。そのように言いきるヤコブの強さを見ます。そして、もし信仰と行いを切り離せるというなら、それはキリストを信じていることにならないとダメ押しが響きます。

 ヤコブ2章19節

あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。


 信仰と行いを切り離して考えるとはどのようなことか。行いの伴わない信仰、隣人への愛が伴わない信仰、死んだ信仰とはどのようなものか。本来の信仰は、キリストと一つになること、キリストの命を頂くこと。そのため信仰を持つ者は、隣人を愛する者へ変えられていく。

 仮に、そうではない信仰があると言うならば、それは知識だけのもの。「神は唯一である」とは、完全に正しい神学的知識です。全く正しい教えを、悪霊どもも信じている。しかし、キリストと一つになるとか、キリストの命を頂くことはない。悪霊どもは、隣人を愛することなく、身震いしているのだといいます。信仰と行いを切り離して考えることはいかに危険なのか、教えられるところです。


 以上駆け足ですが、ヤコブ書より、信じることと、生き方の問題。信仰と行いは、どのような関係があるのか。確認してきました。

ヤコブの言葉の根底にあるのは、そもそも、信仰は行いが伴うもの。行いの伴わない信仰は死んでいる、本来の状態ではないというものです。その行いとは、隣人に対する愛、黄金律に従う行いでした。この視点に立って、自分の信仰生活を振り返りたいと思います。

隣人を愛することなど、全く出来ない。自分中心にしか生きることが出来ない。自分に益となる人とは仲良くしようとし、自分に損となる人とは関係を持たないようにする。黄金律とは程遠い生き方しか出来ない私が、主イエスを救い主と信じたらどうなるのか。御霊によりイエス様と一つにされ、イエス様の命を頂くものとなる。必ずや、隣人を愛する者へ変えられていく。

 この聖書の主張を、私たちは勇気をもって信じたいと思います。キリストを信じた私たち。キリストの命を頂いた私たち。しかし今もなお、罪の性質を帯びています。正しく隣人を愛せないことがあります。黄金律に従えないことがあります。しかし、だからと言って、信仰と行いを別のものとして考えるべきではありません。だからと言って、私たちが変わらないわけではありません。イエス様の命を頂いたものとして、真剣に隣人を愛することに取り組める。取り組んで良い。行いの伴う信仰、生きた信仰を持って、この一週間を生きるとしたら、私たちの生き方はどのようなものになるのか。真剣に考えたいと思います。


 最後に十字架にかかる直前、イエス様が語られた言葉を確認して終わりにいたします。

 ヨハネ13章34節~35節

わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。


 主イエスに愛された者として、その愛をもって隣人を愛していく。その信仰を示していくことに、皆で取り組みたいと思います。

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