Ⅰコリント(21)「信頼しているのは自分か、神か」Ⅰコリント10:1~13


皆様はイソップ物語に、オリーブの木と葦と言うお話があるのをご存知でしょうか。こんなお話です。「オリーブの木と葦が、口論していました。どちらがしんぼう強くて、力があって、しっかりしているかで、言い争っているのです。オリーブの木は、葦に向かってこう言いました。
『お前なんか、へなへなで、てんで意気地なしさ。ちょっと風が吹けばすぐにおじぎをして、まいったと言うじゃないか』葦はだまったきり、何も言い返しません。そこへ、まもなく強い風が吹いてきました。ビュー、ビューと、吹きまくる風の中、葦はさんざんにゆさぶられ、おじぎをさせられましたが、無事に切り抜けました。ところがオリーブの木は、風に刃向かって頑張っているうちに、ポキリ!と、折れてしまいました。」

限界をわきまえず、人を見下す者、自分を過信して生きる者は、必ず倒れる。だから、自分の限界をわきまえ、弱点を知って生きよと教えるお話でした。今朝私たちは、このお話を頭の隅に入れて置きながら、コリント人への手紙第一第10章を読み進めてゆけたらと思います。

ところで使徒パウロによって書かれたこの手紙は、「本当に、これがキリスト教会なのか」と思われる程乱れ切った教会の実態を明らかにし、私たちを驚かせてきました。知恵を誇る者の高慢。争いと仲間割れ。自分の母と通じていた者、遊女の元に通う者など、目を覆いたくなる不品行。さらに、奴隷の兄弟を見下したり、独身者ややもめを低く見る差別等、当時コリントの町をおおっていた悪しき風俗、習慣、価値観がそのまま教会にも持ち込まれていたのです。

この有様を耳にし、パウロが心を痛めなかったはずがありません。何故なら、パウロこそこの教会の生みの親でした。愛する子とも言うべき教会が抱えていた一つ一つの問題に対し、使徒が処方箋として書き送った手紙。それがコリント人への手紙です。

さて、今朝読み進める10章は8章からの続きで、偶像にささげた肉の問題を扱っています。偶像にささげた肉の問題とは何だったのか。当時ギリシャの町には、日本と同じく偶像が溢れていました。太陽の神、月の神を始めとして、自然の中に多くの神々が存在すると信じられていた社会です。この様な社会に、この世界の造り主、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれるのは、当然のことだったでしょう。

その頃の宗教の中心は、神々に対するささげものと後に続く祝宴でした。町の市場で売られている肉も、多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、出された肉を食べることに躊躇いや後ろめたさを感じる人々がいたようです。この様な中、教会内で「偶像にささげられた肉を食べてよいのか、否か」と言う問題が起こり、意見は二つに割れました。

ある人たちは、肉を食べるのは偶像を認めることになるのではないかと考え、反対します。これに対し、真の神は唯一であって偶像など何でもないもの、何でもない偶像にささげられた肉も何でもないものである訳で、肉を食べる事に何の問題もなしと主張しました。

「食べることに問題なし」とする人々は、「食べるてもよいのか」と考える人々のことを、偶像への恐れにとらわれた未熟な信仰者と見下しました。彼らは敢えて肉を食べ、信仰弱き者の心を踏みにじったのです。「偶像は神でも何でもない」と言う点においては、同意したパウロですが、この様に隣人の心に配慮せず、自由と権利を振り回す人々を厳しく戒めました。

使徒は「私には肉を食べる権利も自由もあるけれど、信仰弱き兄弟のために、自分の自由も権利も放棄する。私なら、その様な人々のために偶像にささげた肉は食べない。」と宣言したのです。そして、隣人の為に自由や権利を自ら捨てる神のしもべとしての生き方を大切にするのは、「私自身が信仰の失格者にならないためなのだ」と、9章の終わりに自らを戒めることばを記しました。

しかし、正しい知識を持つことで自分を過信するコリント人には、なお足らぬと思ったのでしょうか。パウロはここに、旧約の昔神に選ばれたイスラエル人たちが辿った悲惨な運命を示し、コリント人に迫ったのです。もし使徒がイソップを読んでいたら、弱き葦を見下し、自分の力を頼んで強風と戦い、倒れてしまったあのオリーブの木とコリント人の姿が重なって見えたことでしょう。


10:15「兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、 みな、同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。しかし、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。」


パウロが書いたのは、成人およそ60万人で出エジプトしながら約束の地カナンに入ったのは、そのうちわずか二人と言う出来事。あとの全員はアラビヤの荒野で死に絶えたと言う恐るべき事件です。紀元前1500年頃のこと、エジプト人はかって歓迎したイスラエル人を酷使し、苦しめていました。道路、堤防等今でいう社会インフラ工事の為にイスラエル人を奴隷のように働かせたばかりか、生まれてくる男の子を殺す様命じて、民族絶滅を図ったのです。

しかし、イスラエル人の苦しみの声を聞いた神は、エジプトからの解放を指揮する者としてモーセを指名。モーセの元人々は救出され、故国への帰還の旅に出ました。その間、神の守りと導きが常に民とともにあったことを「知らずにいてほしくはない」とパウロは語ります。

荒野の旅の道標、また灼熱の太陽を遮る日傘として、雲の柱がイスラエルといっしょでした。エジプト軍に海辺まで追い詰められた時は、目の前の海が割れて真ん中の渇いた道を人々は通ることができました。雲も海も水に関連しているからでしょうか。使徒は、イスラエルがみな雲の中と海の中でバプテスマ、洗礼を受けたと説明しています。

さらに、イスラエルの民が天からの食べ物マナで日々養われ、岩から出た水によって渇きを癒されたことを、パウロはコリントの人々が礼拝で受けている聖餐式に重ね合わせています。

「コリントの兄弟たち。あなたがたが洗礼によって神の民となり、聖餐式によってその信仰を養われている様に、昔のイスラエルの民も同じ恵みを受け、神に養われていました。しかし、これ程の祝福を受け続けたにもかかわらず、彼らの大部分は神のみ心にかなわず、荒野で滅ぼされたこと、よくよく心にとめてください。」そう声をあげたパウロは、愛するコリント人が昔のイスラエルと同じ道を辿ることになりはしまいかと怖れ、心配していたのです。その理由はこうです。


10:68「これらのことは、私たちを戒める実例として起こったのです。彼らが貪ったように、私たちが悪を貪ることのないようにするためです。あなたがたは、彼らのうちのある人たちのように、偶像礼拝者になってはいけません。聖書には「民は、座っては食べたり飲んだりし、立っては戯れた」と書いてあります。また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、淫らなことを行うことのないようにしましょう。彼らはそれをして一日に二万三千人が倒れて死にました。」


これらの悲惨な事件は、旧約聖書の民数記に詳しく記されていますから、是非読んでもらいたいと思います。エジプトから解放され、雲の柱で行く手を導かれ、砂漠の只中でも日々の糧を与えられ、神の恵みに養われ続けたイスラエル。それなのに、彼らは神の恵みに応えることなく、却って悪を貪ったと言うのです。

自ら作った偶像、あるいは異教の民が作った偶像を礼拝し、ともにささげものを食べたり飲んだり、歌ったり踊ったりの大騒ぎ。その後には男女が気ままに交わる乱交。神の民にあるまじき酒池肉林を演じた旧約の人々。ここには、町の神殿で偶像礼拝に参加し、人々とともにささげられた肉を思いのままに食べ、神殿の遊女と交わり、快楽の虜となっていたコリント人の姿が重なります。しかし、民の悪はこれにとどまりませんでした。


10:910「また私たちは、彼らのうちのある人たちがしたように、キリストを試みることのないようにしましょう。彼らは蛇によって滅んでいきました。また、彼らのうちのある人たちがしたように、不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。」


旧約聖書によると、イスラエル人が約束の地の近くまで来ながら、遠回りを余儀なくされた際、我慢できなくなり、「何故私たちをエジプトから連れ出し、この荒野で死なせようとするのか。…私たちはこの惨めな食べ物に飽き飽きした。」と、モーセに食って掛かったことがありました。人々は「これ位のことを言っても大丈夫だろう。」と神を侮る一方、どこまで暴言を吐いたら罰が下るのかと不遜にも神の腹を探ったのです。しかし、神を試みた人々はみな滅ぼされたとあります。

ここにも、コリント教会の現状が透けて見えてきます。「パウロの伝える神の戒めは厳しすぎる、キリスト教とはもっと自由なものではないのか」と不平を言う人々。町の人々と偶像礼拝に参加し、快楽を貪りながら、「これらの行いも恵みの神なら赦してくれるはず。」とうそぶく者たち。「それこそが、あなたがたのために十字架にいのちを捨てたキリストを侮り試みることだと、何故気がつかないのか。」パウロの苦しみの声が聞こえて来る様に思います。

果たして、当時コリントの人々がどれ程旧約聖書を心にとめていたのかは分かりません。しかし、ここに、使徒は改めて、聖書を読むことが私たちの信仰のために必要不可欠で、有益であることに目を向けています。


1011「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」


勿論、聖書のすべての箇所が、私たちのための教訓を含んでいるわけではありません。しかし、聖書には、様々な教訓を示す具体的な事件や実例が、驚くべき程多く記録されています。それによって私たちは、こういう時はこうするのが良いと励まされ、こういう時にはこうしてはならないと戒められるのです。それらが抽象的なことばではなく、実際の出来事、歴史の事実として残されていることが、一層深く私たちの心を動かし、私たちの生き方に影響を与えてゆくのです。何故そんな昔のことをと言うなかれ。私たちも神が残してくれた聖書を繰り返し読み、その戒め、教訓の一つ一つを心に刻んでゆきたいと思うのです。

最後に、パウロは警告と励ましのことばをもって、この段落を締めくくります。


10:1213「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」


 「立っていると思う者」とは、神はこの世界の造り主であり、唯一の神。偶像は神でも何でもないし、ささげられた肉自体にも問題なし。その様な正しい知識を持つ自分に信頼して、偶像の宮での礼拝や宴会に参加していた人々を指しています。彼らは、偶像など神でも何でもないと理解しているのだから、たとえ宮での礼拝や宴会に参加したとしても、自分たちのキリスト教信仰が悪しき影響等受けるはずもないと、自信満々だったようです。

 しかし、彼らはイソップ物語のオリーブの木の様に、自らの限界に気がついていませんでした。かってエジプト脱出という大きな恵みを受けたイスラエルの民ですら、異教の偶像儀式に連なり、神を離れたと言うのに、自分達は大丈夫等とどうして言えるのか。

事実異教の礼拝宴会に連なるうちに、彼らの中に眠っていた肉欲は目を覚まし、いつの間にか快楽の虜となった人々は神を畏れぬ者、神を侮る者となってしまいました。彼らは体の中に、知識や行いでは到底制することのできない様々な欲が存在すると言う、自らの限界をわきまえていなかったのです。

 皆様は、どんな欲に自分が強く惹かれ、コントロールが難しいか。自覚しているでしょうか。物欲でしょうか金銭欲でしょうか。食欲でしょうか情欲でしょうか。名誉欲でしょうか支配欲でしょうか。また、どんな状況に置かれると、聖なる神の目を忘れてしまうか。理解しているでしょうか。自分の限界をよく弁えて、信仰生活を送ること、心がけたいと思います。

 また、「…神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。…」は、多くの試練を経験したパウロだからこそ語り得る、保証と確信のことば、試練の中にある者への励ましのことばです。

 仲間割れの問題、不品行の問題、差別の問題、偶像の問題等、コリントは信仰生活にとって最悪の環境であり、神に従うことを願う者にとって試練は避けられないことだったでしょう。しかし、そうであっても、神が真実な方であることを忘れてはならないと、使徒は言うのです。

神は試練を加減するか、忍耐する力を与えて、弱き私たちを支えてくださる。私たちが歩む道は出口の見えない暗い道かもしれないけれど、その道を行くのはひとりではない。真実な神が共に歩まれることを忘れないように。私たちは試練の中で、自分自身を信頼する生き方から、神を信頼する生き方へと変えられてゆく恵みを受け取ることができる。このパウロの信仰を抱いて、私たちも新しい一週間の旅路へ進みゆきたいと思うのです。

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