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70周年記念(5)「平安の計画~希望を持って信仰生活を送る~」エレミヤ29:11

  我が汝らの上に計画している計画を、我は知る故に。ヤハウェの御告げ。 災悪のためではなく、汝らに終わりと希望を与える、 平安の計画 ( なり ) 。   四日市教会 70 周年、おめでとうございます。「信教の自由」の保障された、戦後日本のほぼ全期間を、一歩一歩と歩んできた歴史がここにあります。教会員の皆さんは、老若男女を問わず、その一端を担う当事者であり、全体に連なる証人です。一人一人の信仰が、一人一人の生き様が、教会の歴史に刻まれているのです。艶や疎かにはできません。 本日の御言葉 …… 、ヘブライ語からの直訳では 、「我が汝らの上に 計画している計画を、我は知る故に。ヤハウェの御告げ。災悪のため ではなく、汝らに終わりと希望を与える、平安の計画(なり ) 」と言 います。預言者エレミヤを通じて、バビロンへの捕囚とされた民、イ スラエルの人々に宛てられた神の言葉です。勿論、一人一人の民を、 神は認識されたうえで、一人一人の民が、信仰者として、強く歩むことを求められた御言葉です。 Ⅰ       全知全能なる創造主 まず第一に、御言葉は、「我が汝らの上に計画している計画を、我は知る」と言います。日本語の語順としては後ろになってしまうのですが、ヘブライ語では先頭が「我は知る」という言葉です。この「知る」というのは、神の重要な属性の一つです。神の権威の顕現でもあり、神の信頼性の根拠でもあります。「真の神」と「神でない神」とを区別する指標の一つでもあります。それゆえに、神に逆らう悪魔の妬みの種でもあれば、悪魔に誘惑された罪人の欲求の対象でもあります。 「知る」ということが、人間に対する悪魔の誘惑の言葉でもありま した。「善悪を知るようになる」とか、「神はそのことを知っている」 とかです。それはまた、神に対する人間の罪の理由でもあれば、人間 が罪を犯してしまった原因でもありました。爾来、罪人となった人間 の探求は、「知る」に集約されてきました。現代社会の最先端課題も 「知る」であり、新聞紙上でも、 AI だの、 ICT だのと、「知る」をめ ぐる用語であふれています。先日、開始するなり直ぐに破綻してしま った「セブンペイ」の問題も、顧客のための金銭決済の利便化を図っ たものではなく、個

「命を感謝する」ルカ22:24~30

八月の中旬になりました。八月十五日は、一般的に終戦記念日と言われる日。また堀越暢治先生は、この日を「いのちありがとうの日」にしたいと活動されていました。私たちは、いつでも「平和」について、「いのちの大切さ」について考えるべきですが、この時期、特に取り組みたいと考え、「命を感謝する」ことをテーマに説教を行います。  私たちは神様から実に多くのものを頂いています。目に見えるものから、見えないものまで。命も、命を支えるのに必要なものも。情熱、能力、知恵や力、財産や地位、経験や人間関係。偶然の積み重ねで今の世界があると考えていた時には思いもしないことですが、世界を創り支配されている神様を知ると、私たちの人生は神様が用意して下さったものであることが分かります。  それでは、なぜ神様は私たちに命を与えて下さったのでしょうか。多くのものを与えて下さっているのでしょうか。私たちは命を感謝しているでしょうか。神様が下さったものを、どのように用いて生きているでしょうか。過ぎし一週間、自分の知恵、力、財産、地位、経験、人間関係を、何のために使ってきたでしょうか。  神様から離れた人間。罪の中にある者の特徴の一つは、神様が下さった良いものを、自分のために使うことです。もともとは、他の人に仕えるために与えられた良いものを、他の人を支配し、搾取するために用いる。私が高められたい。私が注目されたい。私の願う通りにしたい。私が支配したい。そのような自己中心的な願いに沿って、神様が下さったものを用いていく。これが罪人の生き方でした。  最初に、人間が神様から離れる決断をする時。アダムとエバに向けて発せられた蛇の誘惑の言葉は次のようなものです。 創世記3章4節~5節 「すると、蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。』」  何をしても良いと言われていた園で、一つだけ禁じられたのは、善悪の知識の木の実を食べること。この実を食べるというのは、神様の言われることよりも自分の考えを優先させること。神様を愛さない。神様から離れることを意味していました。  この時の蛇の誘惑の言葉

Ⅰコリント(23)「すべて神の栄光をあらわすために」Ⅰコリント10:23~11:1

世界の創造のはじめ、人間が神を信頼し、親しい関係にあった時、人間同士の関係も非常に良好であったと聖書は教えています。しかし、神から心離れた人間は、お互いの間に良好な関係を築くことができなくなってしまいました。自分の意志で禁断の木の実を食べたのに、それを隣人のせい、神のせいにしたアダムとエバ夫婦の責任転嫁。自分よりも神様に愛されていると感じられて仕方がない弟アベルの存在が無性に腹立たしく、妬みに駆られ弟を殺してしまった兄カイン。自己中心という病に人間は捕らわれてしまったのです。 この自己中心という病い。様々な形で私たちの生活に現れてきますが、その一つの現れは、精神的利益であれ物質的利益であれ、自分の利益を追い求めてやまない生き方ではないかと思います。イソップ物語に「犬と肉」あるいは「欲張りの犬」というお話があります。 口に肉を加えた犬が、橋を渡っていました。ふと下を見ると、川の中にも同じような肉を加えた犬がいます。犬はそれを見て思いました。「あいつの肉の方が大きくて旨そうだ。」羨ましく感じた犬が「そうだ、あいつを脅かして、肉を取ってやろう。」と思い、川の中の犬に向かって「ウゥー、ワン!ワン!」と思いっきり吠えた途端、くわえていた肉はぽちゃんと川の中に落ちてしまいました。「あぁ~」川の中には、がっかりした犬の顔が映っています。それを見て、ようやくさっきの川の中の犬は、水に映った自分の顔だと気がついた、というお話です。 どこまでも自分の利益を求めてやまない人間の愚かさ、あるいは、自分の利益に縛られ、支配されている人生の悲惨さをユーモラスに描き、私たちを戒めてくれます。 私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。使徒パウロの手になるこの手紙の宛先コリント教会の中にも、隣人の利益は考えもせず、ひたすら自分の利益を追い求めて行動する者たちが存在したようです。自分の知恵を誇って争い、仲間割れする人々。自分が被った僅かな損失を取り戻そうと、愛すべき兄弟をこの世の裁判に訴える者。自らの社会的立場に驕り、独身者ややもめを見下す者など、コリント教会の有様はあるべき姿からかけ離れ、この教会の生みの親であるパウロの心をひどく痛めていたのです。 しかし、コリント教会の対立はこれにとどまりませんでした。ここ四回にわた

Ⅰコリント(22)「偶像を避ける歩み」Ⅰコリント10:14~22

私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたのはコリント人への手紙第一です。ところがこの手紙、読み進むにつれ「本当に、これがキリスト教会なのか」と思われる程乱れ切った教会の実態を明らかにし、私たちを驚かせてきました。知恵を誇って争い、仲間割れする人々。自分の母と通じた者、遊女の元に通う者等、目を覆いたくなる様な不品行。教会員同士の裁判沙汰。独身者ややもめに対する差別等、当時コリントの町をおおっていた風俗、習慣、価値観がそのまま教会にも持ち込まれていたのです。 イエス様が私達のことを「世の光、地の塩」と呼ばれた通り、教会にはこの世の腐敗をとどめ、人々の生活に良き影響をもたらす使命が与えられています。それなのにコリント教会ときたら、良い影響をもたらすどころかこの世から悪しき影響を受けていた。しかも、そのことに気がついていなかった様なのです。 この有様を耳にし、誰よりも心を痛めたのが使徒パウロでした。何故なら、パウロこそコリント教会の生みの親。困難な状況の中、労苦を重ねてキリスト教信仰に導いた人々が、あるべき所から落ちてしまった状況に黙ってはいられなかったのでしょう。こうして、教会が抱える一つ一つの問題に対し、処方箋として書き送られたのが、私たちの目の前にあるコリント人への手紙なのです。 さて、今朝読み進める 10 章は、内容としては 8 章からの続きでした。 8 章から 10 章までの 3 章で扱われているのは、偶像にささげた肉の問題です。ところで、偶像にささげた肉の問題とは何だったのでしょうか。当時ギリシャの町には、日本と同じく偶像が溢れていました。多くの神々が存在すると信じられていた多神教の社会です。この様な社会に、世界の造り主、唯一の神を信じる者が立った場合、様々な軋轢が生まれるのは、当然のことだったでしょう。 その頃の宗教の中心は、神々に対するささげものと後に続く祝宴でした。町の市場で売られている肉も、多くは一旦偶像の神々にささげられたものでしたから、人の家に招かれ、出された肉を食べることに躊躇いを感じる人もいたようです。この様な中「偶像にささげられた肉を食べてよいのか、否か」と言う問題が起こり、教会内の意見は二つに割れました。 ある人たちは、肉を食べるのは偶像を認めることになると考え、反対します。これに対し