Ⅰコリント(24)「すべては神から」Ⅰコリント11:2~16


私が礼拝説教を担当する際、読み進めているコリント人への手紙も後半に入りました。先回の説教が三週間前のことになりますので、最初にこれまでの流れを確認しておきたいと思います。

 この手紙の宛先であるコリント教会、ギリシャはコリントの町に存在した教会は、紀元50年頃使徒パウロが第二回目の伝道旅行の際基礎を据えた教会です。パウロが基礎を据えた教会なのだから、さぞや立派な教会、模範的な教会かと思いきや、それが正反対。仲間割れ、不品行、教会員同士の訴訟沙汰、結婚に関する誤解、独身者に対する偏見など、問題のデパートの様な教会でした。

 当時のローマ帝国において四番目の大都市コリントは、東西貿易の中心地にして商業都市、様々な国から人々が集まる国際都市として繁栄していました。反面不道徳な町、偶像崇拝の町としても知られ、「コリント人のように生きる」と言うことばが、不道徳な人の代名詞となる程、悪名も高かったのです。

 この様な町で、聖書が教える唯一の神を信じ、聖書の教えに従って生きると言うことがどれ程難しいことか、私たちも想像することができるかと思います。案の定、コリント教会の中には「地の塩、世の光」として良い証しを立てるより、町の風習、悪徳、価値観、宗教から悪しき影響を受ける者が存在していたのです。彼らを、パウロはこう呼びました。


3:1,2「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」

 

「兄弟たち」とか「キリストにある人」と呼んでいますから、パウロはコリント教会の人々が、:イエス・キリストを信じて、罪赦されたクリスチャンであることを認めていました。しかし、「キリストにある幼子」とも呼んでいます。クリスチャンではあるけれども、まだ幼子だと言うのです。別のことばで言えば、肉に属する人、自己中心の考え方や行動から抜け出せない人。抜け出せないばかりか、自分の未熟さに気がついてすらいない信仰者だと言うのです。

ですから、この手紙はコリント教会の状況に心痛めたパウロが、彼らをキリストにある幼子から、キリストにある大人へと導くために書き送った手紙。扱われているテーマは、パウロが信頼する使者から聞いた報告の中で問題と感じたこと、あるいはコリント教会からの質問状に応えたものばかりで、まさにコリント教会のための指示や勧めが満載の手紙と言う側面を持っています。

それらの中には、現代の私たちにとっては理解しにくいもの、ピンと来ないものも含まれています。しかし、そこに示されているキリスト教信仰の原則、キリスト者の生き方は今でも変わらない大切なメッセージであり、その点に私たちは耳を傾けてゆきたいと思うのです。

先回まで読み進めてきた段落、9章から111節では、「偶像にささげた肉を食べてよいか否か」と言う質問状に対する、使徒の教えが記されていました。この問題に決着をつけた使徒は、次に新たな質問状に対して答えています。今度の問題は公の礼拝における混乱で、具体的には三つのことが取り上げられました。

第一は、112節から16節で、キリスト者の自由の意味を捻じ曲げ、礼拝を混乱させていた女性たちの問題で、今朝はこの箇所を読み進めます。第二は、公の礼拝聖餐式の前に行われていた食事の席で、貧しい人々が富める者たちに差別され、辱められていた問題で、1117節から終わりまでがこれにあたります。第三は、異言の問題です。異言つまり外国語で聖書のメッセージを語り、祈る賜物を持つ人々が、その賜物を正しく用いず、多くの人にとって、意味の分からない説教が語られ、訳の分からない祈りがささげられる礼拝になってしまっていたと言う問題です。この問題は12章から14章で取り上げられていました。

さて、今朝私たちが読み進めるのは、公の礼拝にかぶり物をつけぬまま参加し、礼拝を混乱させていた女性たちの問題です。私たちにとっては、聊かピンとこない風習ですが、この問題に関するパウロの教えを通して、神は私たちにどのようなメッセージを語っておられるのでしょうか。


11:2~6「さて、私はあなたがたをほめたいと思います。あなたがたは、すべての点で私を覚え、私があなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを堅く守っているからです。しかし、あなたがたに次のことを知ってほしいのです。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神です。男はだれでも祈りや預言をするとき、頭をおおっていたら、自分の頭を辱めることになります。しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。」


これまで叱責や戒めを繰り返してきたパウロが、意外にも「私はあなた方をほめたいと思う」と語りだします。確かにコリント教会には、互に争い、悪徳に染まり、使徒に反抗的な人々も存在しました。しかし、パウロの伝えた教えを忠実に守る人々も存在したのです。パウロは彼らの信仰を認め、励まし、コリント教会を改革しようと考えたのでしょう。

ところで、かぶり物についてですが、元々ユダヤ人は男女ともかぶり物をつけて礼拝しました。ところがギリシャの男性にはその習慣はなく、公の場ではかぶりものなしが常識でしたから、男性はこれに従うのが良いとパウロは命じています。

問題は一部の女性たちでした。女性解放、男女平等を主張する女性たちは、当時公の場で女性が身に着けるべきとされていたかぶり物、べールを脱ぎ、好みのヘアスタイルで身を飾り、礼拝に参加。その大胆で、常識はずれの格好で祈り、預言を行い、教会の内外で顰蹙をかっていたらしいのです。当時ギリシャにおいて、ベールは女性の名誉を示すものとして、非常に重んじられていましたから、礼拝に出席した人々は、彼女たちの格好や行動に度肝を抜かれ、躓いてしまったのです。

それを聞いたパウロは、「女は祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになる。どうしてもかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまえ」と戒めました。その頃、髪を切るのは遊女のみ、頭をそるのは不貞を働いた女性への罰。どちらも恥ずべき格好でした。「あなたがたは、自分がどれ程恥ずかしく、不名誉な格好をしているのか、気がつかないのですか」。パウロは彼女たちの浅墓さを指摘しているのです。

そして、どうも「イエス・キリストにあっては、男女の区別なし」と言うパウロの教えが、女性たちを大胆な行動に駆り立てたらしいと知った使徒は、それは誤解であること、神は男女各々に役割を与えていることを示していました。それが、「すべて男のかしらはキリスト、女のかしらは男、キリストのかしらは父なる神」ということばです。

キリストが父なる神に従うように、男はキリストに従い、女は助け手として男に従う。これが男女の関係だと言うのです。但し、キリストが父なる神に従うようにとある様に、女性が男性に従うのは、男性が優れているからでも、女性が劣っているからでもありません。キリストと神が神として対等な存在でありながら、人間を罪から救うと言う働きにおいて、神が主導し、キリストが父に従い、協力する。その様に、女性も男性と対等な存在として、男性に従い、協力し、神の使命に応えてゆく。男女対等、しかし役割には区別あり。これが、パウロの教えるところでした。

次は、これがパウロの個人的な教えではなく、世界が創造された時からの神の定めであることが示されます。


11:7~10「男は神のかたちであり、神の栄光の現れなので、頭にかぶり物を着けるべきではありません。一方、女は男の栄光の現れです。男が女から出たのではなく、女が男から出たからです。

また、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたからです。それゆえ、女は御使いたちのため、頭に権威のしるしをかぶるべきです。」


 使徒は、聖書の創世記に記された世界の創造、男女の創造の事実と順番をそのまま受け入れています。男は神によって直接造られたのに対し、女は男から間接的に造られたこと。男アダムが一人ぼっちであるところに助け手として女エバが造られたこと。男性が主導し、女性が従い、ともに神の使命に応えてゆくと言う協力関係が定められたこと。

 女性解放、男女対等を唱え、女性の名誉の印とされたベールを脱ぎ棄て、礼拝をヘアスタイルのショー、自分を主張する場とした女性たち。その結果、人々の顰蹙を買い、混乱を招いた女性たちへのことばだからでしょう。パウロは男女の役割の違い、区別を強調しています。

 他方、これが当時一般的であり、今でも見られる男尊女卑の風潮と同じことと誤解されるのを心配したのでしょう。補足の説明が加えられました。男女対等、相互依存の教えです。


 11:11,12「とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。」


 男無くして女なし。女なくして男無し。神の前では、男が上でも、女が上でもない。男女各々の賜物を生かしたパートナーシップは、お互いが豊かにされてゆくために神が定めたものと確認したいところです。

 こうして、聖書に基づき説明してきたパウロは、そもそも女性のかぶり物については、ギリシャ社会の常識や人々の自然な感覚、また初代教会の習慣に照らしても、どう判断したらよいか分かるではないかと駄目押ししています。


 11:1316「あなたがたは自分自身で判断しなさい。女が何もかぶらないで神に祈るのは、ふさわしいことでしょうか。自然そのものが、あなたがたにこう教えていないでしょうか。男が長い髪をしていたら、それは彼にとって恥ずかしいことであり、女が長い髪をしていたら、それは彼女にとっては栄誉なのです。なぜなら、髪はかぶり物として女に与えられているからです。たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。」


 当時はユダヤ人、ローマ人、ギリシャ人を問わず、男性は髪を短く切り揃え、女性は長い髪を保つことが美しいとされ、共通の習慣となっていました。男性の長髪は男性の女性化とみなされ、女性の短髪は遊女の髪形とされ、一般的にふさわしくないスタイルと考えられていたのです。また、男性はかぶり物なし、女性はベールを着けての礼拝出席は、その他の教会でも常識的な礼儀作法であることを踏まえ、あなた方自身どうすべきかを考えよと命じ、パウロは教えを締めくくりました。

 最後に、礼拝の混乱と言う問題に関するパウロの結論を確認しておきます。


14:40「ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」


今私たちの教会で、礼拝に出席する際女性がベールを着けるべきか否か、髪型はどうかと言う様な問題はありません。ですから、パウロがコリント教会に堕した指示は、かぶり物を女性の名誉とする当時のギリシャ文化、習慣の中にあったコリント教会には必要であっても、文化、習慣の異なる私たちには必要ないと言えるでしょう。

しかし、公の礼拝において、すべてのことを適切に行うこと、あるいは、礼拝に限らず、人生で遭遇する様々な公の場で、キリスト者として適切な行動をとるには、どうしたら良いのかと言う点に関しては、パウロの教えが参考になるでしょう。

今日見ましたように、コリント教会の一部の女性は、キリスト者の自由を盾にしていました。、聖書が明白に禁じていないことについては自由に考え、行動してよいとし、神の栄光を表すべき礼拝の場を自らの主張や好みを表す場とし、これを乱していたのです。

彼女たちの行動を顧みる時、私たちが礼拝やその他の公の場において、キリスト者として適切な行動をとるために、二つの点を踏まえる必要があるかと思います。一つ目は、私たちの振る舞い、行動が、神の栄光を表すものかどうかを考えること、二つ目は、長い時間をかけて培われてきた社会や教会の常識、習慣、美徳を大切にすることです。

神のみ心に叶うことだからと言って、人々が大切にしている常識、習慣、美徳を軽視しないように。逆に、この世の常識や習慣にとらわれて、みこころについて考え、従うことを疎かにしないように。どんな場に置かれても適切な行動について考え、神の栄光を表す者となりたいと思うのです。

最後に、聖書が教えるかしら、リーダーシップの意味について確認しておきます。男性が女性のかしらであるとは、男性が単純に何でも決定するとか、意見が合わない場合、自分のやり方を押し通してよいと言う意味ではありません。

この手紙で見てきたように、パウロは決して自分の権利や利益を優先して、自分を喜ばせることはしませんでした。むしろ、自分の権利や願い、時には生活の必要さえも犠牲にして、コリント教会の兄弟姉妹に仕えていたことを、私たちは見てきました。かしらとして男性はパウロの様に女性に仕え、女性の必要を満たし、女性を建て上げる使命があるのです。

女性が男性の助け手として従うということも、無条件の服従ではありません。神のみ心に反する行動には「ノー」と言い、男性を戒めることが助け手の役割でしょう。何よりも与えられた賜物を生かし、男性と協力して、神に喜ばれる家庭や教会を建て上げてゆく使命が女性にはあるのです。

父なる神とイエス様とが、人類を罪から救い、この世界を新しくするため協力しておられる様に、私たちも男女が互いを尊びつつ、相手に仕え、協力することを惜しまない。そんな家庭、教会、社会を建て上げてゆきたいと思うのです。

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