Ⅰコリント(25)「益になる集りを」Ⅰコリント11:17~33


世界の創造の始め、お互いに愛し合う関係の中で、家庭や社会を築いてゆく者として、神は私たち人間を創造した。これが聖書の教えるところです。しかし、神に背いた人間は隣人を正しく愛する能力を失い、様々な理由で争い、対立するようになったのです。

民族の違い、性格の違い、高齢者と若者、親と子等世代の違い、政治的意見の違いや宗教の違い等、様々な理由で人間関係は分断されてきましたし、今もそれは変わりません。そして、私たちの関係を対立に導く最も大きな理由の一つが、貧富の差ではないかと思います。同じ世界に富める国と貧しい国が存在し、隔たりは容易に埋まらない。同じ国、同じ地域に富める者と貧しい者が生活し、いがみ合う。同じ家に暮らす親と子、兄と弟が財産を巡って争う。悲しむべき現実です。

いわんや、その様な問題が主イエスを神とし、救い主と信じる者の集まり、キリスト教会にも見られるとしたら、これ程残念なことはないと思われます。

私たちが読み進めているコリント人への手紙は、使徒パウロが基礎を据えた教会、ギリシャはコリントの町に存在した教会に宛てられた手紙でした。仲間割れ、訴訟沙汰、不品行、結婚についての考え方の混乱、偶像にささげられた肉を巡る対立。問題のデパートの様な教会のために、一つ一つ処方箋を書き、決着をつけてきたパウロですが、先回からは公の礼拝における混乱と言う新たな問題に直面することになったのです。

当時、コリント教会の礼拝は三つの点で混乱していました。第一は礼拝の場におけるエチケットかぶり物の問題で、これを先回扱いました。第二は、聖餐式の前に行われていた夕食、愛餐会における富める者の振る舞いの問題です。今朝はこれを扱います。第三は、礼拝における賜物の使い方、特に異言の問題で、これについては次回扱うことになります。

それでは、当時コリント教会の夕食の席で、どの様な問題が起こっていたのでしょうか。パウロが耳にしたのは、富める者と貧しい者との不和、分裂です。


11:1719「ところで、次のことを命じるにあたって、私はあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが益にならず、かえって害になっているからです。まず第一に、あなたがたが教会に集まる際、あなたがたの間に分裂があると聞いています。ある程度は、そういうこともあろうかと思います。実際、あなたがたの間で本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。」


既に誰を指導者として仰ぐのかと言う点で、コリント教会が4グループに分裂していたことはこの手紙の一章で見ました。ところが、さらに別の問題で分裂の渦が巻いていたことを、パウロは聞かされてしまいます。ここに「ある程度は、そういうこと(分裂)もあろうかと思います」とあるのは、「情報の出所が不確かなので、私も鵜呑みにしているわけではないけれど、あなた方が対立している様子は想像できる。」そんなニュアンスと受け取れます。

また「本当の信者が明らかにされるためには、分派が生じるのもやむを得ません。」と言うことばからは、ギスギスとした教会の有様が浮かんできます。分裂を憂え、富める者を戒める兄弟がいる。かと思えば、「自分たちの献金でこの教会は成り立っているのに、注意を受けるぐらいならもう良い。こんな教会からは出てゆく。」と反発する輩がいる。夕食の席で辱めを受け、いつの間にか教会から足が遠のく貧しい人もいる。そんな状況を頭に思い浮かべても良いでしょう。

けれども、神のみ心に従い、教会の一致に力を尽くす本当の信者が明らかにされるため、分裂やむを得ない場合があるとは言え、やはり、決定的な分裂に至る前に、今のうちに気がついて自らを修正して欲しい。それを願う使徒は、富める者たちの酷い振る舞いを指摘します。


11:2022「しかし、そういうわけで、あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、食べたり飲んだりする家がないのですか。それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。私はあなたがたにどう言うべきでしょうか。ほめるべきでしょうか。このことでは、ほめるわけにはいきません。」


先程も言いましたが、この頃聖餐式は夕食の後に行われました。そこで聖餐式にあずかるため教会に集まる人々は、まず夕食の交わりを共にする慣わしがあったらしいのです。それが愛餐会と言われたのは、富裕な者が沢山の食物を持参して、貧しい人々とともに食事を楽しむと言う隣人愛の故でした。この時代貧富の差は非常に大きく、身分の異なる者同士が食事を共にすること自体稀であったと考えられます。

旧約聖書には、隣人愛の実践として貧しき者、経済的弱者への配慮が繰り返し命じられています。畑を収穫する際は、すべてを刈り取らず一部を残しておく様に。作業の際手から落ちた落穂はそのままにしておく様に。貧しき者がそれを気がねなく食物とするための配慮です。また、6年間主人に仕えた奴隷には、次の仕事を見つけるまでの生活費として退職金を支給せよ、奴隷だからと言ってただ働きさせることは許さないと言う律法もありました。生活に困窮し借金をした者が、借金の重荷に苦しめられぬよう、債権者は7年目に借金をすべて放棄すべしと言う律法も見られます。

そう言えば、多くのメンバーが貧しさに悩むエルサレム教会では、有志が財産をささげ、貧しき兄弟と財産を共有すると言う方法で、この問題に対応していたことが使徒の働きに出てきます。恐らくギリシャでも、隣人愛の実践を重んじる教会が、自分達にもできる方法として愛餐会を始め、コリントの教会もこれにならったのでしょう。

ところが、コリントの愛餐会では、この隣人愛が早くも失われていたらしいのです。一緒に分かち合うどころか、富める者は我先にと自分の食事を済ませてしまう。皆が楽しむどころか、貧しい者や奴隷はすきっ腹のままなのに、富める者は酔っ払っていると言う始末でした。仕事を終えてからしか来られない貧しい兄弟たち、主人に使われて、時間通りに来ること等まず不可能であった奴隷の兄弟たちの存在は忘れられ、辱められていたのです。

これでは、主イエスにあって一つ神の家族であることを覚え合う聖餐式の前の交わりとしては、全く不適当でした。親睦、一致を生み出すべき愛餐会を、貧しい者への軽視、富める者への妬みが行き交う不協和音の場にしてしまった富めるコリント人。彼らが「神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせていることが、分からないのですか」と叱責されたのは、当然だったでしょう。しかし、彼らがその振る舞いを改め、キリストにある大人の信仰者へと成長することを願うパウロは、聖餐式において示されるキリストの恵みに目を向けるよう勧めています。


11:23~26「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」


ここにあるのは聖餐式を定めた主イエスのことば、中でも最古の記録と言われます。「主イエスは渡される夜」とわざわざ言われているのは、十字架の死に直面した主イエスが、力を尽くして定めた聖餐式には非常に重大な意味があることを、富める者に思い起こさせるためです。

パウロが伝えたかった思いは、この様なものでした。「もし、あなた方が本当に聖餐式の意味が分かっていたら、聖餐式で主イエスから受け取る恵みがどんなに尊いものであるかが分かっていたら、貧しい兄弟たちにあんな態度を示すことなどできるはずがない。聖餐式で罪の赦しの恵みを受け取り、主イエスと一つに結ばれた者はみな、隣人に仕え、隣人を豊かにする者でありたいと言う願いを心に与えられるからです。」聖餐の恵みに預かる者は、主イエスが来られるその時まで、自らの生き方を通して主イエスの死の意味を告げ知らせる説教者でなければならないと、パウロは考えていたのです。

しかし、愛餐会での振る舞いから、彼らが聖餐の意味を理解していないことは明白でした。ですから、彼らの罪をずばり指摘したのです。


11:27~32「したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです。しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。」


この頃、コリント教会の富める者の中には病弱な者多く、死んだ者もいたようです。人々はそれを自然死と考えていたでしょうが、使徒は違いました。神から確信を与えられていたのでしょう。パウロはその死が聖餐の意味をわきまえず、罪を悔い改めないままで聖餐を受けた者への神のさばきと断定しています。

勿論私たちには、ある人の病気や死が、神のさばきによるものと考える権利も能力もありません。その様な考えは不敬虔と言うべきでしょう。また、聖書は、病や死を個人の罪に対する神のさばきと考える因果応報の原理を否定しています。但し、稀にある人の病や死をその人自身の罪に対する神のさばきと特定する例が聖書には登場します。これはその稀なケースでした。

しかし、ここで使徒が伝えているのは、このさばきがコリント人のための神のあわれみのわざだと言うことです。「私たち(キリスト者)がさばかれるとすれば、それは、この世とともに(神の最終的な)さばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです。」このことばから分かるように、主イエスを信じる者がうけるさばきは、人を滅びに至らせる神の最終的なさばきではなく、父親が子を懲らしめること、つまり訓練と言うあわれみのわざと考え、悔い改めの実を結ぶようにと命じているのです。

ここまで言わねば、富める者たちの心の目は開かれることがなかったと言うことなのでしょう。ご馳走を独占し、貧しい兄弟を顧みることのなかった者たちが、自分たちの振る舞いで神の名を汚していることに気がつくように。罪の悔い改めなく聖餐に預かり、主イエスの恵みを侮っていることに気がつくように。そう願うパウロは、それこそ幼子を教える親の如く、最後に極めて具体的な指示を与えています。


11:33,34「ですから、兄弟たち。食事に集まるときは、互いに待ち合わせなさい。空腹な人は家で食べなさい。あなたがたが集まることによって、さばきを受けないようにするためです。このほかのことについては、私が行ったときに決めることにします。」


食事に集まる時は、互に待ち合わせましょう。どうしても我慢できない人は、家で食事を済ませてきたらよいでしょう。あなた方の集まりが有害なものとならないためです。深遠な聖餐論の後には、余りにも常識的な行儀作法の教えでした。教会を整えること、人を建て上げることが、どれ程大変なことなのか。改めて、主イエスの忍耐と寛容を、パウロの教えに確認したいところです。

最後に、私たちの教会の集まり、礼拝や交わりの場を有益なものとするためには、どうすればよいのか。今日の箇所から一人一人が取り組むべきこと、考えたいと思います。

一つ目は、神の前で自分自身を吟味する、自分をわきまえると言う習慣を身につけることです。今日の箇所では、聖餐にあずかる心構えとして勧められていますが、これは日常生活の中でも実践すると良いことでしょう。

皆様はコリントの富める者たちの姿を見て、不思議に思われたのではないでしょうか。何故、彼らは自分たちの振る舞いが、自己中心の振る舞いであることに気がつかなかったのか。その罪を告白して、悔い改めることをしなかったのかと。

しかし、彼らの姿から教えられるのは、私たち罪人は、自分の自己中心の性質や行動になかなか気がつかない存在であることです。私たちの自己中心性は、余りにも自然なものなので、自覚するのが非常に難しいことです。ですから、隣人との交わりの場で指摘されたり、神様と交わる中で思いを探り、振る舞いを吟味することが罪を認め、告白する良い機会であること、心にとめたいと思うのです。自分の罪を認めた上で、主イエスによる罪の赦しの恵み、私たちを自己中心の生き方から解放する恵みを、しっかり受け取りたいと思うのです。

神様の前に出て、自分自身を吟味する時間をいかに生活の中に取り入れてゆくか。あるべき自分と現実の自分をよくわきまえ、自己中心の考え方、価値観、振る舞いを一つ一つ修正してゆく歩みを目指したいと思うのです。

二つ目は、様々な集まり、交わりの場に参加する際の心構えです。私たちは自己中心の振る舞いが自分と隣人に益なく、かえって害をもたらすものか。今日の箇所から学びました。ただ集まればよいと言うのではない。主イエスやパウロがそうであったように、自分が持てるもので隣人を豊かにする、隣人の喜びを自分の喜びとする。私たちが皆その様な心構えを持ち、家庭の交わり、教会の交わり、地域社会での交わりを豊かなものとしてゆけたらと思うのです。今日の聖句です。


Ⅰコリント 10:33「私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。」

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