敬老感謝礼拝「国籍は天に」ピリピ3:17~21


近年、平均寿命が延びていることが、様々なところで注目されています。多くの学者が、今後も平均寿命が延びると予測し、今小学生の世代は、二人に一人が百歳を越えて生きることになると言われます。五十年前の七十歳と、今の七十歳を比べると、今の七十歳の方が心も身体も若い。実年齢だけでなく、健康寿命も延びていると考えられています。そのため、個人としても、家族としても、国としても、生き方や制度を再検討する必要があるというのです。

 このまま平均寿命が延びていくという予測が正しいのか分かりません。しかし確かに、将来を予想し計画を立てることは、その人の生き方に影響があります。人生七十年として生きる一年間と、人生百年として生きる一年間には違いがあります。百日後を人生の最後とするか、百年後を人生の最後とするか。それによって、生き方は大きく変わります。

皆様はこれまで、自分は何歳位まで生きるものとして、人生を計画してきたでしょうか。自分が想定していた以上に長生きするとしたら、それは喜びでしょうか、苦しみや不安が大きくなるでしょうか。


 将来を見据えて、目標や計画をもって人生を生きることは大事なことだと思います。現代の日本は、無為無策でも生きることが出来る時代。とはいえ何も考えずに毎日を生きると、それだけであっという間に何年も過ぎてしまいます。

聖書の中にも計画を立てることの大切さを示す言葉がありました。

 ルカ14章28節~33節

あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。計算しないと、土台を据えただけで完成できず、見ていた人たちはみなその人を嘲って、『この人は建て始めたのに、完成できなかった』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。もしできないと思えば、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和の条件を尋ねるでしょう。」


 塔を立てる、戦いに臨む際に、計画が必要なのは言うまでもない。当たり前のこと。計画無しに事を起こせば、恥をかく、白旗を挙げて軍門に下らなければならなくなる。同じように、自分の一生をどのように生きるのか、よく考え、目標や計画を立てることは有益なこと、必要なことでしょう。


 しかし計画を立てて、それに向かって生きれば、それで良いのかと言えば、そうではない。将来を見据え計画を立て、それを成し遂げることよりも、もっと大事なことがあることを示す聖書の言葉もあります。

 ルカ12章16節~21節

それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。


 イエス様の語られるたとえ話の中には難解なものも多くありますが、このたとえ話は実に簡単です。大豊作を前に、将来を見据えて、計画を立てる金持ち。ところが、今夜死ぬとしたら、大豊作や計画は何の意味もない。人生の計画と言っても、神様との関係を抜きに立てられるものは、無意味なものとなる。私たちがどれだけ真剣に将来を見据え、計画を立て、取り組もうとしても、自分の命は自分で握っていない。一瞬のうちに、全てがご破算になることがある。当然のことであり、恐ろしいことです。


 将来を見据え、目標や計画を立て生きることは大事。しかし、それ以上に神様とどのような関係にあるかが大事。片一方で精いっぱい、この地上の人生を歩むことを大事にしつつ、もう片一方で、いつ天に召されても良いとして生きる。地上のことだけに囚われて、まるでこの地上の人生が全てとは思わないように。とはいえ、天上のことだけ考えて、この地上での歩みをおろそかにしないように。キリストを信じる者は、このバランスの中で生きることになります。

 地上での生涯を大切にしながら、いつ召されても良いとして生きる。このテーマで、パウロは次のように言っていました。

 ピリピ1章21節~24節

私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし、肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。私は、その二つのことの間で板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。そのほうが、はるかに望ましいのです。しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です。


 パウロは「死ぬことは益」と言い、はっきりと「世を去ってキリストとともにいることを願っている」「そのほうが、はるかに望ましい」と言います。いつ召されても良いというより、召されたいと願っている言葉。しかし自暴自棄になって「死にたい」と言っているのではない。地上での働きがあること。与えられた人生を走り通すことの大切さも口にします。何も考えずに「生きるのも、死ぬのも、どちらでも良い」と嘯いているのではない。一人でも多くの人に福音を宣べ伝え、教会を建て上げたいと願いながら、獄中にて死を身近に感じているパウロの言葉だけに、重みがあります。


 与えられた人生を真剣に生きつつ、いつ召されても良いとして生きる。口で言うのは簡単ですが、実践するのは難しいもの。心から同意して、パウロと同じことを告白するのは難しいものです。順風満帆の時は、自分の目標や計画を手放すことなど考えられない。死ぬことなど想定しない。しかし逆境になると、目標や計画を立て前向きに生きることが嫌になり、早く召されたいと願うようになる。多くの場合、どちらかに傾きやすいものです。

 一体どうしたら、地上の生涯に真剣に取り組みつつ、いつ召されても良いとして生きることが出来るのか。老モーセの祈りが思い出されます。

 詩篇90篇9~10節、12節

私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に消え去り私たちは自分の齢を一息のように終わらせます。私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ私たちは飛び去ります。…どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。


 モーセと言えば、八十歳にして活躍の舞台が用意され、百二十歳になるまでイスラエルの民を導いた人物。聖書中、歳を重ねてから活躍した人と言えば、モーセかアブラハムでしょう。そのモーセが「私たちの齢は七十年、健やかであっても八十年」と歌うのに違和感を覚えます。「モーセさん、あなたは八十歳から活躍したじゃないですか。」と問い質したくなります。

 しかし、モーセの最晩年の状況を考えますと、同世代の人はいなく、それどころか子ども世代もいない。一緒にいるのは、孫以下の世代。百二十歳のモーセは極めて稀な人で、その時代の人たちは「七十年、健やかであっても八十年」でした。

 それではモーセは、人の齢「七十年、八十年」をどのように見たでしょうか。「瞬く間に過ぎ飛び去る」、「激しい怒りの中に消え去る」としました。人生とは難しいもの、苦しいもの、惨めなもの。何故かと言えば、それは人間の罪が原因であり、神の怒りの対象となっているから。神から離れた結果、労苦と災いの中で、あっという間に過ぎ去る人生を、一体どのように生きたら良いのか。このような思いの中で祈られるのが、有名な祈りの言葉。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」

 自分の日を数えることが出来るように。与えられた人生を真剣に生きつつ、いつ召されても良いとして生きることが出来るように。そのための知恵の心を与えて下さい。私たちも、自分のこととして、この祈りを祈りたいと思います。


 それでは自分の日を数えるための知恵とはどのようなものでしょうか。片一方で精いっぱい、この地上の人生を歩むことを大事にしつつ、もう片一方でいつ天に召されても良いとして生きる知恵とは、どのようなものでしょうか。

 このことを念頭に置きながら、今日は一つの箇所を見ていきたいと思います。パウロが最愛のピリピ教会に宛てた手紙の一節。

 ピリピ3章17節

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」


 皆様は生きる上で、見倣いたいと思う人、お手本とする人はいるでしょうか。皆様の周りにいる人で、地上の生涯に真剣に取り組みつつ、いつ召されても良いとして生きている人と聞いて、誰を思い浮かべるでしょうか。身近に見倣いたいと思う人、お手本とする人がいるのは幸いなこと、大きな恵みです。

 それはそれとしまして、パウロはここで「私に倣う者」となってくださいと言います。私たちの感覚からすれば、大胆な表現。一体何を見倣ったら良いのか。パウロまず見倣うべきでない人たちを提示します。

ピリピ3章18節~19節

「というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」


 キリストの十字架は自分の人生とは何も関係ないとして生きる。自分の欲望を叶えることを人生の最大の目標とする。価値のないものを、素晴らしいものとして追い求める。地上の生涯が全てとして生きる。このような生き方は、「与えられた人生を真剣に生きつつ、いつ召されても良いとして生きる」ことの正反対。しかし、このように生きる人が多くいるとパウロは嘆きます。このような人たちを見倣わないように。

 それでは、見倣うべきパウロの姿とは、どのようなものでしょうか。

 ピリピ3章20節~21節

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。


 与えられた人生を真剣に生きつつ、いつ召されても良いとして生きる。それは国籍が天にある者として生き方。国籍は天にある。

 私たちは、地上のことと、天上のことを考える時、対立的に考えやすいものです。将来を見据えて、目標や計画を立てると言っても、この地上の将来だけしか見据えようとしない。この地上で、どのように生きるかしか、計画の中にない。そのため、天に召されたら、目標や計画はそこまで。目標や計画が果たされなければ、残念と考えます。

 しかし聖書は、見据えるべき将来は、自分が何歳まで生きるのかではなく、天国での復活と教えます。キリストを信じる私たちは、キリストの栄光の身体と同じように変えられる。永遠に天国で生きる者となる。やがて天国で生きる者として、その特権をすでに得た者として、この地上で生きるようにと教えられます。地上と天上を分けて考える、対立的に考えるのではない。この地上で、天国民として生きるように。それこそが、与えられた人生を真剣に生きつつ、いつ召されても良いとして生きることと教えられるのです。


人生を七十年と見るか、百年と見るか、それによって生き方が変わる。そうだとしたら、人生には終わりがあると見るとか、永遠の世界があると見るかで、もっと大きな違いがあるでしょう。この地上のことだけで目標や計画を立てるのと、天国で復活することを見据えて目標や計画を立てるので、大きな違いがあるのです。

 私たちは真剣に、将来を見据えて、目標や計画を立て、生きる必要があります。それも、国籍が天にある者として。天国で復活するという将来を見据えての、目標や計画です。


 今日は敬老感謝礼拝の日です。聖書は繰り返し、歳を重ねた人を敬うように教えています。何故なのか。その一つの理由は、歳を重ねた人は、続く者にとって、お手本となる存在だからです。

 最後にいくつかのお勧めとお願いをして終わりにしたいと思います。

 まずは敬老の方へのお勧めとお願いです。人生の先輩、信仰の先輩へのお勧め、お願いは、国籍が天にある者として生きるとは、どのようなことなのか。その生き様で教えて頂きたいのです。教会の中で、お手本となって頂きたいのです。

歳を重ねると、それまで出来たことが出来なくなります。人のために労してきたところから、人に仕えてもらわないといけない状況になります。様々な弱さが出て来ます。しかし、出来ることが減って、遂には死を迎えるのがゴールではないということを教えて頂きたいのです。弱くなることを嘆きながらも、復活の希望があるとはどういうことなのか。キリストを信じる者がどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、国籍が天にある者として生きるとは、具体的にどのようなものなのか。この時代、この場所で、天で復活することを見据えて生きるとは、どのような生き方になるのか。是非とも、教えて頂きたいのです。

 神様がこの教会に、敬老の方々を集めて下さっているということが、とてつもなく大きな恵みであることを、味わいたいと思います。


まだ敬老の年になっていない方に申し上げます。私たちの教会に、人生の先輩が来られていることを感謝いたしましょう。その人生に敬意を払いましょう。どのような人生を歩まれたのか、耳を傾けましょう。私たちは皆老いる。その時、国籍が天にある者が、この時代、この地域で、どのように生きるのか、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。

 そして、この信仰の先輩方に続く歩みを私たちもなし、やがては私たちの子、孫、またその次の世代へと信仰を継承していく。キリストがもう一度来られるまで、国籍が天にある者として生きることを、この地で繰り広げていきたいと思います。



今日は敬老感謝礼拝です。国籍が天にある者の生き方とはどのようなものか、皆様とともに考えていきたいと思います。


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