一書説教(54)「テモテへの手紙第一~罪人のかしらとして~」Ⅰテモテ1:15~17


一般的に「人は一人では生きられない」と言われます。仮に無人島で、一人で生きるとしたら、どれ位の期間、生き延びることが出来るでしょうか。水を汲み、食料を探し、安全な寝床を確保することが出来るのか。衣食住の確保が出来たとしても、他の人との交流がない状況が続く場合、どこまで耐えられるのか。肉体的にも、精神的にも、人が一人で生きることは極めて困難です。

 信仰生活も同様です。一人で聖書を読み、一人で祈り、一人で伝道し、一人で奉仕をする。一人で喜びながら、継続して信仰生活を続けることは、極めて大変なこと。そもそも聖書が命じていることの多くは、自分一人では出来ないこと。強い確信を持ち、立派な行いをしていても、一人では教会にならない。信仰面でも人は一人では生きられないのです。このように考えますと、今私たちがキリストを信じる者として教会に集えているのは、これまで信仰の仲間、信仰の友がいたから。神様が自分に信仰の仲間を与えて下さっていることに、感謝したいと思うのです。

 ところで信仰の仲間として、三種類の仲間がいるとより良いと言われます。先輩、同輩、後輩の三つです。目標となる人、お手本となる人、憧れの人。その人の背中を追いかけていきたいと思う先輩としての信仰の仲間。長い時間、多くの経験、苦楽を共にしてきた人。お互い、強さも弱さもよく知っている同輩としての信仰の仲間。励まし、応援し、仕えてきた人。その人に頼られたら応じざるをえない。その人の前ではしっかりしていたと思う後輩としての信仰の仲間。

皆様は先輩の仲間、同輩の仲間、後輩の仲間として、それぞれ誰を思い浮かべるでしょうか。それぞれ多くの信仰の仲間を思うかべることが出来る人は、この点でとても大きな恵みを頂いている人。私たちはそれぞれ互いに、先輩として、同輩として、後輩として、良い関係を築いていきたいと思います。


聖書六十六巻のうち、一つの書に向き合う一書説教。通算、五十四回目。新約篇の十五回目。今日はテモテへの手紙第一に注目いたします。

 新約聖書は二十七の書が含められていますが、そのうち約半数、十三はパウロが書いた手紙です。その多くは教会宛てですが、個人宛の手紙が四つあり、一書説教ではこれからその四つに向き合います。まずはテモテへの手紙。最晩年のパウロが、後輩テモテに宛てた書。この書に込められた激励、愛、応援したいという思いを感じつつ、読み進めていきたいと思います。

一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。


 宛先のテモテは、どのような人物だったでしょうか。父はギリシャ人、母はユダヤ人。国際結婚で生まれた子、国際的な感覚の持ち主(使徒16章1節~3節)でした。テモテの父については聖書に記されていませんが、母はユニケという名で、テモテの信仰に大きな影響を与えた人として記録されています(Ⅱテモテ1章5節)。主にあって忠実な人(Ⅰコリント4章17節)とか、教会のことを真実に心配する人(ピリピ2章20節)とも評される人。伝道旅行中のパウロに見出され、ともに伝道旅行を経験した人。評判が良く、素質にも恵まれ、パウロに見込まれた有望な人。歳を重ねたパウロがそのテモテに手紙を書いた。何故、手紙を書いたのか。

 Ⅰテモテ1章1節~4節

私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰による、真のわが子テモテへ。父なる神と私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。私がマケドニアに行くときに言ったように、あなたはエペソにとどまり、ある人たちが違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい。そのようなものは、論議を引き起こすだけで、神に委ねられた信仰の務めを実現させることにはなりません。


 エペソと言えば、伝道旅行中のパウロが最も長く滞在した地の一つです。異教文化が力を持つ大都市。そのエペソにて牧師の務めに励んでいるテモテを何とか励ましたい、応援したい。そのため教会に仕えるとはどのようなことか。教会を建て上げるとはどのようなことかを伝えるために書かれたのがこの手紙です。牧会指南書。一般的に牧会書簡と呼ばれます。(テモテへの手紙、テトスへの手紙が牧会書簡と呼ばれます。)


 それでは、どのように教会に仕えたら良いのか。どのように教会を建て上げたら良いのか。その中身ですが、原理原則を教えるものもあれば、具体的、実践的な内容もあります。まずは原理原則から。

 Ⅰテモテ1章15節~17節

「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」


 教会に仕える。教会を建て上げるとはどのような働きなのか。どのような思いで、何に取り組むことなのか。

最も大事なことの一つは「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」というメッセージを真実なものとして伝えること。しかしただ伝えるのではなく、自分こそこのメッセージが必要であると受け止めること。自分こそ、イエス様が必要な者として生きること。これが教会に仕える者として重要であることが示されます。

 パウロと言えば、かつて教会を迫害した人。キリスト者を捕まえ、殺していた人。イエス様から「なぜ私を迫害するのか」と言われた人。パウロ自身、かつての自分のしたことを次のように言っています。

 使徒26章9節~11節

実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。そして、すべての会堂で、何度も彼らに罰を科し、御名を汚すことばを無理やり言わせ、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを迫害して行きました。


 正しく生きようとしたパウロ。しかし自分の判断で生きた結果、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者となっていた。酷い有様。パウロが主イエスを信じる者となった後で、かつてパウロが迫害した者や、殺した者の家族に会った時、どのようなことがあったのか。かつて自分がしたことに、どれ程苦しんだのか。このような歩みをした人であれば、確かに自分を罪人のかしらと言うのは分かる気がします。


しかしよく読んでみますと、パウロは「私は罪人のかしらでした」とは言っていません。「私は罪人のかしらです。」と言います。まさに今、自分は罪人の最初のもの、最たるもの、かしらなのだと言っているのです。多くの地域で福音を宣べ伝え、いくつもの教会を建て上げてきた人。様々な迫害に会い、度々死の危険を味わうも、信仰から離れなかった人。宣教師、神学者、牧師として、誰もが認める働きをした人。しかしパウロ自身は、「私は罪人のかしらです。」と告白するのです。このような自己認識に圧倒されます。

 より正確に言えば、パウロはただ「私は罪人のかしらです。」と言ったのではなく、「私はその罪人のかしらです。」と言います。「その」と言うのは、「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」というメッセージに含められている「罪人」を指す言葉。つまり、神の一人子が人として世に来られたのは、私を救うためであった。私こそ、その救いが必要なものである。真っ先に、最もその救いが必要なのは、私なのだと言っているのです。

 信仰者として生きる上で最も大事なことは何か。教会に仕える、教会を建て上げる上で最も大事なことは何か。何かが出来ることではない。何をやってきたのかでもない。イエス様は私を救うために来られたのだと本気で受け止めていること。「キリスト・イエスは私を救うために世に来られた」というメッセージを真実なものとして受け止めること。

 パウロは、自分を罪人のかしらとし、主イエスの救いが最も必要な者として生きることを、先輩の姿として示しました。この姿は、続く者たちの洗例となるのです。果たして私たちは何を大事なこととして、信仰生活を送ってきたでしょうか。パウロの告白を前に、パウロが示す先輩の姿を前に、よくよく考えてみる必要があります。



自分の罪深さばかり考えている。自己卑下をして、前を向かない。自分など何の役にも立たないとうずくまっている。自分を「罪人のかしら」と認めることは、弱々しくなることだと想像しやすいものです。

ところがパウロが示す自分を罪人のかしらであると考える人の姿は、そうではありません。弱くなるように、自分は何も出来ないと考えるようにとは言いません。むしろ精いっぱい、自分の出来ることに取り組むように勧めます。

Ⅰテモテ4章12節~16節

あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。


 自分を「罪人のかしら」だと思う人が、どうしたら「ことば、態度、愛、信仰、純潔」において、他の人の模範となれるのか。不思議に思います。

 しかし考え見ますと、自分を「罪人のかしら」と思うのは、自分はダメだと思って終わりということではありませんでした。イエス様の救いが必要であることにつながります。そして、イエス様の救いとは、罪人を神の子へと造り変えるものでした。

 つまり自分を「罪人のかしら」だと認めるということは、イエス様は私を造り変えて下さる、私を神の子どもらしい姿へと、教会に仕え教会を建て上げる者へと変えて下さると信じること。自分の力では「ことば、態度、愛、信仰、純潔」において模範となることなど、到底出来ない。しかし、イエス様ならこのような私でも、他の人の模範となる姿へと変えて下さると信じること。その恵みを頼りに生きていくように教えられるのです。

 先輩パウロが、信仰生活を送る上で、教会に仕える上で大切にしてきたことを、後輩テモテに伝える。この信仰の在り方、この姿勢を、私たちも受け止めていきたいと思います。


 牧会指南書という特徴を持つテモテへの手紙。このように原理原則、信仰の姿勢を教える箇所もありますが、その多くは具体的、実践的です。いくつか確認したいと思います。

 Ⅰテモテ2章1節~3節

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。

 教会に仕えるとはどのようなことか。教会を建て上げるとはどのようなことか。パウロが真っ先に勧めるのは祈りでした。祈りが大事というのは良いとして、特に「王たちと高い地位にあるすべての人のために」と言われるのは印象的です。教会は教会のためにあるのではない。教会は地域のため、この世界のためにある。自分のため、自分たちのためだけに祈るのではなく、この世界のために祈るという視点を忘れないように。


 Ⅰテモテ3章1節~5節

次のことばは真実です。『もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。』ですから監督は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、礼儀正しく、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、乱暴でなく、柔和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人でなければなりません。自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会を世話することができるでしょうか。

 長老の資質について教える有名な箇所。私たちが長老就職式を行う際にも確認します。非常に高い基準のように思います。この基準に沿って長老になれる人などいるのかと戸惑うようなところ。しかし、この言葉も自分を「罪人のかしら」としているパウロのものでした。自分の力で、この基準に沿うことを目指すのではない。長老を目指す者は、自分には出来ないけれども、イエス様が召して下さるなら、このように変えて下さると信じるように教えられます。また教会員は、長老の方々が、この基準に沿って生きることが出来るように祈り、励ます役割が与えられていました。


 Ⅰテモテ5章1節~2節

年配の男の人を叱ってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人には兄弟に対するように、年配の女の人には母親に対するように、若い女の人には姉妹に対するように、真に純粋な心で勧めなさい。

 仮に、年上の人が間違っていたとしても叱ってはいけない。親に対するように勧めなさい。教会での仕え方、教会を建て上げる働きとして、これ以上ないほど、具体的、実践的な勧めです。年上の人には親として、年下の人には兄弟として。パウロは教会を神の家族と表現しましたが、神の家族ということがお題目だけとならないように。実際に、家族に向き合うように、真に純粋な心で接することが勧められます。私たちは、信仰の中に、どのような態度で向き合ってきたでしょうか。


 Ⅰテモテ6章7節~10節

私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

 具体的な教えの中でも、この手紙の中でパウロが強調していることの一つは、金銭に対する態度です。金銭を愛することがあらゆる悪の根とまで言い切ります。テモテ自身も気を付けるように。他の人にも注意を伝えるように。金銭に対する態度が、信仰に大きな影響がある。牧会者として歩んできたパウロの、経験に基づく勧めでしょう。金銭が不要ということではありません。金銭は大事でしょう。しかし、金銭を愛することはないように。金銭を追い求めることのないように。この注意喚起に私たちはどのように応じるでしょうか。


 以上、僅かですが具体的な勧め、実践的な勧めをいくつか見てきました。どのように教会に仕えたら良いのか。どのように教会を建て上げたら良いのか。全六章の牧会書簡。書き手のパウロの気持ちになって。受け取り手のテモテの気持ちになって。神の言葉として、私に語られているものとして、この書を読み通したいと思います。

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