Ⅰコリント(26)「賜物~みなの益となるため~」Ⅰコリント12:1~11


私が礼拝説教を担当する際、読み進めてきたコリント人への手紙第一。紀元一世紀半ば、使徒パウロによって書かれた手紙は、コリントの教会について「これが、本当にキリスト教会か」と思われるような問題を次々に明らかにし、私たちを驚かせてきました。

「誰を指導者と仰ぐか」で四グループに分解した仲間割れ。兄弟間のトラブルを教会内で解決できず、この世の裁判所でクリスチャン同士が争うという浅墓な行動。自分の母と通じた者、遊女の元に通う者等、目を覆いたくなるような不道徳。キリスト教信仰を理由に未信者の相手と離婚しようとする教会員がいるかと思えば、徒に結婚を焦る者たちがいたという結婚の問題。偶像にささげられた肉の問題を巡る二グループの対立。

かって、自分が精魂込め建て上げた教会が、かくも悲惨な状態に後退してしまったことを聞き、どれ程パウロは心を痛めたことでしょうか。余りのことに使徒は、彼らをキリストを信じる者、兄弟と認めつつも、幼子の様なクリスチャンと呼びました。


3:1「兄弟たち。私はあなたがたに、御霊に属する人に対するようには語ることができずに、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように語りました。」


「御霊に属する人」とは信仰的に成熟した大人のクリスチャンのこと。しかし、パウロは彼らを「肉に属する人」つまり未だ自己中心の性質を宿し、その影響を深く受けていながらそれに気がついていない未熟なクリスチャン、「キリストにある幼子」と考えていたのです。

コリント人への手紙第一は、コリント教会の問題と教会から送られて来た質問について、パウロが一つ一つ応えてゆくという形で書かれています。使徒はある時は叱り、ある時は励まし、ある時は聖書の教えを示し、ある時は具体的なアドバイスを与えています。それは、まるで親が忍耐をもって、根気強く子どもを育てようとする姿と見えます。すべては、幼子の様なクリスチャンを信仰的に成熟した考え方、生き方へと導くためのことばでした。

しかし、パウロの忍耐はまだ終わりではありません。11章から14章の段落では次なる問題、礼拝における混乱の問題が扱われているのです。コリント教会の礼拝は三つの点で混乱していました。

第一は、当時のギリシャ社会では女性として非常に恥ずかしいとされたこと、かぶり物、ベールなしの格好で礼拝と言う公の場に参加していた女性たちの問題です。男尊女卑の社会にあって、男女対等、女性の自由を主張するその考えは良しとしても、余りにも常識外れで、教会内外の人々の顰蹙をかったその行動を戒め、パウロは「礼拝の場では頭にかぶり物を着けよ」と命じました。

第二は、当時礼拝聖餐式の前に行われていた夕食の交わり、愛餐会の場で、貧しい者が富める者から辱められていたという問題です。そもそも貧しい人々と食べ物を分かちあうという趣旨で始ま         った愛餐会が、富める者は自分たちだけが先に食べて満腹し、貧しい者は空腹のまま放っておかれるという酷い状況だったのです。パウロは、食事に集まる時は互に待ち合わせ、分かち合って食べるよう勧めました。これら二つの問題は前の11章で扱われていて、私たちは9月の2回の礼拝で学んできたところです。

そして、今日から読み進める12章から14章の段落で、第三の問題をパウロは扱っています。御霊の賜物の問題でした。この問題が最後に、最も長く扱われているのは、賜物を巡る問題が最も深刻で難しい問題だったからでしょう。

ところで、何かにつけ対立し争う傾向のあるコリントの人々ですが、この御霊の賜物についても、争っていたらしいのです。教会の礼拝の場で賜物自慢、どちらが優れた賜物の持ち主かを競っていたらしいのです。特に熱狂的に祈ったり、不思議なことばを語り賛美するという異言の賜物を与えられた者は、時も場所もわきまえず行動したため、著しく礼拝を混乱させていたと思われます。

それに対してパウロは、御霊、聖霊は特別な賜物を持つ少数のクリスチャンにとどまらず、イエス・キリストを主と信じるすべてのクリスチャンに与えられていると語り、賜物自慢のコリント人の鼻をくじきます。


12:13「さて、兄弟たち。御霊の賜物については、私はあなたがたに知らずにいてほしくありません。ご存じのとおり、あなたがたが異教徒であったときには、誘われるまま、ものを言えない偶像のところに引かれて行きました。ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」


「賜物自慢のコリント人たち。あなたがたも異教徒であった時は、偶像を礼拝するしかなかったでしょう。神の御霊、聖霊をあたえられているからこそ、あなたがを含めすべての人は、イエス・キリストを主と告白することができるのですよ。」特別な賜物、能力を持つ自分たちだけが、聖霊を与えられたクリスチャンであるかのように思い込む者たちに、キリスト教信仰の基本を教え、くぎを刺すパウロのことばです。

なお、「イエスは、のろわれよ」というのは、旧約聖書にあることば「木に吊るされた者は、神にのろわれた者である」(申命2123)をもとに、キリスト教迫害者が唱えた決まり文句、あるいは彼らがクリスチャンに棄教を迫った際、強いて言わせようとしたことばと考えられます。

また、これと同じ教えは他にも見られますが、一つだけ確認しておきましょう。


Ⅰヨハネ42,3「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」


ヨハネは御霊を神からの霊と言っていますが、同じ真理を示していることが分かるでしょうか。私たちは「イエスは主です」という信仰の告白によって、私たちの内に聖霊がいますこと、罪赦され救われた者であることを確認、確信できますし、すべきなのです。

 こうしてイエス・キリストを信じる者はすべて聖霊を与えられていることを確認した上で、パウロはいよいよ御霊の賜物を数えてその豊かさを示してゆきます。と同時に、すべての賜物が唯一の神から来ることも押さえているのです。


12:47「さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます。皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」


ここには「賜物、奉仕、働き」と別々のことばが並んでいますが、ひとつのことを三つの面から見た表現です。聖霊が与えた賜物は人に奉仕の心を生む。奉仕の心は教会の働きとなって現れるということでしょう。面白いことに、同じ表現が神についても使われています。賜物は聖霊に、奉仕は主イエスに、働きは父なる神と結ばれていました。「御父も神であり、御子イエスも神であり、聖霊も神である。しかし、三つの神ではなく一つの神である。」という古の教会が告白した三位一体の教えがここにもあること、すべての賜物、奉仕、働きが神の恵みであることが確認できます。

 次にパウロは、神が賜物を与える目的について「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられている」と語っています。今日本で行われているラグビーのワールドカップ、日本代表の活躍から目が離せません。このラグビーの精神が「ワンフォーオール、オールフォーワン」「一人がみんなのために、みんなが一人のために」であることは有名です。もしかすると、ラグビー精神の源もこの聖書のことばにあるのかもというのは考えすぎでしょうか。

 こうして、以下個々の賜物があげられてゆきますが、これらは当時のコリント教会で顕著に見られた賜物であり、まだ聖書が完結する以前の時代の教会に特有の賜物が多いとされます。


12810「ある人には御霊を通して知恵のことばが、ある人には同じ御霊によって知識のことばが与えられています。ある人には同じ御霊によって信仰、ある人には同一の御霊によって癒やしの賜物、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。」


これらの賜物については、実際どの様なものであったのか良く分からない賜物もありますが、一般的には三種類に区分され、説明されています。第一は知的賜物で、知恵のことばと知識のことばの二つ。第二は信仰的賜物で信仰、癒し、奇跡の三つ。第三はことばの賜物で、預言と霊を見分ける力、異言と異言を解き明かす力の四つとなります。

第一グループの知識のことばは神のみ心を理解する能力で、知恵のことばとはそれを実際の教会生活や活動に適用する能力と考えられています。

第二グループの信仰とは、すべてのクリスチャンが持っている救いの信仰ではなく、目覚ましいわざをなす信仰のこと。癒しの賜物は病人をいやすの能力で、奇跡の賜物とは悪霊を追い出すなど力あるわざをなす能力です。癒しが神の優しさを示すとすれば、奇跡は悪の力に対する神の厳しさを示すとされます。

第三グループの預言というのは、神から直接示された教えを人々に語る能力であり、霊を見分ける力は、教えを語る人が真の預言者なのか、偽預言者なのかを見分ける能力です。異言については外国語、ある地方のことば、本人にしかわからない、あるいは本人にもわからない特殊なことば等様々な説明がありますが、一つに限定するのは難しいようです。最後の異言を解き明かす力は文字通りの意味ですが、パウロは後のところで、異言は解き明かす人がいなければ皆の益にならないとして、コリントの教会で人気があったこの賜物を預言よりも劣る賜物と見ていました。

以上九つの賜物で、これで全部という訳ではなかったでしょう。しかし、これを見ただけでも神がコリント教会に与えた賜物は何と豊かであったことか。もし、これが争いの元にならず、正しく用いられていたらコリント教会の働きはどれ程祝福されたことか。そう思うと残念でなりません。

最後に使徒は、多種多彩な賜物ももとをたどれば一つの御霊から来ると結び、コリント教会の人々の心を競い合うことから協力すること、一致に向けようとしています。


12:11「同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。」


コリントの教会に与えられた多種多彩な賜物の多くは、今日の教会には見られません。その当時は、神の教えがすべて示されておらず、まだ聖書が完結していない時代でしたから、使徒や預言者という直接神の教えを受けた人々が存在していました。他にも、教会の語ることばが本当に神の教えであることを示すしるしとして、目覚ましい信仰のわざや癒し、奇跡などを行う信仰者が存在していたようですし、そうした賜物が必要な時代であったのでしょう。

しかし、その様な時代は過ぎたとしても、イエス・キリストを信じる私たちの内にも聖霊はおられます。今の時代においても、私たちに最もふさわしい賜物を、神は一人一人に与えておられるのです。ともに生きる兄弟姉妹に益をもたらす賜物、礼拝、伝道、教育、交わり、あわれみのわざ等、教会の働きを進めてゆくための賜物が、誰一人例外なく、四日市キリスト教会に集められたすべての人、一人一人に与えられていること、皆様は信じているでしょうか。

もし、このことを信じるなら、私たちが心がけるべきことが二つあると思います。

第一は、神が自分に与えてくれた賜物は何かを考えることです。礼拝を整えること、伝道に関すること、教育に関すること、交わりの場を整えること、病気の方や生活に困難を覚えている方々へのあわれみのわざ、建物の財産の管理。皆様の関心や興味はどの分野にあるでしょうか。教会の働きのため兄弟姉妹を助けるため、自分ができることは何か考える時間取っているでしょうか。

私たちは神の賜物の管理者です。管理者は神の賜物を無駄にしてはいけません。自分の年齢や経験、自分に与えられた情熱、能力、健康、時間、財産等をふまえつつ、今この時この場所で用いるべき賜物は何か、自分のできる働きは何かを考えることが管理者のつとめではないでしょうか。折角の賜物も自分の手元に置きっぱなし、宝の持ち腐れにならぬように心がけたいのです。

勿論、現実の中で私たちにできないことは沢山あります。思い通り計画通りに進まないこともあるでしょう。しかし、自分は何でもできると考えることも、逆に自分は何にもできないと思うことも、信仰的に未熟、キリストにある幼子の考え方と言えます。

むしろ、そうした中で自分にはできないことを受け入れる謙遜さ、自分ができないことを人にお願いし助けを求める謙遜さを身につけたいと思います。それと同時に、自分に出来ることを見出し、少しずつでも広げてゆく努力を重ねてゆきたいとも思うのです。それが成熟したクリスチャン、神の忠実なしもべの姿ではないでしょうか。   

第二は、お互いの働きを認め合い、励まし合うことです。紳士のスポーツと言われるラグビーは、激しい戦いのスポーツでもあります。しかし、試合が終わったら勝者は敗者をたたえ、敗者もまた勝者をたたえるのが暗黙のルールとされます。勝ち負けよりも、お互い力を尽くして戦った者同士認め合うこと、たたえ合うこと重んじるのがラグビーと言うことでしょう。

教会も同じではないでしょうか。一人一人がなした奉仕、働きを、それがどんなに小さなものであれ認め合う、感謝し励まし合う。「自分の方がよく働いた、自分の賜物の方が重要だ」と争うのではなく、お互いの奉仕、働きを認め合い、励まし合うことを何よりも大切にする。物事が上手くいってもいかなくても、お互いを認め合い励まし合うことを忘れない。そんな四日市キリスト教会になりたいと思うのです。

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