アドベント「キリストの献身を覚えて~ヨセフの献身~」マタイ1:18~25
待降節になり、私たち皆で救い主の誕生を祝うクリスマスへ歩みを進めていきたいと思います。
神の一人子が人として生まれた。神が人となられた。およそ人間には理解出来ない出来事。無限の方が有限の存在へ。時間を作られた方が、時間の流れる世界へ。全知全能の方が、人間の赤子として生まれた。約束の救い主の誕生。それも罪人の身代わりとして死ぬために生まれた。神様の献身、キリストの献身、この奇跡中の奇跡が、私を罪から救うためになされた。私たちは、この福音をどれだけ真剣に受け止めているでしょうか。
その救い主の誕生は、「昔々、あるところで、桃から生まれたとか、竹から生まれた」というのではありません。いつ、どこで、誰から生まれたのか、聖書は明確に記しています。救い主の誕生には、様々な人が関わり、その誕生に信仰を持って応答した人たちが多くいました。世界の造り主が、罪人を救うために、ここまでしようとされている。その献身に心打たれた人たち。今年の待降節では、そのような人たちに注目しつつ、私たちもキリストの献身を前に、どのように神様に仕えていくのか。どのように自分の人生を用いていくのか。自分自身の献身を考えていきたいと思います。礼拝に集う全ての人にとって、この待降節の歩みが良いものとなりますように、祝福を祈ります。
聖書の救い主誕生の記録には様々な人が登場しますが、待降節の第一週、最初に注目するのは、イエスの父に選ばれたヨセフです。
約束の救い主の親に選ばれたヨセフとマリア。母マリアに関して、聖書は所々、言葉や行動、考えたことを記録しています。イエスが死ぬ時にも母マリアは健在で、イエス様は十字架上から母マリアに話しかけています。ところが父ヨセフに関しては、イエスが公に活動を開始してからは登場することなく、そのため記録が僅か。どのような人物であったのか、あまり分かりません。(聖書には記述がないですが、伝承ではイエス様の公の活動の前に死んだとされています。)
ただし全く不明なのではなく、分かることはいくつかあります。
住まいはガリラヤのナザレ。都エルサレムから百キロ強離れた田舎町です。ガリラヤと言えば、預言者イザヤによって「異邦人のガリラヤ」「やみの中」「死の陰の地」(イザヤ9書1節~2節)と言われた地域。ナザレと言えば「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1章46節)と言われるような町。当時のユダヤの社会では、期待されず、見下げられているようなところです。
ヨセフの職業は大工でした(マタイ13章55節)。大工の技量がどれ程のものだったか分かりませんが、少なくともマリアがイエスを生む段階では、貧しかったことは分かっています(ルカ2章22節~24節)。それでも、イエス様が生まれた後、マリアとの間には六人以上の子どもがいました(マタイ13章55節)。田舎町の大工。貧しいながらも、必死に働いて家族を支えた。イエス様自身、大工でしたので、ヨセフは大工の技を子どもに教えていたことも分かります。
マタイの福音書にはヨセフは「正しい人」であったと記されています。これは聖書の教えを守り行う生活をしていた人という意味です。(罪がないという意味ではありません。)おそらく、ヨセフの両親が、聖書のこと、信仰のことをよく教えたのでしょう。ヨセフ自身も聖書に従うことを良いものとして生きた。聖書に精通し品行方正で信仰心篤い人物。ユダヤ人の社会の中で好まれ、尊敬されるような人柄であったと思います。
またマタイの福音書の冒頭に記されたキリストの系図は、そのままヨセフの系図でもあります。親から系図を引き継ぎ、自分自身がダビデ王の子孫に当たることも知っていました。(そもそもヨセフが、自分の系図を正しく引き継いでいたので、マタが系図を記すことが出来たと言えます。)
由緒正しきダビデ王家に属する者。しかし、都エルサレムから離れた、良いところなしと思われていた田舎町で大工として生きる状況。それでも、世を恨み、自暴自棄に走るのではない。世が世なら、自分は高い地位に就いていたのにと腐ることもない。貧しい中でも、自分の出来ることを見出し、神の民として精一杯生きている善良な人。ヨセフ自身、神様が約束していた救い主の到来を待ちながら、生きていたでしょう。
このヨセフに、大変な事態と、使命が与えられたというのが今日の聖書箇所です。
マタイ1章18節~19節
「イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」
ヨセフはマリアと婚約中でした。当時の一般的な婚約期間は約一年。男性は十代後半、女性は十代前半に婚約したと言われます。
今の私たちが考える婚約は、結婚の備えの最終段階。婚約中に、結婚するのはこの相手ではないと思えば、そのまま結婚するより、婚約を破棄する方が良いと考えます。当時のユダヤの婚約は、今の私たちが考える婚約よりも結婚に近いもの。実際に夫婦として生活すること(一つの家に住むこと、性的関係を持つこと)はないものの、社会的には結婚しているとみなされました。そのため、今日の箇所でも、ヨセフのことは「夫」、マリアのことは「妻」と記しています。
自分には覚えがなく、婚約中の相手が妊娠した。ヨセフの受けた衝撃、狼狽はどれ程のものだったかと思います。
マリアの妊娠を、ヨセフはどのように知ったのか。聖書は記していません。マリア自身が伝えたのか。他の人が伝えたのか。
ルカの福音書によれば、御使いから救い主を産むことを告げられたマリアは、エルサレムにいる親類のエリサベツのもとに向かいます。エリサベツとのやりとりを経て、御使いの宣言が真実であることの確信を強めます。マリア自身、そしてマリアの親類は、聖霊によって身籠ることを受け入れることが出来た。
しかし、ヨセフの立場で考えるとどうでしょうか。マリアあるいはエリサベツは、ヨセフに対して「聖霊によって身籠った」と伝えることが出来たでしょうか。仮に、マリア自身がヨセフに伝えたとして、ヨセフは受け入れることが出来たでしょうか。
婚約中の相手が妊娠した。それは相手が自分を裏切ったのか。あるいは乱暴されたのか。ヨセフからすればどちらも悲劇ですが、「聖霊によって身籠った」と言われたら、この相手は、自分を裏切る上に、謝ることもしないとしか思えない。聖書に従って生きてきた。大工の技術も身につけ、家族を養う備え、結婚の備えも出来た。大切な相手を見つけ、婚約して、結婚を待つばかりの状況。一般的には幸せのただ中にあって、絶望的な思いを味わうことになるヨセフ。
婚約中の相手が妊娠した場合。対応は大きく二つです。
一つは、その社会の中で、起こった出来事を訴え出て、自分に非がないことを明らかにすること。この場合、聖書で教えられた定めを厳密に行えば、不貞をおかした者は石打ちで死刑(申命記22章13節~22節)となります。厳密に聖書の定めを適用しないとしても、不貞をおかした者は、その社会の中で真っ当に生きることが難しくなる、晒し者として生きることになります。
もう一つは、ひそかに婚約を解消すること。この場合、相手が晒し者とはならない代わりに、自分にも非があるとみなされる危険があります。相手を社会的に守ると同時に、自分が社会的に傷を負う危険性がある。
ヨセフはどうしたのか。悩みつつ、マリアを晒し者にはしたくない。内密に婚約を解消しようと決意しました。この決断もヨセフの人柄が表れていると思います。自分を裏切ったとしか思えない状況で、それでも出来る限りはマリアを守ろうとする。失望や怒りにまかせてマリアを責めるのではなく、自分も社会的傷を負う可能性がありながら、内密に去らせよとした。苦悩の中でも、ヨセフの優しさが光ります。
このヨセフに神様は御使いを送られました。
マタイ1章20節~21節
「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」」
御使いがヨセフに告げた内容をまとめると、マリアが身籠っているのは聖霊の力によること。マリアは男の子を産むこと。その子は「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」であること。だから、恐れないでマリアを受け入れ、その子に名をつけるように命じます。
この御使いの言葉は、ヨセフにはどのような意味があるでしょうか。ヨセフはどのようにこの言葉を聞いたでしょうか。
マリアの妊娠は、不倫でも、乱暴されたことによるのでもない。この知らせを受けないまま、婚約解消していたら、マリアに対する疑念は残ったままになる。愛する人に裏切られた傷を抱えながら、怒りや憎しみと戦いながら生きることになる。この知らせを聞くことが出来たのは、ヨセフ自身にとっても幸いなこと。慰め、安堵の言葉でした。
またヨセフは聖書に精通した人物です。この御使いの言葉で、マリアが生む子は、普通の子ではないこと。この御使いの言葉で、約束の救い主が誕生することを理解したでしょう。神様が罪人を救って下さる。神様が私を救って下さる。その約束が、救い主の誕生によっていよいよ実現する。聖書に精通し、聖書を信じる者にとっては、これ以上ない程、重要な良き知らせでした。
さらに言えば、救い主はダビデの子孫として生まれると教えられていました。そして御使いはヨセフのことをわざわざ「ダビデの子ヨセフ」と呼んでいます。つまりヨセフからすると、ダビデの子孫である自分が、マリアを受け入れ(結婚し)、その子に名をつける(息子とする)ことで、法的にその子をダビデの家系に連ならせる意味があること。ここで自分がマリアを受け入れ、その生まれる子の父となることが、約束の救い主はダビデの子孫から生まれるという約束が成就することにつながる。
つまり、ヨセフにとってこの御使いの言葉は、慰め、安堵の言葉であると同時に、重要な使命を託された言葉であったということ。約束の救い主の父の役割を担うように。そのことを通して、神様の約束が成就するのだと言われたのです。
自分がヨセフの立場であったとしたら、この御使いの言葉に、どのように応じたかと考えるところ。果たしてヨセフは、この御使いの言葉にどのように応じたでしょうか。
マタイ1章24節~25節
「ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」
ヨセフの立場を考えますと、与えられた使命を果たすことは大変なことだったと思います。婚約中に妊娠した女性を妻とする。ヨセフ自身はそれが聖霊によると理解しても、周りにいる人々にはどのように思われるのか。田舎の貧しい大工である自分が、約束の救い主の父となる。どのように育てたら良いのか。どう考えても力不足。
それでもヨセフは、命じられたとおりにマリアを迎え、子どもに名前を付けます。困難、力不足と思われても、それでも神様に従う。神様が罪人を救う、その恵みの大きさを前に、自分も与えられた使命に献身をしていく。このヨセフの決断によって、救い主はダビデの子孫であるということが成就するのです。
ヨセフの献身によって、神様の言葉が成就した。これは非常に興味深く、よく考えるべきことです。
ヨセフが、マリアを受け入れ、子に名前を付けたので、預言が成就した。ということは、ヨセフがマリアとの婚約を解消していたら、神の言葉は成就しなかったのでしょうか。神様は真実な方ではないということになったのでしょうか。そうではないでしょう。神の言葉は必ず実現します。(そのような想定はおかしい気がしますが)仮にヨセフがマリアを受け入れなかったとしたら、他の方法でイエス様がダビデの子孫となったのでしょう。しかし、神様はヨセフが使命を果たすことを願い、その献身を用いられたのです。
神の言葉は必ず実現する。その実現に、信仰者の献身を、豊かに用いられる。罪人を救うという神の一大事業に、ともに働こうと、神の民を召して下さる。私たちの神様は、このような方であることを、今朝改めて再確認したいと思います。
この一連の出来事を、マタイはイザヤ書を引用しつつ「インマヌエル」とまとめました。
マタイ1章22節~23節
「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」
キリストの誕生とは、神の一人子が人となること。罪人の身代わりとして死ぬために生まれること。人間が神様から離れたのに、神様の方から人間を救うために手をうって下さったこと。そして、救い主を信じる者は、神様と交わる者となる。つまり、キリストの誕生とは、まさに「神様が私たちとともにおられる」ことを意味するもの。主イエスの誕生は、まさに「インマヌエル」という出来事。
しかし「救い主が生まれる」ということだけが、神が私たちとともにおられることを示す出来事ではありません。マタイは「この全ての出来事は」として、神様のヨセフに対する取り扱いも、インマヌエルの出来事だと示しました。
神様は、ヨセフが混乱し狼狽している時、絶妙のタイミングで御使いを送り、その混乱を取り除き、使命を与えて下さった。神様は、信仰者の献身を豊かに用いて下さる。「主イエスの誕生」だけでなく、神様が神の民を守り、励まし、用いて下さることも「神様が私たちとともにおられること」を意味するというのです。
皆様は、どのような時に、神様は私とともにおられることを感じてきたでしょうか。確かに、神様は私とともにおられると味わったのは、いつのことでしょうか。
待降節を過ごしている私たち。今日の箇所を通して、私たちの神様は、神の民を守り、励まし、導かれる方であること、私たちの献身を豊かに用いて下さる方であること、私たちの神様が確かに「インマヌエル」な方であることを再確認したいと思います。
神の一人子が人として生まれた。神が人となられた。それも私の身代わりとして死ぬために生まれた。神様の献身、キリストの献身、この奇跡中の奇跡が、私のためになされた。この福音、この恵みをしっかりと受け止めたいと思います。
その上で、その恵みに応じること、自分に与えられている使命に生きる決心を新たにしたいと思います。神を愛し、隣人を愛すること。遣わされた場所で、地の塩、世の光として生きること。キリストを宣べ伝えること。教会を建て上げることに取り組むこと。今の自分が、特に取り組むように導かれていることは何か。困難、不安、力不足と思われることでも、神様に従うことが最も安全であり、幸いであること。私たちの献身を、神様は豊かに用いて下さることを覚えつつ、次週を迎えたいと思います。
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