アドベント「ただ礼拝するための旅~博士たちの献身~」マタイ2:1~12


イタリアのミラノ大聖堂、カナダのバンフ国立公園、エクアドルのガラパゴス諸島、ナミビアの砂漠、オーストラリアのグレートバリアリーフ、中国の万里の長城。皆様は、これが何だか分かるでしょうか。日本人が一度は旅行に出かけたいと思っている、人気の観光地だそうです。「自分も言ってみたいなあ」と思う場所、「既に行ったことがある」その様な場所があるかもしれません。

私たちはしばしば旅に出ます。観光旅行もその一つですが、他にもビジネスマンは商売のために、政治家は外交のため等様々な理由があるでしょう。

どうしても会いたい人がいるということも、人を旅へと駆り立てる理由かもしれません。私の知人は初孫の誕生を聞き、一目見たいと思い、ブラジルのサンパウロに出かけて行きました。腰痛と心臓病を抱える知人にとって、飛行機を乗り継いで片道二日もかかる地球の裏側への旅。大変な不安もあったでしょうが、孫を一目見たいという思いが彼の心を動かしたようです。


ところで、およそ二千年前救い主が生まれた時、ユダヤのベツレヘムに、遥々東の国から旅をしてきた人々がいたと聖書は語るのです。


2:1「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東の方から博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」


当時のユダヤは、大ローマ帝国の片隅にある弱小国。有名な観光地もなければ、政治と経済の中心地でもない。そんな国にはるばる旅をしてきた博士たち。一体何の用があって、彼らはやって来たのでしょうか。博士たちはこう語ります。


2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」


博士たちは「ユダヤ人の王として生まれた方の星」を見たと言います。この星とは何のことか。よく言われるのは、地球から見て土星と木星が重なる時に放たれる特別な光、惑星直列と呼ばれる現象ではなかったかと言うことです。

当時の天文学では土星はユダヤを、木星は王を示す星と考えられていました。実際紀元前の7年頃、この地方で特別な星の光が観測された記録が残されており、イエス様誕生の時期と重なります。恐らく東方の国とは現在のイラクかイラン。博士たちは星の研究をしていた学者か祭司であり、宮廷で王の相談役、顧問として重要な仕事をしていた人々と考えられます。

それにしても、博士たちは、聖書が教える救い主のこと、救い主がユダヤの王として生まれることをどの様に知ったのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、当時この地方には、イスラエルの子孫が散らばって生活をしましたから、彼らを通して旧約聖書を知り、聖書の教える神と救い主の存在を信じる人々が存在していたと言われます。 

博士たちも、そんな信仰者たちの一人であったのでしょう。神が与えてくださる救い主がこの世界に生まれる日が本当に来る。その方はユダヤの王として生まれる。このことばを頼りに、東の国で救い主の誕生を待ち望みつつ、日々仕事をし、生活を営んでいたと思われます。

そんなある夜、彼らは特別な光を放つ星を観察することになります。これを神の導きと受けとめた博士たちは、この出来事に心動かされユダヤへと旅立ちました。どれほど、彼らが神のことば、を信じていたか、救い主の誕生を待ち望んでいたかが伝わってきます。

それにしても、この旅は大変なものでした。博士とは宮廷で王に仕える重要な仕事。旅に出るには長期の休暇が必要であり、ましてその理由が救い主を礼拝するためというのですから、彼らの願いが簡単に認められたとは考えられません。

また、長い旅を続けるための食料など物資の準備。黄金、乳香、没薬という贈物の用意。加えて、旅の途中、強盗から身を守るためのガードマンを雇うなど、大変な時間と費用が必要であり、命の危険をも覚悟しなければならない旅でもあったのです。


しかし、困難はそれにとどまりませんでした。ユダヤの都エルサレムに到着すると、彼らが落胆するような出来事が待っていたのです。ヘロデ王は救い主のことを知らず、宗教家たちも聖書の救い主預言は知っていましたが、救い主が誕生したことを知らなかったからです。


2:3~8「これを聞いてヘロデ王は動揺した。エルサレム中の人々も王と同じであった。王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれています。『ユダの地、ベツレヘムよ、あなたはユダを治める者たちの中で決して一番小さくはない。あなたから治める者が出て、わたしの民イスラエルを牧するからである。』」そこでヘロデは博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時期について詳しく聞いた。そして、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出した。


 ヘロデはユダヤ人が嫌う異邦人の王でした。しかも、権力欲の塊で、自分の地位を脅かすと思われる者は妻であろうと、子であろうと、容赦なく抹殺しました。「ヘロデの子どもであるより、ヘロデの豚であるほうが安全だ」。ヘロデをいかに恐れられていたかを示すことばです。

ですから「幼子のことが分かったら知らせて欲しい。私も行って拝むから」ということばは、口実にすぎません。将来邪魔になるであろう子どもを、一刻も早く抹殺したいというのが本音でした。

また、本家本元の神の民、ユダヤの宗教家たちは、聖書の預言について知ってはいても、救い主が誕生したことを知らず、慌てふためくばかり。博士たちは、彼らの不信仰に、どれ程がっかりしたことでしょうか。

しかし、それでも彼らの心は挫けることはありませんでした。神が彼らとともにおられたからです。用いられたのは故郷で見たあの星です。


2:9~10「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

星が博士たちの行く道を先導し、幼子のところまで進み、その上にとどまったとあります。もし、この星の導きがなかったら、どうだったでしょう。幼子の捜索は困難を極め、博士たちは迷い、ついにあきらめることになったかもしれません。

暗い夜空のもと、歩みゆく異国の道。道を照らすひとつの星。星を仰ぎ、導かれてゆく博士たち。この不思議な星の動きに、神の導きと守りを覚えた彼らは、非常に喜んだとあります。

インマヌエル。神はいつも私たちともにおられる。クリスマスの大切なメッセージをこの個所にも確認することができます。私たちの人生にも、先の見えない暗い道を、ひとり心細く歩む時があると思います。しかし、そのような時でも、神はともにいてくださり、私たちを守って下さる。博士たちの喜びを、私たちも感じることができる所ではないでしょうか。

そして、ついに博士たちは念願の救い主をその目で見ることになります。


 2:11「それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」


母マリヤとともにいる幼子。これが西洋絵画の一大テーマで、多くの画家が母子の姿を描いていることは、皆様もご存知のことと思います。中にはマリヤとイエス様を非常に美しく描いた作品もありますが、実際は若く貧しい夫婦とごく普通の幼子でした。

救い主とその家族の、余りにもの貧しさに彼らは驚いたことでしょう。しかし、彼らはこの幼子を救い主として礼拝しました。黄金は王に対するささげもの。乳香は祭司に対するささげもの。没薬は死者に対するささげもの。博士たちはイエス様がどのような生涯送られるのか、おぼろげながらも知っていたのでは、とも言われるところです。こうして念願の礼拝をささげた彼らは帰途につきます。


2:12 「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。


夢で神からヘロデに関する警告を受けた博士たちは、無事故郷に帰ることができました。往路は星の光によって、復路は警告によって。行きも帰りも、神が彼らを守り導いたことを聖書は証言しています。


最後にもう一度確認しますが、博士たちの旅の目的とは何だったでしょうか。観光でしょうか。外交や経済的取引の為だったでしょうか。家内安全、商売繁盛、無病息災。いわゆる御利益の為だったでしょうか。そうではありませんでした。

「私たちは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに、つまり礼拝しに来ました。」と語っている通り、彼らは「救い主を礼拝する」、ただそのためにのみ、はるか遠い国から困難な旅をしてきたのです。

この世の常識から言えば何のご利益もない旅。多くの時間と費用をかけ、命の危険をも覚悟しなければ出来ない旅。その目的はただひとつ、生まれたばかりの赤ん坊の救い主を礼拝することのみ。それ以外の目的は一切なしでした。

しかも、自分達の苦労や犠牲を理解し、認め、報いてくれる能力など期待できない幼子のために、黄金、乳香、没薬をささげると、このただ一度の礼拝を喜び、満足して、帰途についたと言うのです。

 救い主のために、博士たちが払った犠牲とささげた礼拝。これを献身と言わずして、他に何と言うのでしょうか。

博士たちにとって、救い主とはこれ程身も心もささげるに価するお方。彼らが何よりも大切にしていたもの、第一に献身すべきと考えていたものは、王でもなく、国でもなかった。ましてや、財産でも社会的な地位でも安全でもなかった。聖書に約束された救い主こそ、最高の献身の対象だったのです。

果たして、私たちにとって、イエス・キリストは献身の対象でしょうか。実際のところ、私たちが身も心もささげている対象は何なのでしょうか。自分の財産、自分の地位や肩書、自分の評判、自分の正しさが私たちの心を占めていることはないでしょうか。私たちにとって、イエス・キリストに仕え、献身することが、人生における最大の関心でしょうか。それとも、第二第三の関心事でしょうか。

また、博士たちの様に、イエス・キリストを礼拝することは、私たちにとって喜びでしょうか。例え、他のことができなくても、大切なものを犠牲にしたり、失ったとしても、イエス・キリストを礼拝するという、ただこの一事で満足することはできるでしょうか。主イエスを礼拝すること、主イエスの愛を受け取ること以上に、私たちの心を満たすものはないと言えるでしょうか。

東方の博士たちの姿を通して、改めて私たちも、実際のところ自分が献身している対象について、考える必要があるかと思います。主イエスへの献身、主イエスとの関係が、人生の中でどれ程重要なことなのかを振り返り、真の献身の歩みを目指したいと思うのです。

 もうひとつ。博士たちの献身、博士たちの礼拝の奥にあるもの。それは神のことばへの信頼、神の守り、神の導きへの信頼であることを確認しました。

 私たちは信頼していない人に献身することはできません。いつでも共にいてくださる神の守りと導きを信頼していなければ、神に従い、献身することはできないのです。

たとえ、この世の人が知らなかったり、無関心であったとしても、神のことばは必ずなると信じる。たとえ、困難な状況にあっても、歩む道が暗くとも、先が見えなくとも、神の臨在と守り、導きに信頼する。神への信頼、神の愛への信頼が、献身の歩みを進める力であることを確認し、あの東方の博士たちの姿を、心に刻みたいと思うのです。今日の聖句です。


ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

コメント

このブログの人気の投稿

レント「十字架と復活へ向けて(2)~小さい者たちの一人にしたこと、しなかったこと~」マタイ25:31~46

レント「十字架と復活へ向けて(3)~激しく泣いた~」マタイ26:31~35,69~75

ウェルカム礼拝「神の恵みによって造られた『私』を生きる」Ⅰコリント15:9~10