クリスマス「あなたがたのために救い主が~羊飼いたちの献身~」ルカ2:8~20


今朝は待降節の礼拝、第四回目です。ところでクリスマスといえば、登場する人物は多彩でした。ザカリヤとエリサベツの老夫婦。み使いガブリエル。マリヤとヨセフの若き夫婦。先週確認したのは、ユダヤの王として生まれた救い主を礼拝するため、遥々旅をしてきた東方の博士たちと、幼子を抹殺しようとした暴君ヘロデです。但し、東方の博士たちが幼子主イエスの元を訪れたのは、主イエスの誕生からおよそ一年後のこと。それに対して、今朝読みましたところは、主イエス誕生のまさに当日の出来事でした。

ルカの福音書は、ローマ皇帝アウグストゥスが住民登録の勅令を出した頃、ユダヤの国では人々が移動し、ヨセフとマリヤも住民登録の旅に出ると、ついにベツレヘムでマリヤが幼子イエスを産んだと語ります。


2:4~7「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」


飼い葉桶に生まれ十字架上に死す。主イエスの生涯は最初から最後まで、貧しさの中にありました。社会の上の方ではなく、下の方を、それも下の下、社会の底辺に生まれ、底辺で死なれた人、それが主イエスだったのです。

もしも、この宇宙の作り主の神が人となってこられたとすれば、ローマの都の王様や貴族の家に、それも最上のベッドの上にと、私たちは予想します。それがローマの都どころか、小国ユダヤにあるベツレヘムという寒村に、それも、宿屋から見向きもされない貧しい女性から、そして、所もあろうに、家畜の汚物で汚れた飼い葉桶であったとは驚いてしまいます。

それでも、人となってこられたと言うのなら、庶民、凡人とは異なる、豪華絢爛たる姿でかと思いきや、ただの赤ん坊、布にくるまれた全く普通の赤ん坊の姿であったと言うことに、意外や意外と感じます。

ところで、私たち人間は自分が生まれる家庭や場所を選ぶことはできません。皆そこに生まれるべくして生まれるのです。しかし、神は違います。世界の造り主が人として生まれるからには、どこに、どのようにしてと選ぶことができるでしょう。そうだとすれば、神は何故美しい御殿の様なところではなく、人間にこき使われる動物が餌を食べる飼い葉桶という、世界中で最も不潔な場所を選ばれたのでしょうか。

私たちはみな上を目指して生きています。より力ある者、より裕福な者、より快適な生活を送る者、より周りに認められる者になることを願います。そのために努力するのです。より高く、より上にと言う生き方です。それに対して、神はより低く、より下にと飼い葉桶に降りてこられました。全く逆方向です。人間は少しでも人より上を目指しますが、神は最も貧しく、最も力なき者を守り、仕えるために、社会の底辺を目指してこられた。これが、神が飼い葉桶に生まれ、十字架に死なれた意味なのです。

主イエスの母マリヤは、この神のへりくだり、神の選択について、この様に歌いました。


1:51~54「主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。」


社会の上の方で威張り、贅沢な生活をしている、心高ぶる者を退け、ひたすら、力なき者、貧しい者のために仕える神。それが、この日生まれた幼子イエスという救い主だったのです。

さて、今朝読みました箇所には、マリヤやヨセフと同じく、貧しい者、力なき者である羊飼いたちが登場します。幼子が生まれた夜、羊飼いたちが仕事をしている所に、み使いが現れたのです。


2:8~10「さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」


寒き夜。羊を襲う獣から大切な羊を守るため、交代で警戒に当たる羊飼いたち。昼間は羊たちを草場や水飲み場に導き、夜は夜で羊のため夜番に当たる。羊飼いとは息つく暇もない肉体労働でしたが、世間の評判はすこぶる悪かったようです。

何故なら、当時神を信じる人が大切にしていた安息日の礼拝にも、都での宗教的な祭りにも、彼らは出席することができませんでした。また、羊飼いの中には人の羊を盗んで我が物にする羊泥棒も多く、彼らには法廷で証言する資格も認められない程信頼されていなかったからです。

もし、皆様が救い主の誕生という大切な知らせを託すとしたら、誰を選ぶでしょうか。神殿に仕える貴族か、人々から尊敬されている宗教家か。人々に影響力のある聖書の学者か。間違っても、社会の底辺に生きる者、信頼されること少ない羊飼い等選ばないと思うのです。

けれども、そんな羊飼いに向かって、さらにみ使いは神のことばを告げました。


2:11~12「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」


昔日本では、生まれたばかりの赤ん坊を、新芽や若葉の様に生命力に溢れていることから「みどりご」と呼ぶようになったそうです。「あなたがたのための救い主は、布にくるまって飼い葉桶に眠るみどりごですよ。赤ん坊ですよ。」そう聞いて、彼らはどれ程安心したことでしょう。

「いくらあなたがたのための救い主と言われても、王侯貴族の家に生まれたとあっては、敷居が高い。宗教家や学者の家に生まれた赤ん坊だとしたら、断られるのがおちだ。でも、自分達と同じ貧しい境遇に生まれた赤ん坊だとしたら、断られることはないだろう。気がねなく近づける。」神が人として生まれる場所を飼い葉桶とされたのは、羊飼いの様な人々への配慮だったのです。

羊飼いたちが思い巡らしていると、み使いの仲間、天の軍勢が現れて、神を賛美し始めます。


2:13~14「すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」


地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。ここで言われている平和とは、神が人間の罪を赦すことで、神と人間との間に築かれる平和な関係のことです。羊飼いたちは、救い主の誕生によって、罪人である自分たちが神との平和な関係、神との親しい交わりにあずかる恵みが与えられる。そんな確信を抱くことができ、励まされたのでしょう。

み使いたちが天に去ると、ベツレヘムに向かって出発します。


2:15~18「御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。それを目にして羊飼いたちは、この幼子について自分たちに告げられたことを知らせた。 聞いた人たちはみな、羊飼いたちが話したことに驚いた。」


羊飼いたちが、自分たちのための救い主が生まれたこと、その救い主によって神との平和な関係が回復されるとのことばを、本気で信じていたこと。それは、彼らの行動が示しています。

もし彼らが本気で神のことばを信じていなかったら、どうして大切な羊たちを置いて、ベツレヘムに急いで出かけることができたでしょう。どうして、「朝になってからでもいいや」とは考えなかったのでしょう。どうして、ベツレヘム中を歩いて、飼い葉桶に眠るみどりごを捜し当てるという努力を惜しまなかったのでしょう。東方の博士たちの場合は、星が導いてくれましたが、彼らに星の導きは与えられなかったのです。

これらの行動は、羊飼いたちが自分たちのための救い主の誕生を告げる神のことばを本気で信じ、喜んでいなければできないことばかりでした。

さらに、彼らは人々に、自分達が告げられたことを知らせ、それを果たし終えると、神を賛美しながら帰って行ったのです。


2:19~20「しかしマリアは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」


天才物理学者ホーキング博士は、聖書の神を認めない科学者の一人として有名ですが、こんなことばを残しているそうです。「私たち人間はちっぽけな地球という惑星に生きる、目ただない生き物です。宇宙には数えきれない程の星や銀河があるのです。神は私たち人間のことを気にかけるどころか、存在すら知らないでしょう。私はこの宇宙の物理法則全体を定めた存在を神と考えています。」


もし博士の言う様に、神がこの宇宙を創造し、法則を定めただけの存在であるとしたら、クリスマスの出来事は起こらなかったでしょう。羊飼いたちのことを心にとめ、彼らを罪から救い、彼らに仕える神が本当に存在するからこそ、神が飼い葉桶に生まれたもうというクリスマスの奇跡がこの歴史の中で実際に起きたのです。

この世界を創造した神が自分たちことを大切に思い、社会の底辺に下り、生まれてくださったこと、神の罪人への愛を感じたからこそ、羊飼いたちは、ベツレヘムに向かい、みどりごを捜しあて、人々に救い主誕生の知らせを伝える証人となることができたのではないでしょうか。

最後に、今日の箇所から羊飼いたちの献身について三つのこと、確認しておきたいと思います。

第一に羊飼いたちの献身は、彼らが本気で神のことばを信じ、行動したことに現れています。神のことばを信じると言うことは、盲目的に神を信じることとは違います。私たちが誰かの語ることばが真実であると信じる時、そこには語る人の人格への信頼があります。

同じく、私たちが神のことばを信じると言う時、神がどの様なお方であるか、どの様な能力を持っているのか、私たちのことをどれ程大切に思い、心にかけておられるのか。神ご自身への信頼なくして、神のことばを本気で信じ行動することはできないと思います。

果たして、私たちはどれ程神ご自身を知っているでしょうか。神の力、神の愛、神のへりくだりに信頼しているでしょうか。神への献身に取り組むために、神を知ること、神と交わることに励みたいと思うのです。

第二に羊飼いたちの献身は、彼らが普段自分たちを下に見ていた人々のために、救い主誕生の知らせを伝えよという神の使命に応えたことに示されています。その頃ユダヤの社会で、羊飼いたちは信頼されない者したが、それにもかかわらず、彼らは神に託された使命を忠実に果たしたのです。彼らは救い主誕生の知らせを伝える最初の証人でした。

人々に信頼されず、貧しく、力もなき彼らが、神に愛され、神に期待されていることを感じた時、自分達を低く見ていた人々に仕えることができたのです。

私たちもこの時代、この国にあって、救い主についての証人として使命を託されています。神は羊飼いにそうしたように、たとえ私たちが貧しくとも、力が乏しくても、社会に立場があっても、なくても、ひとりひとりに大切な使命を与えておられるのです。果たして、自分は何をもって神に仕え、人に仕えるのか。よく考え、献身の歩み進めてゆきたいと思います。

第三に博士たちの献身は、この世のご利益が何一つなくても、神を賛美する姿に示されていました。救い主に出会ったことで、彼らの生活は豊かになったでしょうか。神の使命に応えることで、世間にも認められるような仕事に就くことができたでしょうか。そうではありませんでした。

たとえこの世的なご利益がなくとも、救い主を与えられたという一事を喜び、神を賛美する。これもまた、羊飼いたちから教えらる神への献身ではないかと思うのです。

以上、神のことばを本気で信じて行動すること、神の使命に応えること、どんな時にも神を賛美して生きること。神への献身の道を皆で進んでゆきたいと思うのです。

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