クリスマス「救い主を喜ぶ」ルカ2:25~35


十二月に入りアドベント、クリスマスと私たちは「献身」をテーマに礼拝を行ってきました。ヨセフの献身、マリアの献身、博士たちの献身、羊飼いたちの献身、キリストの献身。

神の一人子が、罪人を救うために人となられた。キリストの献身は私にとってどのような意味があるのか、どれ程大きな恵みなのか確認しつつ、私自身はどのように生きるのか考えてきました。皆様は、自分の人生を何のために使ってきたでしょうか。これから、何をするために生きて行こうと考えたでしょうか。

 今日は一年の終わりの聖日。この一年自分はどのように生きてきたのか、続く一年どのように生きるのか、考える時となりました。まさに自分の献身について考える時。そのため、予定していなかったことですが、今一度救い主誕生にまつわる記事を、「献身」をテーマに読みたいと思います。


 イエス様の誕生について最も詳しく記しているのはルカの福音書です。ルカは、キリスト誕生を様々な人物で彩ります。冒頭はザカリヤとエリサベツの老夫婦。そして終わりは、シメオンとアンナの二人。キリスト誕生の記録を、老いた男女で始め、老いた男女で閉じる。救い主の誕生を、年輪豊かな信仰者で取り囲む、味のある情景を書き記す、ルカならではの美学と言えるでしょうか。今日は、キリスト誕生の記録の最後に出てくるシメオンに注目します。


 シメオンが幼子イエスに出会うのはエルサレムの神殿でのこと。ヨセフ、マリアが幼子イエスを連れてエルサレムを訪れた時のことです。

 ルカ2章21節~24節

八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子の名はイエスとつけられた。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った。それは、主の律法に『最初に胎を開く男子はみな、主のために聖別された者と呼ばれる』と書いてあるとおり、幼子を主に献げるためであった。また、主の律法に『山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽』と言われていることにしたがって、いけにえを献げるためであった。


 ここにいくつか、ヨセフ、マリアが取り組んだことが記されています。八日目に幼子に割礼を施したこと。御使いを通して教えられた通りに名前をつけたこと。きよめの期間が満ちた時、エルサレムの神殿に行き、いけにえをささげたこと。山鳩のつがいか家鳩のひな二羽をささげるためとありますが、これは貧しい者たちのささげるいけにえです。飼葉桶に生まれた救い主の初詣のささげものは鳩であった、ということにも、低く低くなられる救い主の姿勢が見えるように思います。

このきよめの期間が満ちるというのは、八日目の割礼の後、三十三日間が過ぎた(レビ記12章2節~4節)ことを意味しますので、赤子を生み四十日が経ったころのこと。まだまだ、小さな小さなイエス様。

 ヨセフ一家は、きよめの期間が満ちるまで、ベツレヘムに留まっていたのか。一度、ナザレに戻ってから、エルサレムに来たのか。分かりませんが、赤子を生んで間もないマリアと、幼きイエスとともに、旅をするのは大変なことでしょう。それでもヨセフ、マリアは聖書(律法)に従うことを選びます。与えられた父、母の役割を誠実に果たしていく。二人の麗しい姿です。


 神の一人子が生まれた。罪なき方が生まれた。そのイエス様は他の人間と同じようにされました。律法の下で、罪ある者とされた私たちを贖い出すために、ご自身も律法の下に生まれ、律法を守る者として生きられた。パウロが次のように言います。

ガラテヤ4章4節~5節

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

 救い主というのは、ただ十字架で罪の罰を身代わりに受ける存在ではない。律法の下で、私たちの代わりに律法を守って下さった方でもある。生まれたてのイエス様の姿にも、救い主の歩みが始まっていることが分かるのです。

 このようにヨセフ一家が神殿に来た時に、シメオンがイエスに出会ったと言います。

 ルカ2章25節

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。また、聖霊が彼の上におられた。」


今日注目するシメオンは「正しい、敬虔な人」と言われていますが、分かるのはそれだけ。シメオンがどのような人なのか、詳しいことは分かりません。この「敬虔な人」と訳されている言葉は、用心深い、注意深いという意味の言葉。つまり、宗教上の義務、儀式を注意深く守っていた人です。

敬虔な信仰生活を送りながら、しかし宗教上の義務や儀式を注意深く行っていれば、それで救われるとは考えなかった。救い主が必要であること。イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた人。神様はこのシメオンに、聖霊を送られたと言います。シメオンが、聖霊によって教えられたことは何なのか。


 ルカ2章26節

「そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた。


 聖書が繰り返し告げていた約束の救い主。その救い主を見るまでは死なないと聖霊によって教えられた人物。シメオンがこの知らせを受けたのはいつなのか。若い時に、この知らせを受け、長らく待ち望んでいたのか。それとも年老いてから、この知らせを受けたのか。分かりませんが、ともかくシメオンは、生きているうちに約束の救い主を見るという知らせを真正面に受けとめ、救い主と出会うことを待ち望んでいました。


 ところで、救い主を知らせる人物として、神様は預言者を通して「荒野で叫ぶ声」「エリヤの霊を持つ者」を遣わすと約束していました。そして、それがザカリヤとエリサベツの子ヨハネ。後のバプテスマのヨハネです。大人になり、バプテスマのヨハネは、イエスこそ約束の救い主であると宣言する役割を果たします。

 しかし、そのバプテスマのヨハネが生まれてまもない頃。(シメオンが幼子イエスに出会った時、ヨハネは生後七か月でした)神様は、救い主を知らせる人物を別に備えておられた。それが、このシメオンです。


 このシメオンにとって、遂にその時が来たと言います。

 ルカ2章27節

シメオンが御霊に導かれて宮に入ると、律法の慣習を守るために、両親が幼子イエスを連れて入って来た。


 ところでシメオンが見たイエス様の姿はどのようなものでしょうか。ガリラヤのナザレという田舎出身のヨセフとマリア。この二人がささげようとしていたのは鳩。

 シメオンの目にうつったのは、田舎から出て来た貧しき男女に抱かれた赤子。ここは神殿ですので、多くの人で賑わっていたと思いますが、誰も約束の救い主だとは思わない状況。幼子イエスは、特別に威風堂々としていたとか、輝いていたわけでもない。(そうであれば、他の者の目にも留まったはずですが、そのような記録はないのです。)シメオンが見たのは、ただの赤子。それも貧しき者たちに抱かれている赤子。それだけです。

 それでもシメオンはこの幼子こそ、約束の救い主であると見抜きます。何故、シメオンは気づくことが出来たのか。聖書によれば、それは「御霊に導かれた」から。聖霊から告げられていた、主のキリストを見るまでは、決して死なないという知らせを、真剣に受け止めて待ち続けていたから。

 自分は必ず約束の救い主に会う。それを見過ごすことなく、その時がくれば必ずやこの人こそ約束の救い主であると宣言する。神様からの知らせを、自分に与えられた使命と受け取り、今日か、この時かと、祈り待ち続けていたのでしょう。そして遂に、その日、その時が来たのです。


 ルカ2章28節~32節

シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光を。』


 冒頭の言葉から、ラテン語「ヌンク・ディミティス」、あるいはシメオンの賛歌と呼ばれる歌です。(ルカはキリストの誕生を、多くの賛歌を載せることで祝いました。マリアの賛歌「マニフィカート」、ザカリヤの賛歌「ベネディクトゥス」、御使いの賛歌「グローリア」、そしてこのシメオンの賛歌「ヌンク・ディミティス」。ルカが記すキリスト賛歌集の最後が、このシメオンの賛歌でした。)

 「今こそ去らせたもう」。御霊から告げられていたあの良き知らせが実現した。救い主に会うことが出来た。これにて、死ぬとしてしても良いという思い。私の人生で最も大事なことは、救い主に会うこと。最も大事なことはもう果たした。我が生涯悔いなしという思い。

孔子は「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」と言ったそうですが、我らがシメオンは救い主に会いさえすれば即刻召されてもそれで良いと歌ったのです。


 「献身」と言う時、私たちは自分がどのように生きるのか。自分の人生、自分の時間、自分の能力を何のために用いるのか考えます。しかし、私たちが考えるべき「献身」は、ただ私が何をしたいかということではなく、キリストの献身に応答する「献身」です。イエス様が、私のために人となり、私のために命を捨てられた。そのイエス様の献身を受け止める者として、私はどのように生きるのかを考えたいのです。

 キリスト教の本質は、私が何をするかではありません。神様が何をされるのかが大事なのです。私が何かをしたら救われるのではありません。神様が救い主を送られたから、私は救われるのです。「献身」について考える際、信仰についてこの姿勢を忘れないようにと思います。

 シメオンは、イエス様に出会うことで、自分の人生で最も大事なことは果たしたとしました。「ヌンク・ディミティス」、今こそ去らたもう。私たちは、救い主の誕生をどのように受け止めるのか。救い主を信じることが出来たということを、どのように受け止めるでしょうか。


 「今こそ去らせたもう」と救い主に出会った喜びを歌ったシメオンは、続けてその救いが万民に備えられたもの、異邦人を照らす光だと続けます。これもまた凄いこと。

 幼子イエスが年を重ね、やがて救い主として公に活動をするようになり、十字架の死と復活を経て、救いの御業を成し遂げた後。弟子たちは、イエス様のことを宣べ伝えますが、誰に伝えたのかと言えばユダヤ人でした。主イエスの死と復活を目の当たりにした弟子たちも、当初は、異邦人に伝えることはなかった。イエス様は「あらゆる国の人々に伝える」とか、「地の果てにまで」と言われていましたが、それでも弟子たちは、異邦人に伝えて良いか分からない状態でした。

 それが、シメオンは幼子イエスを目撃した時に、その救いは万民に、この救い主は異邦人を照らすと宣言していた。救い主に出会うと告げられたシメオンは、ただ救い主に出会うだけでなく、その救いがどのようなものか告げ知らせる働きも、立派に果たしていた。凄い賛歌でした。

 私たちも、自分が救い主に会えて嬉しいというのに留まるのではなく、万民の救いを願い、そのために労する者でありたいと思います。


 ところでシメオンの言葉はこの賛歌だけでなく、マリアに告げた言葉も記録されていました。これが、ルカが記すキリスト誕生に関する記録に登場する人たちの中で、最後の言葉になります。キリスト誕生の記録の締めくくりの言葉。

 ルカ2章33節~35節

「父と母は、幼子について語られる様々なことに驚いた。シメオンは両親を祝福し、母マリアに言った。『ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。』」


 ルカが記したキリスト誕生の記録は、全体的に厳かさとともに、喜びや明るさがありましたが、最後の最後で、暗く、厳しい言葉が記録されます。

 イエス様が救い主として生きるというのは、ご自身は律法に従いながら、しかし律法に従うことが出来ない罪人の身代わりに十字架で死ぬことを意味していました。罪人からすれば、救い主は命の恩人。それも、永遠に関する命の恩人なのです。救い主の働きを理解するならば、身代わりになってもらう者は、これ以上ない敬意を救い主に払うところ。

 しかし、イエスの生涯はどうであったのかと言えば、敬意を払われるどころか、馬鹿にされ、蔑まれ、十字架直前には弟子たちも散り散りになる歩みでした。ここでシメオンが言う、「人々の反対にあうしるしとして定められている」歩みとなるのです。母であるマリアの心を、剣が刺し貫くような歩みを、この幼子はしていくことになるという宣言。


 イエス様の誕生を記したルカは、このシメオンの言葉を通して、これからのイエス様の生涯を予告しているのです。「こうして救い主は無事に誕生しました。この誕生によって、万民の救いが実現していくのです。しかし、人々はこの救い主を受け入れようとはしないのです。キリストの歩みは、人々の反対にあう歩みとなる。罪人を救うために生まれた方。罪人を救うために死なれる方。それにもかかわらず、罪人に馬鹿にされ、蔑まれた方。あなたは、このイエスをどのように受け止めますか。」と、読者である私たちに問うルカの筆となっているのです。


 以上、キリスト誕生の記録の最後に出てくるうちの一人、パッと現れて、流星のように光を放ち、すぐに退場するシメオンの姿を見てきました。幼子のイエス様に会い、それで生涯未練無し、思い残すこと無し。「あなたの御救いを見た。今こそ、去らせたもう」と告白した信仰者。幼子イエスにあってこの告白をしたとなると、もしシメオンが、人々から反対されながらも、それでも罪人のために死なれた救い主、復活された救い主を知った場合、何と告白しただろうと想像します。

 一か月間、「献身」について考えてきました。今一度、一年を振り返り、次の一年を見据えながら、自分自身の「献身」について考えたいと思います。それも、ただ私が何をしたいかということではなく、キリストの献身に応答する「献身」です。人々から反対されながらも、それでも罪人のために死なれた救い主、復活された救い主を知る者となった。そのイエス様の献身を受け止める者として、私はどのように生きるのかを考えたいのです。

 キリスト教の本質は、私が何をするかではない。神様が何をされるのかが重要。私が何かをしたら救われるのではない。神様が救い主を送られたから、私は救われる。この信仰の姿勢を保ちつつ、一年を振り返り、一年を見据える、「献身」について考えていきたいと思います。

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