アドベント「恵まれた罪人~マリヤの献身~」ルカ1:26~38


今朝の礼拝は待降礼拝の二回目です。今年のクリスマスシーズンを通しての礼拝のテーマは、「献身」です。先週取り上げられたのはヨセフの献身でしたが、今回取り上げますのはマリアの献身です。処女が聖霊によってみごもるという、前代未聞の出来事。それも、神が受肉して人として誕生するという、これ以前にもそしてこれ以後にも二度と起こらない奇跡。そんな神の大きなみわざが、実はナザレという寒村のいたいけない一人の乙女になされた、とルカは書き記していくのでした。

26節~28節「さて、その六ヶ月目に、御使いガブリエルが神から遣わされて、ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリアといった。御使いは、入って来ると、マリアに言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。』」

 先週の説教でも触れられていましたが、ガリラヤ地方は異邦人の血が混ざっていて、「異邦人の地ガリラヤ」と言われて、見下げられていました。その中にある村の一つのナザレ。その中で少女時代を過ごしていたマリア。何かひっそりとした雰囲気が漂っています。神の御子の受肉という一大奇跡が、ローマの宮殿で起きるのでもなし、エルサレムのど真ん中で起きるのでもなしでした。誰も注目もしていない場所、そして人。貧しくて、小さくて、見栄えもなくて、という場面が歴史上最大の奇跡が起こる場面として、神は選ばれておられたのでした。

 けれども、そんな場所で生きていた一人の乙女を、「恵まれた方」と言い、「主があなたとともにおられます」と、み使いガブリエルは言いました。人々の目に蔑まれた地。そこで細々と生きていた乙女。38節で「私は主のはしため」と告白しているその貧しさ。更に48節では、「この卑しいはしため」とまで言い切っている乙女。そんな一人の姉妹に、全世界を造られた神の御目がその一点に集中しているのです。

 私たちは信仰を持っても、よく誤解してしまうことがあります。自分の心の中にある醜さに気づくと、それを神と人とに隠さなければいけないという、そういう誤解です。自分の心の中にある憎しみ、嫉妬、意地悪、欲情、蔑み。そんなものが心の中にあることに気づくと、自分でもそれらから目をそらしてしまって知らん顔をする。そして笑顔を作って、きれいな言葉を使って生きていく。けれども、主なる神がそんな罪をもっている者を、どれほど恵もうとされておられることか。主なる神がそんな人と、どんなにともにいようとしていてくださることか。そのことに気づかないでいます。神の憐れみの目が、貧しい者にこそ深々と注がれていることに、気づかないでいます。

 そもそも、キリストが生まれた場所は飼い葉おけでした。また、その救い主の誕生を世界で最初に告げ知らされたのも、人々から罪人と蔑まれていた羊飼いたちにでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」と、わざわざ羊飼いたちを名指しにされたのです。またキリストは山上の説教の第一声で、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」と言われました。自分の心の中に、どうしようもない罪を持っていることに気づいている人。救い主はその人のために生まれたのですというのが、クリスマスの、そして山上の説教の大きなメッセージなのです。

 そんな方が生まれる時に用いられた女性。それはまさに、それにふさわしい人物だったのです。貧しく名もなく、人の目を惹くこともなく、ひっそりと生きていたナザレのマリアその人でした。さてしかし、そんなマリアだからなのでしょう。この天使の挨拶の言葉は、彼女にとっては不思議なものでした。29節「しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」 

「一体これは何のことかしら」と首を傾げるマリア。ひどくとまどっています。「おめでとう、恵まれた方」という「ことば」が、なぜ自分に語られるのかしらと、いぶかっているのです。謙遜なマリアです。おそらく自分みたいな罪人が、どうしてそんな挨拶を受けるのだろうと思ったことでしょう。キリスト誕生ということは、旧約聖書全体を貫く約束です。人々はやがて与えられる救い主の誕生に、信仰の望みを一心にかけて生きてきました。その救い主の誕生をこれから告げようと言うときに、そのメッセージの受け手であるマリアが、まず天使の挨拶の言葉だけで考え込んでしまっているのです。

いいです、この場面は。イザヤ書5715に「わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。」という、主のことばがございます。この場面はその通りの主のみこころが実現しているように思います。人が見下げているような人が、実は神の恵みがあつく注がれているということです。世の注目度が人間の存在価値のバロメーターであるかのように、いつの間にか思いこんで生きてしまうのが、地上の価値観です。それに対してこの小さく低い場所と人物にこそ、御目を留めておられる主のみこころ。このみこころから、世界の救いは実現していきました。

 そしてそのみこころは、何と世界を造られた神の子の誕生という、驚くべきものでした。30節~33節「すると、御使いは彼女に言った。『恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。』」

何とやがて生まれる赤ん坊が、「その支配は終わることがない」と言われる方だと告げられています。つまり、永遠の支配という王なる神である方、ということです。寒村のあどけない少女に語られた、永遠の王である救い主の誕生。「その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」こんなに大事なことをこんな少女に伝えて大丈夫だろうか、と心配になってきます。事実、このことを伝えられたマリアは、そのとてつもない内容そのものよりも、「一体どのようにして、そんなことが実現されるのだろうか」と、またまた首をひねってしまうのでした。

34節「マリアは御使いに言った。『どうしてそのようなこと起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。』」結婚していない自分が、なぜ子供が与えられるのか。いったいどうやって、どんな方法でと、不思議がるマリアです。「いと高き方の子」が誕生するという、神が人となる不思議さよりも、そして旧約時代から長い間イスラエル人が待っていた、待望の救い主が誕生するということよりも、処女の自分がどうやって子供を産むのですかと聞いているマリア。頭も心も自分のことで精一杯の心境が、あふれるように出てしまっているのでした。なんとも頼りない応答です。こんな反応しかしないマリアに、こんなに大切なメッセージを託して大丈夫なのだろうかと、ますます心もとなくなってきます。

 しかしこの反応こそ、キリストの処女降誕を如実に示す箇所ともなりました。もうじきヨセフと結婚するのですから、やがて子供を産むと言われても本当は不思議ではありません。けれどもマリアはこのときの天使ガブリエルの告知を、いますぐに実現するものと受け取ったからこそ、不思議に思ったのでしょう。そしてそうならば、男の人をまだ知らない自分がなぜ子供を、と思ったのです。キリストの処女降誕は、それを告げられた当の本人であるマリア自身が、まず真っ先に「どうしてそのようなことになりえましょうか」とビックリすることだったのでした。それほど驚くべきことを、このときマリアは告げ知らされたということです。マリアの処女懐胎を疑った最初の人物は、他ならぬこのマリアだったのです。まずそのことに、衝撃を受けたということです。

 それに対して天使は、優しくマリアに教えていきます。35節~37節「御使いは彼女に答えた。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。見なさい。あなたの親類のエリサベツ、あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なことは何もありません。』」

 聖霊という方の力がマリアをおおうことで、神の子が産まれる。これがマリアの疑問への回答でした。人間の結婚を通してではない誕生。世界で一度も起きなかった方法による出産でした。あどけない処女マリアにとっては、この一言では受け取れきれなかったことでしょう。そこで天使はマリアの親類のエリサベツがみごもって、もう六ヶ月たっていることを教えます。そうやってマリアの信仰を強めて励ますのです。そして「神にとって不可能なことは一つもありません。」と言って、マリアの不思議がる心に力強い杭を打ちこむのです。通常の結婚の方法によらない出産は、不可能なことが一つもない神ご自身のみわざとしてなされるのだ、と教えられたマリアでした。名カウンセラーのガブリエルでありました。

 さてこうして、天使にねんごろに取り扱われたマリアは、今度はさっと御使いにひれ伏すのでした。38節「マリアは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』」すると、御使いは彼女から去って行った。」

 天使のお告げに戸惑ったり不思議がっていたマリアでしたが、ここですべてがふっきれたかのように、天使に身をかがめるのでした。「主のはしため」と言って、ただひたすらに主人の言うままに従う女奴隷であると、天使に告白します。自分が処女のままで子供を産むということに、どれだけ理解や納得をしたかは分かりません。けれども彼女はそれらが分かったから、理解したから、だから神に身をゆだねたのではありません。神のみことばは必ず成るとそう信じたので、神に身をゆだねたのです。マリアはただ神のことばは成る、どんなに不思議でも必ず実現すると信じて、あとはその身を神にゆだねただけでした。

 もっともマリアがこの38節の単純明快な告白をするまでに、とまどいや不思議さに首をひねることもございました。ですから、もしその思いにこだわっていたら、こんな澄み切った信仰の姿勢はとることができなかったでしょう。しかしそんなマリアに対して、天使ガブリエルはまことに適切に、マリアに応対しました。ガブリエルはただ単に神のみことばをマリアに伝えただけではなく、そのみことばを、マリアが信仰を持って受け取り、それに服従できるように指導していったのです。天使ガブリエルのすばらしいカウンセリングによって、マリアはキリストの母としての奉仕に身を捧げることが出来たのでした。

 そして忘れてはいけないことは、マリアがいいなずけの時期に子供を宿すということが、当時の社会でどれほど重い出来事であったかということです。これも先週の説教で言われていましたが、この時期は夫と一緒に住んでいない時期ですから、女性が子供を宿すということは姦淫の罪を犯したことと見なされ、ひどいときには石打ちの刑で殺される場合がありました。ですからマタイの福音書ではヨセフは密かに離縁することで、マリアの命を助けようとしています。マリアが「この身になりますように」と神に身をゆだねた結果、当時の社会から厳しく糾弾され、ひどい目に遭い、ヨセフとの関係もだめになっていたのかも知れないのです。けれどもマリアは、「この身になりますように」と言い切りました。このマリアの服従の姿勢の中で、確実に主のみこころは実現していったのです。

 やがてこの母マリアから生まれたキリストは、十字架にかかる前にゲッセマネで次のように祈られました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ2242これは「みこころがこの身になりますように」という、マリアの祈りに共通するものでもあります。みこころがご自分に実現することによって、ご自分が十字架にかかって殺されることを知っていながら、しかしご自分の身を父なる神に差し出して祈っているキリストの祈りです。キリストのその姿勢の中で、神のみこころは実現していきました。

 このキリストが受胎するときも、その母マリアはそのあとの自分の過酷な人生を予期したとしても、自分を神に差し出していきました。そしてキリストもまさに命を賭して、みこころにゆだねて身を捧げているのです。神のみこころが実現していくために、時に自分の人生が犠牲になっていく。しかしその自分の犠牲によって、神の愛が他の人に実現していく。そのためならば、自分を神に差し出します。そう決意していく。そんなマリアの献身の姿を、今朝ご一緒に見ています。

 結局マリアはこの度の御使いのお告げの意味をどれだけ理解したのかは分かりません。また、このあとどんな人生が待っているのかということもどれだけ分かっていて、どれほど覚悟してのことかも分かりません。けれどもこの、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」という信仰の姿勢で、すべては始まったのです。神の永遠の愛のご計画は、このマリアの信仰の姿勢の中で、確かに実現していきました。この後、親類のエリサベツのところに行ったマリアは、エリサベツから「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(ルカ1:45)と言われています。たとえ自分の理解や納得があいまいであっても、けれども主のみことばは必ず実現する。そう信じて献身したマリアでした。

 この姿勢をとるように導かれた者こそが、実に30節で言われている「神から恵みを受けている者」のことでもあるのだと、教えられます。神からあふれる恵みを受けた者、つまりそれは本当に心貧しい者のことですが、その恵みを受けた罪深い者がこのような信仰の姿勢に整えられて、他者の恵みのために生きていく、そういう献身の姿を今朝学びました。恵まれた罪人とは、他者に恵みが注がれるために、神に自分を差し出す者のことだということを確認しまして、今朝の待降礼拝を続けたいと思います。

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