元旦礼拝「すべてがあなたの書に」詩篇139:13~18


旅行に出かける際、私たちは何をバッグに詰め込むでしょうか。寒い地方に出かけるのならTシャツではなく、厚手のジャケットやセーターを持っていかなければなりません。持病のある人は、必要な薬をバッグに入れてゆくはずです。神様も、私たちを人生という旅に送り出す時、同じことをされると聖書は教えていました。それに気がついたダビデは、感謝して歌います。


 詩篇139:14~16「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれた時、私の骨組みはあなたに隠れていませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

 

 ダビデは、自分のいのちが神様によって創造されたことを感謝しています。人生と言う旅が始まる前から、起こりくるすべてのことが神様によって計画されていることに信頼しています。神様が、生まれる前から人生の全体をご覧になり、旅を進めるのに必要なものをすべて、予め組込んでくださったことに驚いているのです。

 動物や昆虫の生態を研究する人の心には、生き物への好奇心が詰め込まれています。学校の先生には子どもへの愛情が、病める者に寄り添う仕事をする人の心には、弱者に対する同情心が豊富に組み込まれています。会社を起こそうという人にはバイタリティ―とマネージメント能力が、気難しい男性と結婚する女性には、人一倍の忍耐力が備えられていると思うのです。

 私たちは、他の誰とも違う「私」として、神様の御手の中で創造された者。皆様は、神様の御手を心にとめ生活しているでしょうか。自分の中にどんな賜物や関心、性格や情熱が組み込まれているか、考えたことはあるでしょうか。

 私たちの教会で、中部中会の30周年記念礼拝が行われた時のことです。午後に森ゆりさんのコンサートがあり、多くの人が来てくださいました。会も終わり、多くの人で玄関がごった返している時、一人の男性が言いました。「誰かが私のコートを着ていってしまったようです。」

 その日は風も冷たく、遠い場所に帰らねばならない男性は時間を気にしていました。最後まで待っていましたが、間違えた人は現れません。男性は「教会に連絡があったら、教えてください」と言い残し、窮屈そうな他人のコートを着て帰らなければならなかったのです。

 誰も、他の人用のコートを着て歩きたいとは思わないでしょう。自分には合わないと感じながら、歩き続けることを望む人はいないはずです。しかし、コートならまだしも、社会での仕事や教会の面で、私たちは自分の賜物に適した仕事をしているでしょうか。それとも、自分の情熱を注ぐことのできない奉仕をしているでしょうか。

 親から勧められて、家業を継いでいる人がいるかもしれません。学校の先生や先輩から紹介されて、仕事を選んだという人もいるでしょう。何となく選んだという人も、考えに考えて選んだ人もいるはずです。

 人類の先祖、ダムとエバ夫婦の息子のうち、兄カインは農夫となり、弟アベルは羊飼いの仕事を選びました。族長イサクの子どもエサウとヤコブ兄弟の場合、自由奔放な兄は野を駆ける猟師となり、内向的な弟は、家で母親の仕事を手伝いました。

 人生の途中で仕事を変えた者もいます。ダビデは七人兄弟の末っ子。少年の頃は野原で羊飼いをしていましたが、ある戦いで相手の大将を倒して勇士の評判をとり、それがきっかけで近衛軍に召され、後に一国の王となりました。

 映画監督のビートたけしさんの兄北野大さんは三人兄弟の真ん中で、弟のたけしさんから「兄弟の中でも、あんちゃんが一番馬鹿だよな」と言われ育ったそうです。苦労して子育てをしたお母さんは、技術がないと職場での待遇が悪いことを何度も経験していましたから、腕に職をつけるのが大切と考え、子どもが大学に行くのなら機械工学科と決めていたそうです。

 ところが物理が大の苦手で、英語の先生になりたかった大さんは、親に秘密で大学の文学部を受けて合格し、親に入学させて欲しいと頼みます。しかし、お母さんはそれを許さず、工学部を受け直さなければなりませんでした。弟のたけしさんは平気で親に反発するタイプでしたが、大さんはそれができないタイプだったのです。

「私はいつもお袋の言うとおりに生きてきました」と言う大さんが、初めて自分の意思を強く表したのが、就職して二年後のこと。やっぱり大学院に行きたいと決心し、安定した収入を棒に振り大学生に戻りました。その時は、さすがのお母さんも反対しなかったとか。その北野さんも今では工学博士。大学の先生となり、テレビでも活躍しています。

 私も長男で、親の期待に沿うようにと考えてきた気がします。自分の意思を始めて強く表したのが神学校入学の時のこと。父も母も反対しましたが、その時も今も、選んだ道を後悔することはありません。だから、北野さんの気持ちが良く分かります。

 ある保険会社の調査によると、日本人の三分の一近くは、自分は合わない仕事をさせられていると答えています。四分の一の人は、仕事が人生の中で一番の重荷だと感じています。多くの人が、仕事にやりがいを持てず、仕事は好きではないと考えていることがわかりました。

もし、月曜日が嫌でたまらないなら、仕事は人生のストレスであり、健康を壊す元かもしれません。もし、仕事をするために生きているというより、生きるため、お金を稼ぐために働いているのなら、心が退屈や虚しさで占領されるでしょう。

それでは、どうすればいいのでしょうか。主イエスはある時、仕事の心得についてこう言われました。

 

ヨハネ4:31~34「その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」


この場面、イエス様は故郷を離れサマリヤという場所に来ていました。旅の途中空腹を感じていた弟子たちは、食べ物を買いに町に出かけましたが、帰ってくると、イエス様は当時ユダヤ人と宗教的な意味で敵対関係にあったサマリヤ人の女に、聖書の神が天の父であること、神を父と礼拝する場所はユダヤやサマリヤの神殿に限定されず、どこでもできること。重要なのは礼拝の場所ではなく、礼拝の態度であり、霊とまことをもって礼拝すること。一言で言えば、真の神礼拝について教えておられたのです。

この仕事をイエス様は「わたしの食べ物」と言い、「わたしを遣わした方、天の父のみこころ、神のわざを成し遂げること、神への奉仕」と呼ばれました。イエス様は天の父のみこころ、つまり神様への奉仕を行うことが、何よりの心の糧と言われたのです。ユダヤ人を敵視し、人々から蔑まれ、自らの生き方を恥じていた。そんなひとりの女性に仕えることが、この時のイエス様にとっては、天の父のみ心であり、神様への奉仕であり、心の糧だったのです。

私たちは、自分の性格や賜物にあった仕事を見つけようとします。しかし、それは簡単には見つかりません。むしろ、自分に合った仕事、やりがいを感じる仕事かどうかは、実際にやってみないと分からないことが多いのではないでしょうか。

イエス様のことばは、私たちにとって大切なヒントを含んでいると思われます。何故なら、重要なのは、どんな仕事や奉仕をするかよりも、それがどんな仕事や奉仕であれ、私たちが天の父から与えられた仕事、神様への奉仕と考えて取り組むかどうかだからです。

収入のともなう仕事にせよボランティアにせよ、知的労働であれ肉体労働であれ、外での仕事であれ家事であれ、育児にせよ説教の準備にせよ、神様は仕事の種類や肩書、収入の有無よりも、私たちが仕事を神様に仕え、人に仕える奉仕と考えること、神様から与えられた働き、使命として取り組むことを何よりも大切にされているのです。

聖書の英語訳に取り組んだことで有名な英国のティンダルという牧師は言いました。「私が教会で説教の奉仕をすることも、家で赤ん坊のおしめを代えることも、神への奉仕として取り組むなら、どちらも聖なる奉仕であり、上下、貴賎はない。」

最初に読んだ詩篇139篇16節を、リビングバイブルの訳で読んでみます。


139:16「私を組み立てる時、神さまは立ち会われました。生まれる前から、まだ呼吸を始める前から、神さまの目は私に注がれており、その生涯にわたるご計画も、練り上げられていたのです。」


芸術家が自分専用のスタジオで作品を作り上げるように、神様は私たちのいのちを御手の中で創造されました。画家が一枚の絵を仕上げるため、それにふさわしい色、筆、キャンバス、タッチを選ぶように、神様は私たちひとりひとりにふさわしい性格、能力、環境を生まれる前から考え、計画されたのです。

生まれる日と地上を去る日。苦しみの日と喜びの日。情熱を感じるものとそうでないもの。病の日と回復の日。人生の折々、何を自分の使命として取り組むのか。神様がそのすべてを定め、私たちを人生の旅へと送り出してくださいました。

ある人は言います。「人間なんて科学的に言えば、たんぱく質とカルシウムの塊じゃないか」と。しかし、私たちは単なる物質の塊なのでしょうか。進化論者は言います。「人間は、長い時間をかけて、一つの細胞から進化してきたもの。元をたどればアメーバも、動物も、人間も変わりはない。」しかし、私たちがアメーバでも、鳥でもなく、人間として生かされているのは、偶然でしょうか。

科学者はこう言うかもしれません。「人間など、果てしないほど広い宇宙の中のチリに過ぎない。」しかし、私たちの何年或は何十年という地上の生涯には意味がないのでしょうか。

けれども、そんな私たちひとりひとりに対して、神は語りかけてくださいます。「あなたは、たんぱく質とカルシウムの塊以上の存在だ。」「アメーバでもなく、鳥でも魚でもなく、わたしがあなたを人間として創造した。」「わたしが、生まれる前からあなたの人生を計画した神。あなたに必要なものをすべて備えた主。あなたの存在はわたしの眼に尊い」と。

本には作者が、家には建築家が、絵や彫刻には芸術家が存在するように、私たちの人生には神様がおられる。神様のことば、語りかけを聞くことで、自分のいのちの価値を知り、人生と言う旅の目的、使命に気がつく。神様との関係が、どれほど私たちの助けとなることでしょう。

光や色や形を見分けることのできる眼。美しい音楽を聴くことのできる耳。正義や愛を求める心。物理の法則を理解する理性。病める者をやさしく包む手。力強く歩むことのできる足。すべては、神様が私たちのうちに備えてくださった賜物でした。

今皆様には、元客会員であり、今も信仰の友である石居義夫兄の娘さん、石居麻耶さんのために祈っていただいています。彼女が脳腫瘍の手術を受ける前送ってくださった救いの証の文章があります。ご本人の許可を得ましたので、その一部を紹介したいと思います。

「洗礼を受けた後も、神様は私が信仰を失わないようにと人生の節目に試練を与えてくださっています。画家・イラストレーターを職業としている私ですが、所属していたギャラリーは経営破綻で画料も半分未精算のままオーナーは行方不明に。漸く新しいギャラリーが決まったかと思うと、急に顎下腺唾石症という唾液腺に石ができる病気になり、首を切開する手術をしました。その一年後には舌に腫瘍ができて舌の両側面の肉をそぎ取る手術をし、翌年には大腸のポリープの手術をしました。復帰できたと思ったら、今度はお世話になっているギャラリーのオーナーが急性骨髄性白血病になり闘病生活に入ってしまいました。

蓄えていたものもさすがに底をつき始め、経済的にも肉体的にも精神的にも苦しいことばかりで、これまで積み上げてきたものはすべて無に帰するような状況になってしまいました。重ねて病院で私の脳から下垂体腫瘍が見つかり、アクロメガリー(先端巨大症)と宣告されました。10年以上続いてきた原因不明の様々な不調はすべてここから始まったようでした。でも、その時間が長いか短いかは関係なく、これまでの日々は今生かされていることを喜ぶためにあると思うのです。たとえ平均より短い人生だとしても、神様の愛にいかに気付けるかが大切だと思うからです。人生の上に起こるすべてを主のみこころと受けとめれば、いつでも私たちの歩みは白紙からのスタートで常に新しくされる人生です。そこには余計な荷物も袋小路に陥る絶望もないのです。

私が救われたきっかけになった聖句を思い起こしました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(伝道者の書3章11節)様々な試練は、神様が私に「救われた時の大切なことをいつまでも忘れずに」と言うことに日々気付けるよう導いてくださっているのではないかと思えています。その様な中で今年「いのちのことば社」というキリスト教関連の書物を扱っている会社からクリスマスカードのイラストのお仕事をいただきました。そして2020年1月から一年間「いのちのことば」という小冊子の表紙のイラストと、初めての文章のお仕事であるエッセイの依頼も頂いています。雲の上はいつも晴れ。季節が繰り返されて再び同じ花が咲くのを見ると思うのです。「その色彩は常に新しいということを、画家イラストレーターとしてお伝えしなければならない」というのが私の使命です。

どうでしょうか。新しい年のスタートに当たり、今置かれているこの場所で、私たちは何を神様への奉仕と考えているでしょうか。自分は何を神様からの使命として与えられているかを考えながら、意識しながら、2020年日々の歩みを進めてゆきたいと思うのです。

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