信仰生活の基本(2)「伝道~世界を祝福する者~」Ⅰペテロ2:9~10


年が明けてから数回の礼拝にて、信仰の基本的事柄をテーマに説教するよう取り組んでいます。先週は「礼拝」、今週は「伝道」がテーマです。聖書の福音を伝える。世界の造り主、私たちの救い主を伝える。伝道。教会の中で、これまで何度も伝道の重要性は語られてきました。キリストを信じる者は、自分が罪から救われて終わりではない。自分の受けた福音を、まだ知らない人に伝える働きに就く。主イエスを信じる者は、福音を伝える使命を得ることになる。この「伝道」に、私たちはどのような思いで取り組めば良いのか。今日は「世界を祝福する」という視点で伝道について考えていきたいと思います。


 今日、中心的に考えたい「世界を祝福する」とは、どのような意味でしょうか。その意味を理解するためには、世界の始まりの状態から考えるのが良いと思います。

 神様がこの世界を造られた時、世界はとても良い状態であったと言われています。神様が見て、非常に良い世界。ところが、世界は良い状態が続きません。神様がしてはならないと言われたことを人間がしてから、人も世界も悲惨な状態になりました。

 神様は次のように言われていました。

 創世記2章16節~17節

神である主は人に命じられた。『あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』


 私たちは死と聞くと、多くの場合、肉体の死をイメージします。心臓が止まり、意識がなくなり、肉体が朽ちていく死。しかし聖書の中で使われる「死」という言葉は、肉体の死も意味しますが、そもそもは「分離する」こと、その結果「本来の状態ではなくなる」ことを意味します。

 「あなたは何をしても良いです。ただ一つ、わたしを愛さないことを選ばないように。具体的には、善悪の知識の木の実を食べないように。それを食べると、あなたは死の状態になります。わたしとの関係が壊れます。私が意図した本来の状態ではなくなります。非常に良い状態から、悲惨な状態になります。」神様はこのように、人に教えていました。


 ところが、アダムとエバは善悪の知識の木の実を食べてしまう。死を選びとってしまう。残念無念です。その結果、言われていた通りに悲惨な状態になりました。それも人間だけでなく、世界も死の状態になった。世界も本来の状態ではなくなりました。死を選び取った後のアダムに対して、神様が言われたことは次のようなものです。

 創世記3章17節

また、人に言われた。『あなたが妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。』


 アダムとエバが神様に従わない選択をしたために、大地はのろわれると言われています。人間もろとも世界は死の状態、本来の状態ではなくなるということ。人間に与えられた責任は非常に大きく、その選択は世界に影響するものだったのです。私たちは、今生きているこの世界しか知りません。のろわれる前の世界。神様が見て非常に良いと言われた世界は、どれほど素晴らしいものだったのか。その世界を見てみたかった、味わってみたかったと思うところ。


人が神様を無視した結果、人も世界も悲惨な状態になった。神様は、のろわれた世界をそのままにはされませんでした。良い状態、本来の状態へ導こうとされる。どのようにして、世界を良い状態にされるのか。

神様の基本的な方針は、神の民を通して世界を良くするというものです。死の状態にあって、本来の生き方が出来なくなった人間に、本来の人間のあるべき生き方を示していく。神様とどのような関係にあるべきなのかをあらわしていく。その使命を神の民に与え、神の民を通して世界を良くしていくのです。

 この神の民に選ばれた最初の人がアブラハム。その使命を受け継いでいくのが、アブラハムの子孫です。アブラハムに対して、神様は次のように言われました。

 創世記12章1節~3節

主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』


 ここに繰り返し「祝福」という言葉が出て来ます。のろいと反対の言葉。罪の結果、本来の状態でなくなったものを、本来の状態にする。良い状態にするという意味です。罪の結果、のろわれた世界を、祝福するように。それはつまり、罪の結果、悲惨な状態になった世界を良くするように。本来の状態でなくなった者たちを、本来の状態へと導くように、ということです。

 神様はアブラハムを祝福すると約束します。神様が意図した姿へ、アブラハムを変えて下さる。祝福されたアブラハムは、その人生を通して、本来の人間の生き方、神様がどのようなお方か示していくのです。この約束、この使命は、アブラハムと子孫に引き継がれ、地のすべての部族は祝福されていく。これが悲惨な状態になった世界を良い状態にしていく、神様の基本的な方針でした。


 それでは、アブラハムやその子孫の生涯で、この世界を祝福するということは、どのように実現していったのでしょうか。(創世記に限定して)いくつか印象的な場面を確認すると、アブラハムについては次の箇所が思い出されます。

 創世記21章22節~23節

そのころ、アビメレクとその軍の長ピコルがアブラハムに言った。『あなたが何をしても、神はあなたとともにおられます。それで今、ここで神によって私に誓ってください。私と私の子孫を裏切らないと。そして、私があなたに示した誠意にふさわしく、私にも、またあなたが寄留しているこの土地に対しても、誠意を示してください。』


 アブラハムに対して「神はあなたとともにおられます。」と言ったアビメレクは、イサクに対しても同様に言いました。

 創世記26章28節~29節

「彼らは言った。『私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主に祝福されています。』」


 アビメレクはイサクに対して「神がともにおられる」ではなく「主がともにおられる」と言っています。「主」という聖書の神様の名前を出している。つまりアブラハムやイサクは、アビメレクに対して漠然と神を伝えていたのではなく、明確に聖書の神、主なる神を伝えていたことになります。

アビメレクが、アブラハムやイサクを見た時に、「豊かで成功した人生を送っている、強運に恵まれている。どうも、人よりも強い力が働いている、神がともにいるように感じる。」と思ったのではない。アブラハムやイサクは主なる神様を伝え、アビメレクも主なる神様がともにおられる、主が祝福していると見てとったのです。アブラハムやイサクを通して、世界が祝福される場面。

 アブラハムの曾孫ヨセフは、波乱万丈の人生を送ります。兄弟に憎まれ、エジプトに奴隷として売られる。自身には悪いところなく投獄されるも、エジプトの王ファラオの夢を解き明かすことを通して大臣に任命される。奴隷、囚人、大臣と歩んだ人生。奴隷時代も、囚人時代も、周りの人から好意を得ていたという姿にも、祝福された者の姿を見ますが、特に印象的なのはファラオの夢を解き明かした場面。

 ヨセフは、夢を解き明かすのは神がして下さること(創世記41章16節)と宣言して、ファラオが見た夢の意味を語ります。七年の大豊作の後に、七年の大飢饉が来る。その備えをするようにという解き明かし。ヨセフの解き明かしを聞いたファラオと家臣たちは次のように言います。

 創世記41章37節~39節

このことは、ファラオとすべての家臣たちの心にかなった。そこで、ファラオは家臣たちに言った。『神の霊が宿っているこのような人が、ほかに見つかるだろうか。』ファラオはヨセフに言った。『神がこれらすべてのことをおまえに知らされたからには、おまえのように、さとくて知恵のある者は、ほかにはいない。おまえが私の家を治めるがよい。』」


 この場面、よく考えると不思議です。夢の解き明かしは、七年の大豊作の後に七年の大飢饉というもの。自分がファラオであれば、ヨセフの解き明かしが正しいかどうか、最初の数年試すのではないかと思います。しかし実際のファラオは、ヨセフのことを「神の霊がやどっている人」と見定め、即座に大臣へと引き立てました。エジプトは、ヨセフを大臣にすることで後にくる大飢饉を乗り切ることになる。これらの出来事は、神の民を通して、世界が祝福される場面の一つと読めます。


 アブラハムの孫ヤコブ(ヨセフの父)は、祝福に関して興味深い記録があります。死んだものと思っていたヨセフがエジプトで大臣をしていると聞き、エジプトへ移住してきた際。ヤコブがファラオに挨拶をする場面。

 創世記47章7節~10節

それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、ファラオの前に立たせた。ヤコブはファラオを祝福した。ファラオはヤコブに尋ねた。『あなたの生きてきた年月は、どれほどになりますか。』ヤコブはファラオに答えた。『私がたどってきた年月は百三十年です。私の生きてきた年月はわずかで、いろいろなわざわいがあり、私の先祖がたどった日々、生きた年月には及びません。』ヤコブはファラオを祝福し、ファラオの前から立ち去った。


 この時のファラオと言えば、当時の世界の王でしょう。そのファラオに対して、ヤコブは祝福したと言います。その会話の内容は寂しく弱々しいもの。「私の生きて来た年月はわずかで、わざわいがあり、先祖と比べてもひどいもの。」と言います。実際この時のヤコブは飢饉を逃れてエジプトに来た寄留者です。しかし、それでもヤコブはファラオを祝福するのです。

この場合の祝福とは何でしょうか。ファラオのために祈ったということでしょう。ファラオが主なる神様を知ることが出来るように。本来の生き方が出来るように。その人らしくもっとも幸いに生きることが出来るように。弱々しくファラオの前に立つ老ヤコブ。しかし、世界を祝福する者として生きる使命は果たしていく姿が印象的です。


アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ。それぞれ神様に祝福された者として、いつでも立派に歩めたわけではありません。神様を信頼しきれず、妻を妹と言って難を逃れようとしたアブラハム。偏った愛を持ち込むことで家庭内に不和をもたらしたイサク。父や兄を騙し、逃亡生活を送ったヤコブ。人の思いを考えずに無邪気に自慢する甘ちゃんのヨセフ。それぞれ、弱さがあり、浮き沈みがありました。それでも、神様はそれぞれを祝福し、世界を祝福する者として用いられたのです。

ところで「神様は神の民を祝福し、神の民を通して世界を祝福される」、このアブラハムとその子孫に与えられた約束と使命は、キリストを信じる者に引き継がれるというのが、聖書の教える重要なメッセージでした。

ガラテヤ3章26節~29節

あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。


 キリストを信じる者はどうなるのか、様々な表現でまとめられています。神の子どもとなる。キリストを着る。キリストを信じる者たちで一つとなる。アブラハムの子孫であり、相続人となる。

今日、特に注目したいのは最後の部分です。キリストを信じる者は、アブラハムの子孫であり、アブラハムに約束されたものを引き継ぐ者となる。つまり、私たちがイエス様こそ罪からの救い主であると信じる時、神様は私たちを祝福し、私たちを通して世界を祝福するということです。世界を祝福する者となる、神の民の歩みに加えられるということです。


 キリストを信じる者は、世界を祝福する使命が与えられている。このメッセージを真剣に受け止めるかどうか、その人の生き方に大きな影響があります。この聖書のメッセージを真剣に受け止めるということは、自分の周りにいる人が良い状態になることを願うことになります。自分の周りにいる人が、神様の意図された幸いに生きられるように導くことになります。自分の周りにいる人が、本来のその人らしく生きられるように手助けすることになります。家族、教会の仲間、学校の友、職場の人、地域の人に接する時に、相手の祝福を心から願って生きることになります。

 世界を祝福する者として生きる自覚があるかないかで、その生き方には大きな違いがある。今朝、今一度、「キリストを信じる者は、世界を祝福する者となる」という聖書のメッセージを真正面から受け止めたいと思います。


 以上、世界を祝福することについて確認しました。祝福とは、罪の結果、本来の状態でなくなったものを本来の状態にする、良い状態にするという意味です。世界を祝福する使命は、アブラハムとその子孫に引き継がれ、イエス様の贖いの御業以降はキリストを信じる者に引き継がれる。この時代、この場所で世界を祝福する働きをするのは、私たちの役割なのです。

 それでは、世界を祝福する働きの中心は何でしょうか。私たちは主に、何をすることで世界を祝福するのでしょうか。それは、世界を祝福する力を持っている方を伝えること。神様を、キリストを伝えること。言葉と行い、生き方を通して、神様の素晴らしさをあらわすこと。伝道することです。


 一年の始め、伝道することの大切さを確認しましたが、伝道を、しなければならないこと、義務として考えることのないようにと願います。神様は私を祝福される。そして私の生涯を通して、この時代、この世界を祝福される。この喜びと希望を抱きつつ、神様のこと、イエス様のことを宣べ伝えていきたいと思います。最後にペテロの言葉に励ましを受けつつ説教を閉じます。


Ⅰペテロ2章9節~10節

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」

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