信仰生活の基本(3)「交わり~一つになる~」ピリピ2:1~11


年が明けてから数回の礼拝にて、信仰の基本的事柄をテーマに説教するよう取り組んでいます。第一週が「礼拝」、第二週が「伝道」、今日は「交わり」がテーマです。キリストによって私たちは、互いに愛し合うように召されました。信仰者の交わりを大切にするように教えられている者です。それではキリスト者の交わりとはどのようなものでしょうか。私たちはどのような交わりを心がけたら良いのでしょうか。聖書から、皆さまとともに考えたいと思います。


 ところで皆さまは教会の交わり、キリスト者の交わりは好きでしょうか。

お互いのことを知り合うこと、祈り合うこと、ともに聖書を読み、ともに奉仕をすることが好きだという方。特に用事があるわけではないけれども、教会の中で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。キリストを信じる仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。

しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が良い。教会に来ても他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。

 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 私たちは周りにいる人から大きく影響を受ける存在。良い影響、悪い影響を相互に与えながら私たちは生きています。私たちの人生から交わりがなければ、どれ程寂しいものになるでしょうか。しかし同時に、交わりを通して、辛く苦しい思いをすることもあります。一般的に、私たちが抱える悩みの九割以上は人間関係に関する悩みと言われますが、私たちは周りの人から多くの良いものを得ると同時に、多くの苦しみも得ることになります。周りの人を祝福することもあれば、周りの人を傷つけることもあります。


 聖書には次のような言葉があります。二か所挙げますが、一つ目は交わりの素晴らしさを教える言葉。

 詩篇133篇1節~3節

見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。


聖書の中央、大詩篇に含められた交わり賛歌。仲良し万歳という歌です。表題に都上りの歌とついていまして、神を信じるものが共に礼拝出来る喜び、その幸せを歌ったもの。短い詩で、テーマは一つ。一点集中。神の民の交わりが楽しい、幸せであるというだけの内容です。その最後が印象的で「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じた」と結ばれます。なぜ交わりが楽しいのか、幸いなのか。それは主なる神様が、交わりにおいて、私たちが恵みを受けるように、祝福を命じたからというのです。神様が信仰者の交わりに祝福を命じた。そうだとすれば、仮に交わりを楽しいと感じない時、幸いと思えない時でも、交わりには意味があることになります。交わりを通して、神様は恵みを注いで下さる。

この御言葉に沿って考えるならば、交わりを避けることは勿体ない。交わりを持たないことは、神様が用意した恵みを受け取らないことになっている。交わりをテーマにした時、覚えておきたい聖句の一つ。


 しかし、交わりについて気を付けるように教える箇所。交わりについて消極的に読める箇所もあります。

 Ⅰコリント5章9節~11節

「私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。私が今書いたのは、兄弟と呼ばれる者で、淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者がいたなら、そのような者とは付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、ということです。」


 「付き合ってはいけない、一緒に食事をしてもいけない。」とはだいぶ強い表現。それもわざわざ、信仰者でない者たちのことを言っているのではなく、「兄弟と呼ばれる者で」と確認されています。交わりを避けるように教えているように読める箇所。これは教会の中で明らかな悪、罪が示されていながら、それをそのまま放ってことのないように。兄弟姉妹が悪から立ち返るように働きかけることを勧める文脈の中で言われている言葉です。

その悪、罪が指摘されても、悔い改めない者たちと、何もないかのように交わりを続けることのないように。悪、罪を悔い改めない者と、そのまま交わらないように。何故交わりを持ってはいけなのか。交わりには、とても大きな影響力があるからです。淫らな者、貪欲な者、偶像を拝む者、人をそしる者、酒におぼれる者、奪い取る者、そこから悔い改めようとしない者との交わりで、あなたが悪い影響を受けないようにと教えられています。(この箇所の直前で、パン種が粉全体に影響を与えることを例にして、粉全体を良い状態にするために、悪いパン種は取り除くように語られています。また交わりを避けることで、悪、罪を悔い改めないものに、その状況がどれ程危険なのか。交わりを避けることで、さらに悔い改めを促す意味もあります。)


 キリストを信じた者は罪赦された罪人。私たちは、神の子とされ、キリストに似る者へ変えられているものの、罪の性質が残っている者。このような私たちが交わる時に、祝福に満ちた交わりになる時と、悪影響を与え合う交わりになる時と両方起こり得るのです。

 聖書は繰り返し、キリスト者の交わりを持つように教えます。しかし、ともかくともにいれば良いというのではなく、目指すべき交わりがあることも示されています。それでは、私たちが目指す交わりとはどのようなものでしょうか。私たちはどのようなことに気を付けて、キリスト者の交わりに取り組めば良いのでしょうか。

 私たちが目指す交わりとは何かを考える上で、聖書の色々な箇所を挙げることが出来ると思いますが、今日は十字架直前、私たちのために祈られたイエス様の言葉に注目したいと思います。

 ヨハネ17章20節~21節

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」


 「大祭司の祈り」と呼ばれる主イエスの祈り。十字架直前、イエス様は目の前にいる弟子たちのために祈り、続けて「弟子たちの言葉を通してイエス様を信じる人々のためにも願います」と祈ります。弟子たちの言葉を通して、イエスこそ救い主であると信じる者。これは、まさに私たちのこと。約二千年前のあの夜、イエス様は私のために祈られていたということに感動を覚えます。(蛇足ですが、復活し天に昇られたイエス様は、父なる神様のそばで、私たちのためにとりなしの祈りをして下さっていると聖書は教えています。二千年前に私のために祈られたイエス様は、まさに今も私のために祈っていて下さる方です。ヘブル7章25節)

それではイエス様は何を願われたのか。「すべての人を一つにしてください。」という願いです。ここで「すべての人」と言われていますが、その後で、この「すべての人」とは別に「世が信じるようになるため」と出て来ます。つまり、「すべての人」というのは全人類のことではなく、「キリストを信じるすべての人」という意味です。イエス様は、キリストを信じる者たちが、「一つとなる」ことを強く願われたのです。


 それではイエス様が私たちのために願われた「一つになる」とは、どういう意味でしょうか。難しいところ。「父がわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」また「彼らもわたしたちのうちにいるように」と言われています。

「父なる神様が、イエス様のうちにいる」。「イエス様のうちに、父なる神様がいる」。これは分かります。三位一体の神様は、確かに一つです。しかし、そのように私たちが一つと言われると、具体的にどのような意味なのか分からなくなります。皆さまは、この祈りがどのような意味だと受け取っているでしょうか。

 この祈りの意味を理解する上で助けとなるのが、「うちにいる」という言葉。「大祭司の祈り」の最後で、イエス様は次のように祈っています。

 ヨハネ17章26節

わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。


 「うちにいる」というのは、神の愛があるということ。「父なる神がイエス様のうちにいる。」それはつまり、父なる神様がイエス様を愛しているということ。「イエス様が父なる神のうちにいる。」それはつまり、イエス様が父なる神を愛しているということ。「彼らもわたしたちのうちにいる。」それはつまり、三位一体の神様の愛の中に、私たちは入れられているということ。

 つまり、キリストを信じる者が「一つとなる」とは、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うということでした。これが、イエス様が私たちに強く願っていること。私たちのための祈祷課題の筆頭に来るのが、神様の愛を受け取って、その愛で互いに愛し合うこと。私たちが一つとなること。これが私たちの目指す交わりです。


 イエス様は私たちが一つとなることを願われました。しかし、皆がともかく同じようになることを、願っているわけではありません。教会に集められた私たちは一つになることを目指します。しかし、政治的主張で一つになるわけではありません。趣味で一つになるわけでもありません。社会的立場や性格で一つになるのでもありません。教会は政党でも、サークルでも仲良しサロンでもないのです。

むしろ教会に集められた私たちは、出来るだけ違いがある方が良い。集められた私たちが多様であるというのは、教会の大きな魅力です。しかし神様の愛を受け取り、互いに愛し合う。この点で一つとなることは目指すのです。

 私たちは違いがあることを認め合い、受け入れ合うこと。多様であればあるほど、良いとすること。しかし、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う。この交わりを目指す点では一致する。この教会の多様性と一体性を、聖書は「キリストのからだ」と表現しました。


Ⅰコリント12章19節~22節、26節~27節

もし全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。・・・一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。


 パウロが繰り返し語った教会論。教会はキリストのからだであり、私たちは各器官という表現です。ここに「全体が一つの部分だとしたら、からだはどこにあるでしょうか。」とあります。つまり、皆が同じだとしたら、それは体とは言えない。教会がキリストのからだと言う時、集められた私たちはそれぞれ、違いがある。いや、違いがあることが大事という意味です。

しかし、からだとしては一つである。私たちがからだとして一つであるとは、どういうことなのか。神様の愛を受け取り、互いに愛し合う。この交わりを目指す点で一つであるということです。

 このように考えますと、キリストを信じる私たちにとって、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う交わりに取り組むことが、どれ程大事なことか分かってきます。イエス様が私たちのために願われた第一のことは、このこと。教会がキリストのからであるための要となるのは、このこと。

 私たちはどれだけ真剣に、イエス様の願いを受け止めてきたのか。キリストのからだとして生きようとしてきたのか。今一度、よくよく考えたいと思います。


 この「一つになる」ということ。神様の愛を受け取り、互いに愛し合うことを、もう少し詳しく記している箇所がありますので、最後にその箇所を読んで、説教のまとめとします。

 ピリピ2章1節~11節

「ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。

キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」


 私たちの目指す交わりとは何か。どのような思いで教会の仲間に接したら良いのか。「何事も利己的な思いや虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思う。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みる。」とまとめられています。

 罪人にはとても出来ないことが語られます。そもそも、罪の性質とは、利己的で虚栄に生きようとするもの。自分こそ優れていると思い、他の人を見下すもの。自分のことだけを大事とするものです。私の能力とか、努力で出来るような生き方ではない。イエス様に変えてもらうしか、このような生き方は出来ないのです。

イエス様を信じ、イエス様を通して、励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみを受け取る。そして、キリストを信じる者同士、「何事も利己的な思いや虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思う。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みる。」本当に、このような生き方、このような交わりを目指すようにと勧められます。

 何しろ、私たちに与えられた命、永遠のいのちとは、イエス様のいのちです。これ以上ないほど、徹底的に私を愛して下さった。そのイエス様のいのちを頂いたことを忘れないように。キリスト・イエスにある思いを、私たちの間で抱くように。私たちのこの一年が、神様の愛を受け取り、互いに愛し合う交わりに取り組む歩みとなりますように、祈ります。

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