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一書説教(57)「ピレモンへの手紙~愛する兄弟として~」

 六十六の書が集まって一つの書である聖書。私たちは聖書を神の言葉と信じています。聖書は神の言葉。とはいえそれは、天から本が降って来たという意味ではありません。地中を掘ったら本が出てきたということでもありません。人間の著者がいます。聖書は完成までに千年以上の時間を要し、約四十人が著者として記したものです。また、著者が筆を持ったら気を失い、気付いた時には書き終わっていたというのではありません。著者はそれぞれ、自分の考えをもとに書を記しています。神様が著者として選んだ者たちに対して、特別な力を与え、その執筆を守り、誤りなき神の言葉として記すようにされた。そのため、著者は自分の考えをもとに記したにもかかわらず、聖書は神の言葉です。  ところで六十六の書に対して、著者は約四十人。つまり一人が、複数の書を書いている場合があります。それでは聖書記者のうち、最も多くを記したのは誰なのか。圧倒的に多いのがパウロ。新約聖書のうち、十三もの書を記したのがパウロです。  断続的に取り組んできた一書説教。今日は通算五十七回目、新約篇の十八回目。これまで十二のパウロ書簡を見てきまして、いよいよ十三番目。一書説教の旅のうち、パウロ書簡という大きな峠をこれで終えることになります。達成感と寂しさを感じるところ。  パウロ書簡のうち十三番目に置かれたのは、ピレモンへの手紙。(記された順番で言えば、テモテ書、テトス書よりも前に記されたものです。)全一章の豆粒書簡、手のひら書簡です。ローマで獄中生活をしているパウロが、友人ピレモンに宛てた手紙。これまで確認したパウロの手紙の多くは教会宛て。つまり公のもの、回覧されることを前提に記されたものです。個人宛のテモテ書、テトス書もありましたが、牧会指南書という特徴をもち、一般的な教えが多く、半ば公的な手紙でした。しかし、このピレモンの手紙は全くの私信。これを書いたパウロ自身、聖書に収録され、全世界で読まれるとは思っていなかったのではないと思います。  文書に示される人柄は、公文書よりも私文書にこそあらわれます。神学者、宣教師、牧会者であるパウロの姿は、これまでの手紙にもあらわれていましたが、このピレモン書こそ鮮明です。これまで語ってきたことを机上の空論としない、絵空事としない。有言不実行ではない。伝えてきた福音に、パウロ自身も生きる。その姿を

一書説教(56)「テトスへの手紙~良いわざに励む~」

 一般的に「振り返ること」は大事なこと、有意義なことと言われます。どのような一日であったか振り返る。どのような一週間であったか振り返る。どのような一年であったか振り返る。振り返ることをしないと、時が経つのが早く、あっという間に一週間、一年が終わってしまいます。振り返ることで、今一度、新たな気持ちで次の一歩を踏み出すことにつながります。  ところで皆様は、振り返りをする時、どのような視点で振り返るでしょうか。神様からの恵みとして受け取ったこと、祈ったこと、告白した罪で振り返るか。起こった出来事、大きな出来事で振り返るか。学んだこと、身につけたことで振り返るのか。振り返ると言っても、人によって様々。良かったこと、感謝なことを中心に振り返る人もいれば、反省すべきこと、大変だったことで振り返る人もいると思います。  様々な視点で振り返ることが出来ますが、キリスト者である私たちが取り組んだら良いと思う一つの視点は「言葉」で振り返ること。自分がどのような「言葉」を口にしたのか。 聖書には次のような言葉があります。  マタイ 15章18節~20節 「 口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。 」  当時の宗教家たちとの論争の中で、汚れとは何か、何が人を汚すのかイエス様が語られた言葉です。口から出るもの、つまり言葉は心から出てくる。私たちの心にある様々な悪は、言葉として出てくる。それが人を汚すと言われます。自分の心の状態、自分の心にどのような悪があるのか、言葉に表れる。言葉はとても重要なもの。  このような「心と言葉の関係」があるからでしょう、聖書には次のような言葉もあります。  コロサイ3章16節 「 キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。 」  「キリストのことば」が、私たちのうちに豊かに住む。そうなれば、私たちの口からも、「キリストのことば」が出てくる。「キリストのことば」が心にあるからこそ、互いに教え、忠告し合い、神様を賛美することが出来ると教えられます。 どのような言葉を

ウェルカム礼拝「神の恵みによって造られた『私』を生きる」Ⅰコリント15:9~10

 皆様はどんな時に自分らしく生きていると感じるでしょうか。あるいは、自分らしくと言うことをあまり意識しないで、日々を過ごすことが多いでしょうか。そもそも自分らしく生きるという時、自分、私とは何者だと考えているでしょうか。  私が子どもの頃、プロ野球に夢中になっていた時代。憧れのスター、ヒーローといえば、何と言っても世界のホームラン王、王貞治選手でした。現在はソフトバンクホークスの会長です。  王選手の本を読む。写真を飾る。王選手の真似をして、新聞紙を丸めたものをバットに、電球のひもの先をボールに見立て、何度も一本足打法を練習したためひもは切れるは、畳は擦り切れるは。よく母親に叱られました。しかし、ホームランを打ち続け、三度三冠王を達成した王選手にも引退の日がやって来たのです。私にとって、それまでの人生で最も悲しい一日でした。  引退会見で王選手は「引退の理由は、自分らしいバッティングができなくなったからです。」と言いました。その年王選手は打率こそ低く、力の衰えは見えたものの、 30 本のホームランを打っています。シーズン 30 本塁打といえば立派な成績で、まだまだ活躍できると思っていたファンは多かったと思います。  しかし、「今迄だったら簡単に打ち返すことのできた球を非常に速く感じるようになり、球に詰まったり、振り遅れたりするようになった。ああ、これはもう自分のバッティングではないなと感じるようになった。」と王選手は話したのです。  また、最近のことですが、フィギアスケートの羽生結弦選手が現在行われている四大陸選手権で、今回のプログラムを平昌オリンピックで用いた「 SEIMEI 」に変更するというニュースがありました。シーズンの途中でプログラムを変更するのは異例で、対応が非常に難しいことだそうです。しかし、羽生選手は「自分らしい滑りができるこのプログラムが、自分にとって最高」と話していました。  王選手は自分らしさの基準をバッティングの能力に置き、羽生選手は自分らしさの基準を「 SEIMEI 」というプログラムに置いていることになります。 これらの例から分かるように、私たちはそれを意識しているにせよ、意識していないにせよ、自分らしさについての基準、あるいは「これだけは譲れない、守りたい」とこだわっていることがあるようです。それができている

信仰生活の基本(5)「社会生活・経済~正しく働き、正しく使う~」ルカ19:1~10

一月の始めから、今年も新たな思いで信仰の歩みを進めてゆくことを願い、私たちは信仰生活の基本となること礼拝、交わり、伝道、奉仕について学んでいます。今年からは新しく信仰と社会生活の関係について考えたいと思い、この基本シリーズ第五回目のテーマを「社会生活・経済~正しく働き、正しく使う~」としました。 私たちは人生の時間の多くを社会で過ごします。そこには経済、仕事、政治、他宗教や社会的慣習への対応など様々な問題があります。これらについて私たちはどう考え、どう対応してゆけば良いのでしょうか。信仰と経済、あるいは信仰と政治は別のことと、はっきり分けて考える立場の人もいるかもしれません。あるいは無意識のうちに、二つを分けて生活している人もいるでしょう。 しかし、主イエスが私たちのことを「地の塩、世の光」と呼ばれたように、私たちがこの社会でどのように経済活動を営み、仕事をし、政治と向きあい、他宗教や社会的慣習に対応するのか。それはキリスト教信仰と深くかかわっています。キリスト教信仰によって経済活動を営み、仕事をし、政治について考え、他宗教や社会的慣習に対応するとは、どういうことのなのか。一つ一つ年毎に取り扱ってゆけたらと考えています。  さて、今朝取り上げたいのは、ご存知のザアカイという人物。「金銭が人生のすべてを変える」と考えていた男が、主イエスとの出会いによって、「いや、そうではない。私の人生を真に変えるのは主イエスだけ」と気がつく。そんな物語です。 ルカ 19:1,2 「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」 ザアカイは当時のユダヤ社会で嫌われていた収税人でした。何故なら、その頃ユダヤはローマ帝国の占領下にあり、ローマ帝国は都ローマに富を集めるため、ユダヤの様な植民地に重税を課していました。多くの植民地は慢性的な貧しさにありました。人々は貧困に苦しみ、反感を募らせつつも、ローマ帝国に従属せざるを得ない状況にあったのです。 ユダヤで何の不足もなく暮らせたのは、ローマに協力的な大祭司や貴族、それと同じくローマに協力して働く収税人等一握りの人々。税金取り立ては収税人に一任され、同胞から重税を取り立てる彼らは憎まれ者。人々から「罪人」と指さされ、軽蔑さ