ウェルカム礼拝「神の恵みによって造られた『私』を生きる」Ⅰコリント15:9~10

 皆様はどんな時に自分らしく生きていると感じるでしょうか。あるいは、自分らしくと言うことをあまり意識しないで、日々を過ごすことが多いでしょうか。そもそも自分らしく生きるという時、自分、私とは何者だと考えているでしょうか。
 私が子どもの頃、プロ野球に夢中になっていた時代。憧れのスター、ヒーローといえば、何と言っても世界のホームラン王、王貞治選手でした。現在はソフトバンクホークスの会長です。
 王選手の本を読む。写真を飾る。王選手の真似をして、新聞紙を丸めたものをバットに、電球のひもの先をボールに見立て、何度も一本足打法を練習したためひもは切れるは、畳は擦り切れるは。よく母親に叱られました。しかし、ホームランを打ち続け、三度三冠王を達成した王選手にも引退の日がやって来たのです。私にとって、それまでの人生で最も悲しい一日でした。
 引退会見で王選手は「引退の理由は、自分らしいバッティングができなくなったからです。」と言いました。その年王選手は打率こそ低く、力の衰えは見えたものの、30本のホームランを打っています。シーズン30本塁打といえば立派な成績で、まだまだ活躍できると思っていたファンは多かったと思います。
 しかし、「今迄だったら簡単に打ち返すことのできた球を非常に速く感じるようになり、球に詰まったり、振り遅れたりするようになった。ああ、これはもう自分のバッティングではないなと感じるようになった。」と王選手は話したのです。
 また、最近のことですが、フィギアスケートの羽生結弦選手が現在行われている四大陸選手権で、今回のプログラムを平昌オリンピックで用いた「SEIMEI」に変更するというニュースがありました。シーズンの途中でプログラムを変更するのは異例で、対応が非常に難しいことだそうです。しかし、羽生選手は「自分らしい滑りができるこのプログラムが、自分にとって最高」と話していました。
 王選手は自分らしさの基準をバッティングの能力に置き、羽生選手は自分らしさの基準を「SEIMEI」というプログラムに置いていることになります。
これらの例から分かるように、私たちはそれを意識しているにせよ、意識していないにせよ、自分らしさについての基準、あるいは「これだけは譲れない、守りたい」とこだわっていることがあるようです。それができている時自分らしいと思い、喜びを感じる。逆に、それができないと、何かが足りないと感じたり、何とかしなければと不安になったりします。
自分らしさとは自分が自分であることに満足し、喜べる状態。ことばを代えていえば、自分の存在価値を感じ、安心できることと言えるでしょう。そして、多くの場合私たちは何かをすることで、あるいは何かを持っていることで、自分の価値を感じる存在と言えるのではないかと思います。
ところで、皆様は「明日の記憶」という映画をご存知でしょうか。渡辺謙さん演じる主人公は49歳。広告代理店のやり手営業マンで、仕事においては大きなクライアントとの契約が決まり、プライベートでは娘の結婚が決まっている、順風満帆の人生を歩んでいました。しかし、ある時から激しい物忘れ、めまい、幻覚に襲われ、若年性アルツハイマーと診断を下されてしまうのです。
会社の配慮で仕事は続けられたものの、配属されたのは仕事らしい仕事とは思えない、窓際族の集まる部署。生き甲斐を失った主人公は酒浸りで、家族に八つ当たり。ついに「会社なんか辞めてやる。」と宣言するも、「結婚式の時、その年で父親が無職や肩書なしじゃ、娘がかわいそうでしょ。我慢してお父さん。」と妻に頼まれ、しぶしぶ承知する。そんな場面が出てきます。
主人公にとって自分らしさとは社会の第一線でバリバリ仕事をし、部下に慕われること。自分の存在価値は業績をあげる能力を持つ社会人という点にあったことが分かる場面です。
現代社会の特徴の一つは、個人の成功特に経済的成功こそ価値ありと多くの人が考えていることにあると、様々な社会学者が言っています。政治、経済、芸術、スポーツ等、様々な分野で成功した人が尊敬され、名誉を受ける社会。逆に、勤勉に働いても失敗してしまったり、社会の上に行けなかった人は敗者とされる社会です。
しかし、少し前の時代まではそうではなかった気がします。私の祖父は尋常高等小学校しか出ていない農業従事者、昔風に言えば百姓でした。「お爺ちゃんはね、大酒のみで、遊び人の大お爺ちゃんが田畑を売ってしまったので、他人の田畑を借りて米や野菜を作りながら、段々土地を買い戻していったんだよ。お前たちがこうして毎日お米が食べられるのは、お爺ちゃんが一生懸命働いてくれたお陰だよ。だから一粒も残さないようにきれいに食べな。」これは私の母の口癖、耳にタコができるぐらい聞かされたことばです。
また、「お爺ちゃんはね。お母さんも含め娘五人を全員高校に入れてくれたんだ。山屋のお爺さんは苦労して働いて、子どもを全員高校に行かせて大したもんだ。人からそう言われると、お母さんも嬉しいよ。」
伝統的な社会では、社会の上に行かなくとも、有名でなくても、金持ちでなくても、生涯勤勉に働いて家族を養い、子どもたちを学校に入れる。共同体の中でも何かの役割を務め、責任を負う。そんな平凡な人生を送るごく普通の人が尊敬されていたのです。
しかし、現代では働くだけでなく、名のある会社で働くことが名誉とされる。収入を得るだけではだめで、高収入の仕事をする人が尊敬される。「高校に行ければ十分だ、大学で勉強できるなら大したものだ」と言われた時代から、偏差値の高い有名大学に行くことが価値ありとされる時代へと変化しました。
学生は自分が本当に学びたいことがある大学よりも、有名大学を選ぶ。卒業する時には、自分に適した仕事よりも、収入の多い仕事をすることを選ぶ。親も親で、子どもが競争を勝ち抜いて有名校に入学し、大企業で仕事をすることを願う。事柄の大小はあったとしても、成功によって得られる収入や地位、名声によって、自分の存在価値を感じる人が多いと言われます。
他にも、恋愛関係にあることが最高の幸せと感じる人。常に何か仕事をしていないと、生きている意味を感じられないという人。周りから「良い人」と認められたくて、道徳的に正しく生きることに努めたり、相手の無理な願いにも応えようとする人。人々が自分らしさを感じ、存在価値があると思う基準には、様々なものがあるかと思います。
経済的収入、成功、名声、恋愛、仕事、道徳的に正しく生きること、人から認められること。これらは、それ自体良いものです。しかし、これらのものを基準にして自分らしさを考えたり、自分の存在価値を判断する人は悲惨な人生を送ることになると、聖書は警告しています。
この世界を創造し、私たちを愛しておられる神様よりも、これらのものを大切にし、これらのものを第一とするなら、却って自分が自分であることを喜べず、自分の存在価値を見失ってしまうと注意しているのです。
収入を多く得ることで、安定した幸せな人生が送れると考える人は、収入を失った途端、パニックに陥ります。一度名声を手にした人は、普通の人になってしまうことを極度に恐れると言われます。恋愛を最高に価値あるものとする人は、願う相手から愛されない時、相手を憎んでしまうかもしれません。成功した時の幸福感が忘れられない人は、次も成功しなければというプレッシャーに悩まされます。仕事をしている自分が最高の自分と考える人は健康や能力を失った時、もはや自分の存在価値はないと落ち込んでしまうでしょう。道徳的正しさを第一にする人は、正しくない人を許せない人生を送ることになるかもしれません。
それでは、私たちが人生で最も大切にすべきものとは何でしょうか。収入が願う程にある時もない時も、人に愛されても愛されなくても、成功した時も失敗した時も、仕事ができる時もできない時も、正しく生きることができた時もできなかった時も、自分らしく生きるためにどうすれば良いと、聖書は教えているでしょうか。

ここで、紹介したいひとりの人物がいます。パウロと言う人です。彼はイエス・キリストによってじかに使徒と指名された教会の指導者。初代キリスト教会の土台を築いた、熱心かつ有能な指導者のひとりでしたが、自分についてどう考えていたのでしょうか。

15:9,10「私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。」

使徒とは当時のキリスト教会において最も高い立場にいる者、最も尊敬される立場にパウロはいました。しかも、その働きぶりは熱心で他の使徒よりも多く働いたというのです。
けれども、パウロは使徒として最も小さい者、価値のない者と考え、キリスト教会を迫害した罪のゆえに、使徒と呼ばれるに値しない人間であると言っています。また、人並み以上に働いてきたとしても、働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みだと言うのです。どういうことでしょうか。
パウロが大切にしていたのは、使徒という教会指導者の立場ではなかった。人並み以上に働いてきたことでもありませんでした。それは小さなことにすぎなかったのです。むしろ、彼が最も大切に思っていたのは神様の恵み、圧倒的な神様の恵みでした。
パウロは神様の恵みよって罪赦され、神様の恵みによって生かされ、神様の恵みによって使徒とされ、神様の恵みによって働けることに満足していたのです。ことばを代えれば、神様の恵みによって造られた私として生きることに喜びを感じていたのです。
「神の恵みによって、私は今の私になりました。」パウロの働きによって、神の救いに預かる人もいましたが、反発する人も大勢いました。パウロが建てた教会の中には、順調に成長した教会もありましたが、問題山積みの教会もありました。パウロの仕事を尊敬する人もいましたが、パウロを妬み、非難する者もいたのです。持病を持つパウロの健康状態は不安定でもありました。
その様な厳しい環境に置かれながらも、神様の恵みによって生かされ、神様の恵みによって働く今の私こそ、最高に私らしい私ではないかと、パウロは言うのです。
これは現代社会に生きる人々とは大分異なる考え方、人生観ではないでしょか。ラインホールド・ニーバーという神学者がこの様なことを書いています。
「人間は実はそれほど人生において力を持っているわけではないのです。人生を決める条件の実に95%が、自分のコントロールできる範囲外のことです。生まれた時代、育てられた場所や家庭、身体的特徴、生まれ持った能力や健康等、ほとんどのものが、私たち個人の努力ではいかんともしがたいことです。つまり、私たちの人生を形作るもの、私たちが持っているものの多くは、神から私たちに与えられたもの、神の恵みと言えます。私たちは恵みの創造者ではなく、神の恵みに依存し、神の恵みよって生かされている存在なのです。」
キリスト教反対論者の友人が私に言ったことがあります。「聖書の教えには良いもの、共感出来ることが沢山ある。隣人愛の教え、貧しい者や社会的な弱者を顧みることなど、本当に素晴らしいと思う。けれど、たった一つどうしても納得できないのは、人間の能力、努力を過小評価し、すべてを神の恵みと思えという教えだ。僕が今の仕事に就くために、この立場を守るために、どれだけ努力したかを言い始めると自慢、高慢だと非難される。こんなに腹の立つことはない。」
「神の恵みによって、私は今の私になりました。」というパウロのことばと「自分の能力と努力によって、私は今の私になりました。」という友人のことば。皆様はどちらに同意するでしょうか。「神様の恵みによって造られた私」として生きる人生と「価値ある者であることを感じ、認めてもらうために、果てしない努力と行いを続けねばならない私として生きる人生」、どちらの人生を選びたいでしょうか。

エペソ2:8~10「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

私たちの眼は自分の能力、成功、仕事、収入、社会的地位、それらを手にするための自分の努力や行いに向きがちです。自分に与えられている神様の恵みについて考えることが余りありません。
人間の罪は、海の上に浮かぶ氷山の一角に過ぎない自分の努力や行いを過大評価し、海の中に隠れている氷の塊のような大きな神様の恵みを過小評価します。私たちは自分の能力や努力、仕事、成功、収入、地位、それらが人生のすべてと思い込み、それよりもはるかにはるかに大きな神様の恵みを人生から除外して生きているのです。
イエス・キリストを信じるとは、人生を形作るわずか5%に過ぎない私たちの努力や行いに目を留めず、95%を占める神様の恵みに目を向けることです。本当ならそれら良いものを受け取る資格の全くない者に、イエス・キリストが十字架の苦しみを通して与えてくれた神様の恵みの大きさを考え、へりくだってこれを受け取り、喜ぶことを最も大切にする人生を送ることです。
仕事をするための能力や健康に恵まれても、それを失っても、成功できてもできなくても、地位や肩書を与えられても与えられなくても、富んでいても貧しくても、神様の恵みによって造られた「私」であることを喜び、日々の歩みを進めること、皆様にお勧めしたいと思うのです。

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