信仰生活の基本(5)「社会生活・経済~正しく働き、正しく使う~」ルカ19:1~10

一月の始めから、今年も新たな思いで信仰の歩みを進めてゆくことを願い、私たちは信仰生活の基本となること礼拝、交わり、伝道、奉仕について学んでいます。今年からは新しく信仰と社会生活の関係について考えたいと思い、この基本シリーズ第五回目のテーマを「社会生活・経済~正しく働き、正しく使う~」としました。
私たちは人生の時間の多くを社会で過ごします。そこには経済、仕事、政治、他宗教や社会的慣習への対応など様々な問題があります。これらについて私たちはどう考え、どう対応してゆけば良いのでしょうか。信仰と経済、あるいは信仰と政治は別のことと、はっきり分けて考える立場の人もいるかもしれません。あるいは無意識のうちに、二つを分けて生活している人もいるでしょう。
しかし、主イエスが私たちのことを「地の塩、世の光」と呼ばれたように、私たちがこの社会でどのように経済活動を営み、仕事をし、政治と向きあい、他宗教や社会的慣習に対応するのか。それはキリスト教信仰と深くかかわっています。キリスト教信仰によって経済活動を営み、仕事をし、政治について考え、他宗教や社会的慣習に対応するとは、どういうことのなのか。一つ一つ年毎に取り扱ってゆけたらと考えています。
 さて、今朝取り上げたいのは、ご存知のザアカイという人物。「金銭が人生のすべてを変える」と考えていた男が、主イエスとの出会いによって、「いや、そうではない。私の人生を真に変えるのは主イエスだけ」と気がつく。そんな物語です。

ルカ19:1,2「それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」

ザアカイは当時のユダヤ社会で嫌われていた収税人でした。何故なら、その頃ユダヤはローマ帝国の占領下にあり、ローマ帝国は都ローマに富を集めるため、ユダヤの様な植民地に重税を課していました。多くの植民地は慢性的な貧しさにありました。人々は貧困に苦しみ、反感を募らせつつも、ローマ帝国に従属せざるを得ない状況にあったのです。
ユダヤで何の不足もなく暮らせたのは、ローマに協力的な大祭司や貴族、それと同じくローマに協力して働く収税人等一握りの人々。税金取り立ては収税人に一任され、同胞から重税を取り立てる彼らは憎まれ者。人々から「罪人」と指さされ、軽蔑されていたのです。
では、どうしてそんな職業を選ぶ人がいたのでしょうか。家族を失望させ、同胞から憎まれ、社会の除け者とされてまで収税人の仕事を選ぶ理由はどこにあったのか。その答えはただ一つ、富でした。
事実、ローマの役人が収税人に提示した条件は非常に魅力的なもの。彼らにはローマ帝国が課す金額以上の税金を徴収することが許されたばかりか、ローマの兵士という最強のボディガードを後ろ盾に、恐喝まがいの方法で、簡単に徴税することができたのです。社会において最も裕福で、最も嫌悪された存在。それが収税人でした。
しかも、ザアカイはただの収税人ではない。貿易が盛んで、富が集中するエリコの町で収税人の仕事をする者たちのかしらでした。家族の愛情、隣人との良い関係、社会における名誉、ザアカイは金を手に入れるために、これらすべてを捨てた男。いわば物質主義の権化、金の亡者だったのです。
ルカの福音書で、主イエスは富や金銭がいかに私たちにとって魅力的に映るか。どれ程、私たちの生き方を支配する力を持っているか。それでいながら、私たちは自分の心が富や金銭に支配されていることに気がつきにくいかを、くり返し教えています。

ルカ16:13,14「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。」

パリサイ人がどうしてイエス様をあざ笑ったのか、分かるでしょうか。「イエス様。確かに私はある程度の財産を持っています。人並みの生活も送っています。しかし、貴族や収税人の様な金持ちではありません。そんな私が富に仕えているだなんてとんでもありません。大きな誤解ですよ。」
富に関する格言に「金銭への欲望は常に深く身を潜めている。」ということばがあります。私たちはザアカイの様に人からお金を脅し取ったことはないかもしれません。ザアカイほど富に対して執着してはいないかもしれません。しかし、だからと言って金銭への欲望は自分と関係ない問題だと安心することはできない気がします。富や金銭という私たちを盲目にする力に気がつくこと、それが金銭を正しく扱う第一歩と教えられたいのです。
富に仕えること、つまり富という神を信頼する人には様々なタイプがあります。愛情、友情、信頼など、人の心を金銭によって支配し、手に入れようとする人。富によって人の上に立ち、権力を得たい人、贅沢な生活をして快楽を貪る人。逆に贅沢を慎み、貯蓄に励む。財産によって人生の安全、安心を確保したい人。行動パターンは異なっても、神に置くべき信頼を、富や金銭に置く。金銭によって人生が大きく左右され、支配されるという点においては同じでした。
果たして、ザアカイが富によって手に入れたいと願っていたものは何だったのか。誰かの愛情だったのか。地位や権力か。贅沢な生活か。それとも、人生の安全、安心だったのか。しかし、それが何であったにせよ、町一番の富の所有者になり、収税人のかしらの地位にのぼり、大きな力を手にしても満足できず、かえって「こんなはずではなかった。」とザアカイは感じていたようです。そんな時、主イエスがエリコの町にやってきました。

ルカ19:3~7「彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。」

ザアカイは背が低く、町の人々が前に立ちはだかったため、主イエスをみることができなかったようです。けれど、ザアカイはそれにめげず大胆な行動に出ました。当時のユダヤ社会では何よりも名誉が重んじられていましたから、大の大人が木に登るなど、恥ずかしいことこの上ない行為です。それにもかかわらず、彼が人目も気にせず木登りをした理由はただひとつ。ただイエスを見たかったからでした。
そして、驚くべきことに主イエスも、宗教に熱心な町の人々を差し置いて、彼らに嫌われていた罪人、悪名高き収税人ザアカイの名を呼んだのです。それも、一緒に食事をし、家に泊まるという行動は友情のしるし。主イエスにとってザアカイが愛する友、大切な友人であることを示しています。
しかし、いわば無視された格好の町の人々にとって、主イエスの行動は面白かろうはずがありません。「あの方は罪人の家に行き客となった。」とのことばには強い非難が感じられます。ザアカイに対する友情を示したその瞬間、主イエスに対する人々の尊敬は敵意へと変わったのです。
こうして、主イエスは尊敬される宗教の教師から、罪人の仲間へと落ちてしまいます。しかし、それを気にも留めず、ザアカイに親しく近づき、一緒に家に向かう主イエス。人々に嫌われるのを覚悟のうえで、自分の様な者に友情を示された主イエスの姿を見て、ザアカイはどれ程嬉しかったことか。
主イエスがこともあろうに、人々の中で最も罪深い自分を選び、友情を示してくれた。このできごとをきっかけに、ザアカイの内面は変わり始めます。神の救いは人間の正しい行いによるのでも、財産や地位によるのでもない。ただ神の恵みによる。このことを理解し始めたのです。

ルカ19:8~10「ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子(神に愛されている者)なのですから。人の子は、失われた者(罪人)を捜して救うために来たのです。」

主イエスを通して神の恵みを受け取ったザアカイの心は、喜んで神の教えに従いたいと言う思いに満たされました。彼は二つのことを告白し、約束しています。
一つは、貧しい人々に対するあわれみの心から、財産の半分を施すという告白でした。これまでのザアカイには貧しい人々の存在が目に入らなかったのか。あるいは、目には入っていたけれど、「自分にも守らねばならない生活がある」「それは政府がすべきことだ。」「他の人もしていない。」等、様々な口実を設け、あわれみの心を固く閉ざしてきたのでしょう。
もう一つの約束は、正義に関するものです。ザアカイはこれまで脅し取ることで富を築いてきました。法外な額の税金を徴収したこともあったでしょう。旧約聖書の律法では、だまし取ったお金は20%の利子をつけて弁償すべきと定められていましたが、彼はだまし取ったお金の四倍を返したいと、主イエスに約束しています。
ザアカイは貧者を苦しめる者から、彼らをあわれみ、配慮する者になりました。不法な仕事をする者から、正しく仕事をする者へ、神から与えられた収入によって、隣人に仕える者となったのです。
何故ザアカイの生き方は変わったのでしょうか。これまでは富が自分を救ってくれる富だとザアカイは考えていましたが、主イエスが富に代わりザアカイの神となったからです。神と神の恵みに信頼を置くようになった時、ザアカイは金銭の奴隷から、金銭を正しく使う者、富の主人へと変えられたのです。
以上、主イエスを通して神の恵みを受け取ったザアカイの人生がいかに変えられたかを見てきました。最後に、今日の箇所から二つのことを確認したいと思います。
一つ目は、私たちは正しく仕事をして収入を得るよう命じられていることです。聖書には仕事に取り組む姿勢について、様々な勧めがあります。主人も僕も、今日でいえば雇用主も従業員も主に仕えるように働くことが命じられていました。

エペソ6:6,7,9「奴隷たちよ。ご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、キリストのしもべとして心から神のみこころを行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。主人たちよ。あなたがたも奴隷に対して同じようにしなさい。脅すことはやめなさい。あなたがたは、彼らの主、またあなたがたの主が天におられ、主は人を差別なさらないことを知っているのです。」

 職場の上司や同僚と協力的で、良い関係を築くよう努める。人が見ていようといまいと忠実に仕事を行う。顧客や利用者の喜びのために知恵や力を尽くす。雇用主や上司は部下に対してパワハラや横柄な態度をとらず、彼らが喜んで仕事ができるよう労働環境や収入に配慮する。この社会は私たちが正しく仕事をし、隣人に仕えることで、神の恵みを証しする場となること覚えたいのです。
 二つ目は、収入を正しく使うことです。今日の聖句です。

 テモテ第一6:17~19「今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」

 注目したいのは、パウロが神を「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神」と呼んでいることです。神は私たちが収入を用いて、神が造られた自然や人間が作り出した文化を楽しむことを願っておられるお方です。美味しい料理を楽しむ。スポーツや旅行を楽しむ。ファッション、音楽、絵画を楽しむ。様々な遊びを楽しむ。心地よい住まいや美しい庭を楽しむ。友人たちとの交わりを楽しむ。私たちは神の恵みを大いに楽しんでよい。神はこの世界のものを楽しむ私たちを喜ぶ神であること、心に刻みたいのです。
 しかし、私たちが収入を自分の楽しみのためにのみ使うことで良しと考えるなら、高慢ではないか。神が経済的祝福を与えてくださるのは、私たちがそれを使って「善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与える」ためではないかと、パウロは戒めています。
 ここで勧められているのは、貧しい人々に対する慈善の働きです。聖書は様々な所で、貧しい人々への経済的配慮や、やもめやみなしご、在留異邦人など、社会的弱者の人権や健康的な生活を支えるよう命じていました。
今も世界的規模で富める国と貧しき国の対立が存在します。先進国でも経済的格差が広がり、社会の断絶が広がっていると言われます。富める者のさらなる富の追及が貧しき人々を苦しめているという問題もあります。この様な世界にあって、私たちが正しく働き、正しく収入を使う生活に取り組むことには大きな意味があると、神は語っておられるのです。
すべての人が等しく神の恵みを楽しむことができる世界の実現、それは主イエスの再臨を待たねばならないでしょう。しかし、なしうる限りその様な世界へ近づけるため、神は私たちが仕事に励み、収入を使うこと願っておられる。このみ心を忘れずに、自分の働き方、収入の使い方を振り返るとともに、自分には何が出来るのかを考え、経済活動の歩みを進めてゆきたいと思うのです。

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