一書説教(56)「テトスへの手紙~良いわざに励む~」

 一般的に「振り返ること」は大事なこと、有意義なことと言われます。どのような一日であったか振り返る。どのような一週間であったか振り返る。どのような一年であったか振り返る。振り返ることをしないと、時が経つのが早く、あっという間に一週間、一年が終わってしまいます。振り返ることで、今一度、新たな気持ちで次の一歩を踏み出すことにつながります。
 ところで皆様は、振り返りをする時、どのような視点で振り返るでしょうか。神様からの恵みとして受け取ったこと、祈ったこと、告白した罪で振り返るか。起こった出来事、大きな出来事で振り返るか。学んだこと、身につけたことで振り返るのか。振り返ると言っても、人によって様々。良かったこと、感謝なことを中心に振り返る人もいれば、反省すべきこと、大変だったことで振り返る人もいると思います。
 様々な視点で振り返ることが出来ますが、キリスト者である私たちが取り組んだら良いと思う一つの視点は「言葉」で振り返ること。自分がどのような「言葉」を口にしたのか。
聖書には次のような言葉があります。
 マタイ15章18節~20節

口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。これらのものが人を汚します。
 当時の宗教家たちとの論争の中で、汚れとは何か、何が人を汚すのかイエス様が語られた言葉です。口から出るもの、つまり言葉は心から出てくる。私たちの心にある様々な悪は、言葉として出てくる。それが人を汚すと言われます。自分の心の状態、自分の心にどのような悪があるのか、言葉に表れる。言葉はとても重要なもの。
 このような「心と言葉の関係」があるからでしょう、聖書には次のような言葉もあります。
 コロサイ3章16節
キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
 「キリストのことば」が、私たちのうちに豊かに住む。そうなれば、私たちの口からも、「キリストのことば」が出てくる。「キリストのことば」が心にあるからこそ、互いに教え、忠告し合い、神様を賛美することが出来ると教えられます。
どのような言葉を使っていたか。この視点で振り返るとしたら、私たちの一日、私たちの一週間はどのようなものでしょうか。罪、悪にまみれた言葉で、自分自身と周りの人を汚した歩みとなっていなかったか。「キリストのことば」を口にする歩みとなっていたのか。よくよく考えたいところです。
それでは、「キリストのことば」を私たちのうちに豊かに住むようにするために、私たちは何に取り組んだら良いでしょうか。それは、聖書を読むこと。信仰者の歩みは、聖書を読み続ける歩みです。

 このようなことを考えながら取り組んできました一書説教。通算五十六回目、新約篇の十七回目。今日はテトスへの手紙に焦点を当てます。
最晩年のパウロが記した三部作(テモテへ二通、テトスへ一通。)は、牧会書簡と呼ばれますが、テトス書はそのうちの一つ。先に確認しましたテモテへの手紙は、テモテへの牧会指南書。こちらテトスの手紙は、テトスへの牧会指南書。宛先は違いますが、目的は同じ、書かれた時期も近いため、テモテ書、テトス書はよく似た内容となります。死を間近にしたパウロが、後輩牧師を強め励まし、何としてでも教会が健全に歩むように願って書かれた手紙。全三章の小さな書ですが、パウロの情熱、息吹を感じながら読み進めていきたいと思います。
一書説教の際、説教が終わった後で扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、皆で聖書を読み進める恵みに与りたいと思います。

 宛先のテトスとはどのような人物でしょうか。パウロ書簡の中で、最初に記されたと思われるガラテヤ書の中にテトスの名前が出て来ます。
 ガラテヤ2章1節~2節
それから十四年たって、私はバルナバと一緒に、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。私は啓示によって上ったのです。そして、私が今走っていること、また今まで走ってきたことが無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音を人々に示しました。おもだった人たちには個人的にそうしました。しかし、私と一緒にいたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強いられませんでした。

パウロが異邦人伝道について、おもだった人と話しをするためにエルサレムに上ります。一緒に行ったのはバルナバとテトス。テトスはギリシア人で無割礼の者。なぜこの時、テトスが一緒に行ったのか。正確には分かりませんが、おそらくは、パウロの異邦人伝道によってキリストを信じた人物で、異邦人伝道の正当性を話すのに、良い実例と目されたからではないかと思います。
このテトスは、パウロの手紙に度々名前が出て来ます。パウロ自身が教会に行けない時、教会に留まれない時に教会を治める働きを託された人。最も多く名前が出てくるのはコリント人への手紙のため、コリントの教会と関係が深かったと思われます。パウロの最初の手紙(ガラテヤ書)に名前が出てきて、パウロの最後の手紙(第二テモテ書)にも名前が出てくる人物。
パウロは、ともに福音宣教に取り組んだ者と、いつでも良い関係であったわけではありません。宣教旅行の途中で抜け出したマルコには冷たくあたり、マルコに対する考え方の違いでバルナバとも喧嘩別れをします。(使徒15章36節~39節)デマスという人については、「今の世を愛し、私を見捨てた。」(Ⅱテモテ4章10節)と書いています。しかし、テトスは良い関係が続いたようです。
 つまりテトスとは、パウロが活動をした早い段階から、パウロが信頼を置いた人。バルナバとも顔が通じ、ペテロやヤコブにも知られた人。最初から最後まで、パウロとともに福音宣教に取り組んだ人。
 このような人物なのに、一般的にテトスはあまり有名ではありません。何故なのか。テトスは「使徒の働き」に出てこないのです。似た境遇にあるテモテ(活動の当初からパウロに同行し、パウロと良い関係にあり、牧会書簡の宛先になるという点で、テモテとテトスは同じです)は、使徒の働きに繰り返し記されますが、テトスは一切出てこない。とても不思議で、非常に興味深いこと。天国に行ったら、何故テトスのことを書かなかったのか、ルカに聞いてみたいところ。

 このテトスにパウロが手紙を書きます。次のような書き出しとなります。
 テトス1章4節~5節
同じ信仰による、真のわが子テトスへ。父なる神と、私たちの救い主キリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。私があなたをクレタに残したのは、残っている仕事の整理をし、私が命じたとおりに町ごとに長老たちを任命するためでした。
 パウロはこれまでに書いた手紙の中で、テトスのことを「兄弟」(Ⅱコリント2章13節)、「仲間」「同労者」(Ⅱコリント8章23節)と呼んでいましたが、ここでは「真のわが子」と呼びかけます。牧師としてどのように教会に仕えたら良いかを勧める手紙。先輩牧師から後輩牧師へ書かれたものですが、「先輩と後輩」以上の親しさで語りかけます。信仰生活の中で、心から信頼出来る仲間がいること、その仲間とともに教会に仕えることが出来ることは、大きな恵みでした。
 パウロはここで、「あなたをクレタに残した」と言っています。つまりパウロとテトスはともにクレタに来たものの、パウロだけ先に離れたということになります。先を急ぐパウロが、やるべきことをテトスに託し、クレタを離れた。その後、書かれたのがこの手紙となります。

 クレタとは、アテネやコリントの南にある島、地中海東部に浮かぶギリシア圏最大の島です。古い歴史を持ち、成熟した文化を形成し、交易の要所として栄えていた地域。このクレタの人々について、この手紙の中に面白い深い記述があります。
 テトス1章12節~14節
クレタ人のうちの一人、彼ら自身の預言者が言いました。『クレタ人はいつも噓つき、悪い獣、怠け者の大食漢。』この証言は本当です。ですから、彼らを厳しく戒めて、その信仰を健全にし、ユダヤ人の作り話や、真理に背を向けている人たちの戒めに、心を奪われないようにさせなさい。
 「クレタ人はいつも嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢。」とは、だいぶ辛辣な評価。ここで預言者と言われているのは、エピメニデスという哲学者のことと考えられています。パウロの時代から六百年以上前の哲学者の言葉が、一般的に知られていたことになります。(クレタ人であるアピメニデスが「クレタ人は嘘つき」と言う時、その言葉は信用できるのかという問題が起こります。「エピメニデスのパラドックス」という名で呼ばれるもので、論理学で有名なものです。)
 当時、「コリント人のように生きる」とは、不道徳、不品行な生き方を意味しましたが、「クレタ人のように生きる」とは、嘘つきであることを意味しました。嘘つきの代名詞とされ、嘘つきであるという歴史と文化を持った地域。
 「クレタ人は嘘つき」、これは一般論で、言い過ぎではないかと思いきや、パウロもその通りであると言います。パウロ自身、この地での伝道、牧会で経験したのでしょう。教会形成をする上で大変な地域。

 このクレタで牧会をするテトスへ、パウロは何を勧めているでしょうか。大きく三つのことを確認出来ます。
 一つ目は最初の挨拶でも語られていました、長老を立てるということ。
 テトス1章6節~9節
長老は、非難されるところがなく、一人の妻の夫であり、子どもたちも信者で、放蕩を責められたり、反抗的であったりしないことが条件です。監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。
 長年、牧会者として歩んできたパウロは、教会形成で何を大事にしていたのか。それは長老を立てること。それも、様々な点でしっかりした長老が立つことが求められています。四日市キリスト教会の初代牧師小畑進先生が、教会に赴任する際、真っ先に祈り求めたことは、しっかりした長老が立てられることと言っていました。教会が教会として歩むためには、長老がその職務を全う出来ることが大事。私たちが喜んで教会生活を送るためには、長老がその職務を果たすことが大事と確認します。
 私たちはこれまで、どれだけ真剣に立てられた長老のことを覚え、祈り支えてきたでしょうか。教会を建て上げるというのは、長老のために祈り、長老を支えること。これから長老になる人を育てていくこと。この視点を忘れないようにと教えられます。

 二つ目は、テトス自身がしっかりと信仰者の歩みをすること。「嘘つき、悪い獣、怠け者の大食漢」と言われる人々に囲まれても、その文化に流されないようにと勧められます。
 テトス2章1節~3節
しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを語りなさい。年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。
 パウロはかつて手紙の中で「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。異邦人には異邦人のようになりました。弱い人たちには、弱い人になりました。すべての人に、すべてのものとなりました。」(Ⅰコリント9章)と言い、福音を伝えるために、徹底的に相手に合わせる姿を示しました。
しかし、嘘つきに対して嘘つきとなる、悪い獣に対して悪い獣になるようにとは言いません。「良いわざの模範となるように」(テトス2章7節)教えます。それも、「品位を保つ」、「慎み深く」、「ふさわしくふるまう」という人格的な成熟を心がけるように言います。
 「教会を建て上げる」「教会形成」という時、私たちは活動することをイメージしやすいと思います。宣教活動をする。奉仕をする。しかしパウロがテトスに教えていることは、自分自身の人格的な成熟に気を配ること。私自身が「慎み深く、正しく、敬虔に生活する」(テトス2章12節)ことが、教会を建て上げるうえで、とても大事なことだと教えられるのです。キリストを信じる者に与えられる祝福の一つが、この人格的な成熟であることを、覚えたいと思います。

 三つ目は、その成熟した歩みを自分だけが心がけるのではなく、人々にも勧めること。
 テトス3章1節~8節
「あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。」
 キリスト教は恵みの宗教。神様の愛を得るのに、しなければならないことがあるのでもない。何が出来るのかで救われるのではない。私たちは無条件に愛され、価無しに救われました。しかし、放縦の宗教かと言えば、そうでもありません。結局、キリストによる救いがあるのだからどのように生きても良いとは教えていません。キリスト者のあるべき生き方についても、聖書は多く記しています。
 そしてここはまさに、キリスト者のあるべき生き方について語られるところ。テトス自身が、キリスト者のあるべき姿を目指すのではなく、教会に集う一人一人に、それを教えるようにと言われます。私たちが救われたのは、やがて天国で復活するためだけではない。この地上で、良いわざに励むためでもある。このメッセージをしっかりと受け止めて、互いに注意し、互いに励まし合うように教えられます。
 以上、テトス書について、いくつか確認してきました。どのように教会に仕えたら良いのか。どのように教会を建て上げたら良いのか。全三章の牧会書簡。書き手のパウロの気持ちになって。受け取り手のテトスの気持ちになって。神の言葉として、私に語られているものとして、この書を読み通したいと思います。
 長老のために祈り、支えること。私自身が信仰者として、人格的に成熟しいていくこと。その上で、互いにキリスト者としてふさわしい歩みをするように、注意し、励まし合うこと。私たち一同で、これらのことに真剣に取り組みたいと思います。

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