レント「十字架と復活へ向けて(2)~小さい者たちの一人にしたこと、しなかったこと~」マタイ25:31~46


新型コロナウィルス感染の影響が広がり続ける状況の中、愛する兄弟姉妹と共に礼拝をささげられる恵みを改めて神様に感謝しています。今朝教会に集うことのできた方々だけでなく、場所は異なっても、この日神様を礼拝する兄弟姉妹の存在をも覚えて、礼拝を進めてゆきたいと思います。
先々週世界保健機構がパンデミック、世界的大流行を宣言しました。事態の終息はいまだ見えず、世界中が混乱と不安の中にあります。交通網や通信網の発達によって、一つの国で発生した問題があっという間に世界中に拡大する。ウイルスという医学の問題が日常生活はもちろんのこと、教育にも、経済活動にも、政治にも及ぶ。国々は非常事態を宣言し、人の出入りが制限されたり、禁じられたりする。「国々が自らを閉ざしてブロック化し、世界が分断された。」と評する人もいます。
先週の礼拝では受難週の説教の第一回目として、マタイの福音書24章を読みました。「イエスによる黙示録」とも言われる24章では、主イエスの十字架の死と復活から再臨に至るまで、この世界に一体何が起こるのか、出来事の意味は何かが語られました。
偽預言者、偽キリストの出現など宗教界の混乱、国々の対立や戦争など経済、政治界の混乱、地震など自然界の混乱。人間生活のあらゆる分野における混乱が世界中で増大し、迫害や離散など教会が忍耐すべき苦難も深まって行く。ついには天変地異が起こり、大患難時代が到来する。
これら驚くべき預言のことばを聞いた弟子たちが不安になり、慌てて右往左往しないようにと配慮されたのでしょう。主イエスはすべての出来事は神様のご計画の中にあり、世界が新しくされるため起こるべきこととして、こう言われました。

24:6,8「気をつけてうろたえないようにしなさい。これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。

今回の様な世界大の混乱がこれからも起こり、増大してゆく世界。クリスチャンが信仰のゆえに忍耐しなければならない苦難が深刻化してゆく世界。この様な世界に生きる者として、私たちもこのことばに耳を傾ける必要があります。「気をつけてうろたえないようにしなさい。…これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。」
私たちがこれらの混乱の中にあってうろたえず、苦難を忍耐し、世界中に福音を伝える時、主イエスが再臨される。その日、神様がこの世界を新しくし、天国をもたらしてくださる。この世界が新しく生まれる喜びを思い、これから起こる来る混乱と苦難を忍耐せよ。マタイの福音書24章における主イエスのメッセージを、私たちこの様に確認したいと思います。
さて、今朝読み進める25章を全体として見ておきたいと思いますが、ここには三つのたとえ話があります。三つのお話のテーマは「主イエスの再臨までの間、私たちはどう生きるべきか」で共通しており、これらを理解するうえで鍵となることばがあります。

 24:45~46「ですから、主人によってその家のしもべたちの上に任命され、食事時に彼らに食事を与える、忠実で賢いしもべとはいったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。」

 主イエスはご自分を主人に、私たちを主人の家を管理するしもべ、管理人に譬えています。そして、主人が帰って来る時、幸いなものと見てもらえるしもべとはどの様な者か。三つの点を挙げています。第一は、食事時に同じしもべ仲間に食事を与えること、仕えること、第二は、忠実であること、第三は、賢いことでした。
 これらの内、第三の賢さについては、ともしびをもって花婿を迎える十人の娘の話で教えられています(25:1~13)。第二の忠実さについては、主人からタラントを預かった三人のしもべの話で説明されています(25:14~30)。そして、第三の仕えることについては、今日読み進めるところ(25:31~46)、王として到来した主イエスが、ご自分を信じる者たちを永遠の祝福に、拒んだ者たちを永遠の刑罰に分ける話を通して学ぶことになります。

 25:31~33「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、羊を自分の右に、やぎを左に置きます。」

 いわゆる最後の審判と呼ばれる場面。「人の子」とは主イエスのことで、旧約聖書には、世の終わりに永遠の国を受け継ぐ王として預言され、登場してきます。
また、当時ユダヤで飼われていた羊はやぎと区別しにくいものでしたが、良い羊飼いは一日の終わり、大切な羊がやぎに傷つけられないように、羊の群れとやぎの群れを分ける作業を行うことが多かったそうです。さらに、王の右は王の好意を得た者の場所、左は王に冷遇された者の場所を示していました。
 この世界において、様々な苦難を忍耐してきた信仰者が永遠に安全で安心できる場所に導かれ、守られる日が来る。このことばが代々迫害されてきたクリスチャンたちをどれ程慰めてきたことか。今も激しい苦難の中に置かれている兄弟姉妹の励ましであることか。私たちもまた心のよりどころとしたい主イエスのことばです。
 けれども、さらに嬉しいことに天国での生活へと導かれるその時、私たちは主イエスからもったいない様な祝福のことばを受け取ることができるというのです。

 25:34~40「それから王は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは答えます。『主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』

注意したいのは、これが王として到来した主イエスのことばであることです。普通この世の王、この世の権力者が気にかけることは何でしょうか。自分の富、自分の地位や力、自分の支配力など、自分に関することばかりというのが普通でしょう。
それに対して、主イエスが気にかけているのは、腹をすかせ、一杯の水にも事欠く貧しき人、寄る辺なき旅人、虐げられている裸の人、病人、信仰のゆえに投獄された人など、社会の底辺に生きる者たちなのです。
「…これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」主イエスにとって大切なのは自分のこと等ではなく、自分の兄弟のこと、それも最も小さい者たちのことであった。主イエスが世間から軽視され、弱い立場に置かれた人々に昔から仕え、今も仕え、これからも仕える王であることを教えられ、慰められます。
また、嬉しいのは私たちがこの様な兄弟たちに行う、小さき愛のわざを、主イエスは決して見逃さず、忘れず、誉めてくださることでした。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」こんな優しい王様に早く会いたい、早く来てもらいたい。そんな気持ちになるところです。
さらに、主イエスのことばを聞いた人々の応答にも教えられます。彼らの応答をもう一度確認します。「主よ。いつ私たちはあなたが空腹なのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませて差し上げたでしょうか。いつ、旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せて差し上げたでしょうか。いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」
自分達がなした愛のわざを忘れていたのでしょうか。それとも、自分達でさえ忘れていた小さきわざも、ちゃんと見ていてくださった主イエスの称賛のことばが嬉しくもあり、余りにももったいないと感じたのでしょうか。少し戸惑ったような喜びの声で答える人々の姿は実に謙遜で、主のしもべのあるべき姿を示しており、私たちもかくありたいと思わされます。
それに対して、主イエスを拒んだ者たちへの宣言は厳しくあり、私たちをも戒める力があります。

25:41~46「それから、王は左にいる者たちにも言います。『のろわれた者ども。わたしから離れ、悪魔とその使いのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちはわたしが空腹であったときに食べ物をくれず、渇いていたときに飲ませず、わたしが旅人であったときに宿を貸さず、裸のときに服を着せず、病気のときや牢にいたときに訪ねてくれなかった。』
すると、彼らも答えます。『主よ。いつ私たちは、あなたが空腹であったり、渇いていたり、旅人であったり、裸でいたり、病気をしていたり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』すると、王は彼らに答えます。『まことに、おまえたちに言う。おまえたちがこの最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ。』こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

主イエスを拒んだ人々は、本来なら悪魔とその使いのために用意された世界に行くことになります。それは、彼らが思ってもみなかったような永遠の火、永遠の苦しみの世界でした。
彼らが地上で気にかけていたのは、自分の富、自分の立場、自分の健康、自分の生活のことばかり。主イエスが気にかけている貧しい者、虐げられている者、寄る辺なき者、病人、獄に捕らわれた者の存在など眼中にないか、大して価値がないと思えたのでしょう。
「あなたがたは、わたしが大切と思う人たちに、助けの手を差し伸べませんでしたね。」と告げる主のことばに、「えっ、あんな人たちの存在が、あなたにとってそんなに大切だったんですか。」と言わんばかり。彼らの応答は短く、どこか投げやりで、不服そうに聞こえます。
注目したいのは、彼らは小さき者たちを苦しめたことではなく、愛のわざを行わなかった点において責任を問われている点です。主イエスは、彼らが悪を行った罪ではなく、善を行わなかった罪の責任を問おうているのです。
私たち主イエスを信じる者は信仰によって救われ、天国に行くことができます。但し、天国での生活は保証されていても、この地上でなした行いを主イエスによってさばかれるという点は、主イエスを拒んだ人々の場合と変わりがありません。私たちはなすべきでない悪を戒めるとともに、なすべき善を行うことに心を用いたいと思うのです。
最後に、今日の箇所から大切なことを確認しておきます。
一つ目は、主イエスの再臨の日が来るまで、私たちは天国の到来をただ待っていればよいのでない。主のしもべとしての使命が与えられていると言うことです。24章で確認した使命は世界のあらゆる国々に福音を伝えることでした。今日学んだのは、兄弟愛特に主イエスが最も小さい者と呼ばれた人々に仕える使命です。
 今日の箇所では兄弟ということばが使われていますから、私たちが仕える対象はクリスチャンと言えます。しかし、聖書全体を見る時、これを兄弟姉妹に限定する必要はないでしょう。飢え渇く人々と言って、現代でも多くの人々が飢餓で苦しんでいます。寄る辺き旅人と言って、現代では大量の難民が悲惨な生活を送っています。クリスチャンに限らず、迫害や圧政のもと投獄されている人々も大勢存在します。主イエスが私たちに求めているのは兄弟愛とともに人類愛です。私たちが仕えるべきは教会であるとともにこの世界でもあるのです。
 初代教会が爆発的に成長したのは、教会における兄弟愛がこの世のどこにもないと人々が驚き認めたこと、奴隷や病者など、社会から見放されていた者に対する教会のあわれみの働きが人々の心を動かしたことと言われます。
 私たちもこの時代、この場所で、いかに教会に仕え、世界に仕えてゆくのか。いかに兄弟姉妹を愛し、世界の隣人への愛を示して行くべきか。よく考え、出来ることから取り組んでゆきたいと思うのです。
 二つ目は、この預言のことばを、主イエスが十字架の死の三日前に語ったことの意味です。
主イエスの十字架の死は、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。自己中心に生きようとする罪の力から私たちを解放してくださいました。私たちが神様に愛されている大切な存在であることを教えてくれました。そして、主イエスの復活は、主イエスを信じる私たちも将来復活し、神様が用意された天国での生活という希望をもたらしたのです。
「世界大の混乱が増大し、忍耐すべき苦難が深刻化する世界で、あなたがたがわたしのしもべとして生きるためには、わたしが十字架に死に、復活する必要がある。」。主イエスはそう弟子たちに伝えたかったのでしょう。世界中に福音を伝える使命も、兄弟愛、人類愛の実践も、その思いその力のすべては、主イエスの十字架と復活という事実の恵みから来る。私たちもこのメッセージを心に受けとめつつ、受難週の歩み進めてゆきたいと思います。

コメント

このブログの人気の投稿

レント「十字架と復活へ向けて(3)~激しく泣いた~」マタイ26:31~35,69~75

ウェルカム礼拝「神の恵みによって造られた『私』を生きる」Ⅰコリント15:9~10