Ⅰコリント(29)「一番すぐれているのは愛」Ⅰコリント13:1~13
家族、命、子ども、配偶者、お金、健康、恋人、愛、両親、平和。よく見かけるアンケートですが、「あなたが人生で一番大切だと思うものは何ですか。」という問いに対する回答上位10項目です。ちなみにこれは50代男女の解答ですが、順位に違いはあれど、殆どのものがどの世代にも共通してあげられています。
皆様にとって一番大切なものは、この中に含まれているでしょうか。どれも大切なものだけれど、何が一番かと問われると考えてしまうという人もいるかもしれません。しかし、少なくとも聖書が愛を人生の大切なテーマの一つとして扱っていることはよくご存じかと思います。
親子愛、夫婦愛、兄弟愛、隣人愛、恋愛、母国愛に人類愛。聖書は愛の様々な側面について教えています。特に、今朝私たちが取り上げたコリント人への手紙第一13章は「愛の章」とか「愛の賛歌」と言われ、結婚式で読まれることも多く、有名なところです。「ここで教えられている愛とは何なのか。」「何故、愛が一番すぐれていると言われているのか。」こうした点を意識しながら読み進めます。
先ずコリント人への手紙第一の説教が四か月ぶりとなりますので、この手紙についての背景や全体像を確認したいと思います。世界地図を広げると、ヨーロッパの最も南、アジアに近いところにギリシャがあります。ギリシャと言えばオリンピック発祥の地アテネが有名ですが、紀元1世紀コリントはこのアテネと並ぶ二大都市でした。
「学芸はアテネ、経済はコリント」と呼ばれたように、東西南北、交通の中継点という地形に恵まれたコリントは貿易が盛んで、商業が発展。その富は当時のギリシャ・ローマ世界随一と言われました。
また、ギリシャ人、ユダヤ人、ローマ人、フェニキヤ人、東方の諸民族と様々な人種が集まる国際都市。軍人、商人、船乗り、自由人に奴隷と雑多な人々が富を追求するコリントは経済的には繁栄するも、道徳的には腐敗している。そんな悪評を立てられる町でもありました。
そのシンボルが町に聳える丘に建つ神殿で、そこに仕える巫女の数はおよそ千人。夜になると彼女たちが丘を下り町に現れ、人々の欲望を満たす娼婦となる。コリントは欲望と快楽の町でもありました。
紀元50年頃、この町にキリストの福音を伝え、教会を建てたのが使徒パウロです。その後一旦教会に別れを告げたパウロがおよそ4年後、対岸の町エペソで宣教中のこと、コリント教会から残念な知らせが届いたのです。
その中身は仲間割れ、性的不道徳、離婚、富める者と貧しい者の間に生まれた溝、偶像にささげた肉を巡る争い、礼拝の混乱、キリストの復活を疑う人々など、これが本当にキリスト教会かと驚くような問題ばかり。こうした問題に対応するため、パウロによって書かれたのが、コリント人への手紙第一でした。
しかし、この手紙を読み進めるにつれ、主イエスの恵みによって罪赦されたとはいえ、教会が未だ罪人の集まりであること、私たちも同じく不完全で、罪の影響のもとにあること、コリント教会の人々と同じく、取り組むべき課題をもつ信仰者の一人であることを教えられる。そんな恵みを受け取ってきたと感じています。
さて、今読みました13章いわゆる「愛の章」は、礼拝の混乱という問題を扱っている段落の中に置かれています。礼拝の混乱とは、具体的に言えば礼拝が賜物自慢の場になっていたということです。これまでも何かにつけ対立してきたコリントの人々ですが、教会の礼拝でも誰の、どの賜物が優れているのかを競っていたらしいのです。特に異言の賜物を誇る者たちが混乱の源でした。
この問題を解決するために、パウロがこれまでに教えたことは二つあります。一つは神が私たちに与えた賜物には目的があり、それは兄弟姉妹を助けるためのものであること。二つ目は教会を人体に譬えての教会論です。人体には様々な器官があり、人目に立つ華やかな活動をする器官があれば、地味な働きをする器官もある。けれど、すべてが欠かすことのできない大切な器官で、互いに支え合い一つからだ、一つ命として生きている。教会もそれと同じではないかという教えでした。
12:25~27「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。」
私たちは小指一本ドアに挟んでも、全身に痛みを感じます。足に一本のとげが刺さっても全身で苦しみを感じます。他方、良いことが一つの部分になされるなら、あらゆる部分が満足し、全身で喜びを感じることができます。人の痛みは我が苦しみ。人の喜びは我が喜び。神によって様々な人が集められた教会は、お互いに配慮し合うことで、一つからだとして生かされ、活動する。
様々な賜物を持つ人が集められているという多様性と、一つのからだのように助け合うという一体性。多様でありながらばらばらではない。強制されてではなく自ら進んで支え合い、一体となって歩む。このように多様性と一体性のバランスをとりながら教会が形成されてゆく鍵は愛にあると考えたのでしょう。パウロは、この13章で愛とは何か。何故愛が最も優れた賜物なのかを説くことになります。
ところで、先回私たちは13章前半の1節から7節を学びました。もう一度内容を確認します。
1節から3節では、愛がなければどんなに尊い賜物を用いて活動しても、人の迷惑になるばかりか、何の値打ちもないこと。愛がなければ称賛されるべき慈善活動も犠牲的な行為も、無益であること。神は私たちの心の中に愛があるかどうかを重視する、とパウロは語っています。
それに対して4節から7節では、真実の愛は心の中にとどまらず、寛容、親切など具体的な態度や行動となって現れるべきものであることが教えられ、愛の実践へと私たちも励まされます。
そして、今日読み進める13章後半では、神によって私たちに与えられた様々な賜物の内、最も優れた賜物は愛であることが説かれるのです。
13:8~10「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。」
先ずパウロは、愛の賜物が永遠であるのに対し、預言、異言、知識の賜物は有限であり、時が来れば廃れると説明しています。事実、新約聖書が完成してしばらく後、神のことばを直接受け取り、人々に語る預言者はいなくなりました。異言を語る者はそれ以前に教会から消え去ったと言われます。知識にしても、それが神についての知識であれ、神が創造した世界についての知識であれ、今私たちが知っていることは一部分にすぎず、天国で完全な知識を与えられたら、過去の遺物に等しいと言うのです。
勿論、神について学ぶことも、この世界や人体の法則を発見し、科学や医学の発展に努めるのも尊いことです。しかし、それをもって神について、世界や人体についてすべてが分かったかのように誇ってはならない。むしろ、神についても、世界についても人間の知るところなどほんの一部にすぎないと弁えよ。そう使徒は戒めているのです。
続いて幼子の考え方と大人の考え方が比較され、愛の重要性が語られます。
13:11,12「私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」
この手紙の中で、パウロは教会内で互に争う人々を「キリストにある幼子」(3:1)と呼んでいました。幼子とは主イエスを信じているけれども、信仰的に未熟な人、自己中心的な考え方で行動する者という意味です。
信仰的に未熟な人の特徴は何でしょうか。未熟な人は自分の正しさを信じて疑わず、対立しがちです。すべてを知っているかのようにふるまうことがあります。預言、異言、知識など人の眼に華やかな賜物に憧れます。それに対して信仰的に成熟した人は、他人の意見の中にも良い点や真理を見出すことができます。人の眼に華やかな賜物に憧れるより、与えられた賜物を隣人の益のために用いることに努めるのです。
一言で言えば、未熟な人は自分の限界をわきまえず、自分を誇り、人と争いがちであるのに対し、成熟した信仰者は自分の中にも他の人の中にも賜物を見出し、人と協調してゆけると言えるでしょうか。
さらに、未熟な人は、コリントの教会の礼拝を混乱させていた異言で祈る人々がそうであったように、自分が優れた者であることを周りの人々に認めてもらうことを願います。しかし、成熟した信仰者はもっと神を知ること、神に従うことを願うのです。
当時の鏡は鉄や石を磨いたものが多く、現代の鏡と違って人の顔や物体をぼんやりと映すことしかできませんでした。それを踏まえて、使徒は自分が神について知るところは部分的で、不完全であるのに対し、天国で神と顔と顔を合わせる日には、神を完全に知ることができると確信し、喜んでいるようです。そして、結論でした。
13:13「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」
私たちに与えられた様々な賜物の中で決して廃れず、永遠に残るのは信仰、希望、愛の三つに絞られる。その中で一番すぐれているのは愛。これも愛の章の最後を飾ることばとして有名です。
この永遠に残る三つの賜物を全部並べた何とも贅沢な名前の持ち主が、知多シオンキリスト教会の牧師斎藤愛希信先生でした。若いけれども決して名前負けしない人格の持ち主であると、私は尊敬しています。
私たちは天国に行っても、神を信頼することにおいて成長し、神を知り、世界をさらに良いものにする願いにおいて前進すべきこと、このことばから教えられます。
それでは、信仰、希望、愛の内、愛が最も優れているのは何故でしょうか。よく言われるのは、愛が信仰と希望を生み出す源だから、愛こそ神の本質だからということです。少し理屈っぽくなりますが、神が神以外の誰かを神の様に信頼することはないでしょう。また、完全なる神がより完全を願うというのも変なことです。しかし、神は愛なりと聖書にある様に(ヨハネ第一4:16)、神は永遠の昔から私たちを愛し、これからも永遠に私たちを愛し続けるお方なのです。
最後に、愛の章を読み終え、私たちはこの教えをどのように生活に適用することができるでしょうか。一つ目は、私たちが賜物を用いる際考えなければならない点は、ささげる奉仕が人を助け、人を喜ばせることにつながっているかどうかです。
もし、コリント教会で活動していた異言の賜物の持ち主が、礼拝に出席しているキリスト教初心者に配慮して、分かりやすいことばで聖書のメッセージを語り、祈ることのできる人に奉仕を譲っていたら、初心者は助けられたことでしょう。普通の人には理解できない異言で祈り、賛美することは公の礼拝ではなく、同じ賜物の持ち主同士の集会か、自宅で行うのにふさわしいものであると弁えることができたら、問題は収束したでしょう。
私たちにも自分が認められることを愛する心があります。人から評価されることを愛する性質を持っています。ですから、私たちも自分が認められるより神が崇められることを願う者、自分が評価されるより人を助けることを願う者へと造り変えられてゆくべき存在なのです。私たちが皆この考え方に立って奉仕を行い、教会を建て上げてゆけたらと思います。
二つ目は、コリント教会の問題は現代社会の問題でもあることです。コリント教会は賜物豊かな人々の集まりでした。異言、預言、知識…。どれも尊く良い賜物です。それでは、コリント教会の問題はどこから生まれたのか。それは、彼らの賜物、現代のことばで言えば能力と言い代えることができますが、能力イコール自分の存在価値という考え方にありました。
彼らは自分と他の人の能力を比べ、自分にはない能力を持つ者を妬み、自分よりも能力において劣ると判断する者を見下しました。能力によって人間の優劣、上下を決めるという能力主義の人間観です。礼拝の混乱の源は、この人間観にあったのです。
コリント教会の問題、能力主義は形を変えて、今も家庭、地域社会、学校、企業、政治、宗教、スポーツなどあらゆるところで見られます。残念ながら、教会においても然りです。しかし、神の眼から見る時、能力イコール私たちの存在価値ではありません。神は能力の大小や種類、あるなしに全く関係なく私たちの存在そのものを大切に思い、尊い者と見ておられるのです。
勿論、自分の能力や他人の能力を評価すること、能力の向上に努めることは大切なことです。能力も向上心も神の恵みですから。しかし、それをもって自分や周りの人の存在価値とは見ない。この世の能力主義に飲み込まれない。むしろ神から与えられた最も優れた賜物である愛をもって、自分も隣人も大切な存在と見、ともに生活をしてゆく者でありたいと思うのです。
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